不満を再び抱くヨナ

「不満を再び抱くヨナ」 十一月第二主日礼拝 宣教 2022年11月13日

 ヨナ書 4章5〜9節     牧師 河野信一郎

おはようございます。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそ。心から歓迎いたします。教会の皆さん、教会へお帰りなさい。今朝もこのように皆さんと礼拝堂に集って、またオンラインで賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。誠に主は良いお方です。

 最近またコロナ感染が全国的に再拡大し、感染者数も増加しています。第8波の入り口をすでに入ったと言われていますが、私の素直な思いは「やめてぇ!」というものです。もういい加減に収束して欲しいというのが正直なところですが、この感染状況にも神様の御心があることを信じていますので、気持ちを新たに、11月と12月に感染拡大を抑えて、今年のクリスマスをこの礼拝堂で共にお祝いできるように目標を定めて、わたしたちにできる最善の感染防止対策を講じてゆきましょう。そして、神様に主の憐れみと助けを祈りましょう。

 さて、8月から神様の語りかけをヨナ書からシリーズで聴いています。12回のシリーズで、今朝が11回目となり、次回が最終回となります。わたしは、水曜日の祈祷会でのルカによる福音書の学びとヨナ書の学びの準備の段階から、新しい気づきと恵みが数多く与えられていますが、メッセージが皆さんの信仰の成長につながることをお祈りしています。ルカによる福音書の学びもとても面白いです。毎回たくさんの発見があります。教会ホームページに掲載されていますので、どうぞディボーションのためにお用いください。また、ご友人や家族にもご紹介くださり、ご一緒に聖書を開き、同じ箇所から主の恵みを受けてください。

 ルカによる福音書を学び終えるには、あと一年半ぐらいかかりますが、ヨナ書はあと2回で終わります。神様の御声をヨナ書から聞こうと導かれたきっかけはロシアによるウクライナへの軍事侵攻です。開始からもうすぐで9カ月になりますが、この間、怒りや不満を覚えることが連日起こります。神様の御心はどこにあるのだろうか、いつまでこの状態が続くのだろうかと感じ、多方面から無数の声や意見がひっきりなしに聞こえてきます。その大半は、軍事侵攻を進める国への怒りであったり、侵攻国の国民たちが戦争に反対する声をあげないことへの不満であったり、これから世界はどうなってゆくのだろうという不安であったりするわけです。もちろん、わたしの心の中にも、怒りや不満や不安があるわけで、それらの感情に対して、神様が「お前は怒るが、それは正しいことか」と問うてこられるのです。

 いかがでしょうか。皆さんは、いま心の中に何かしらの怒りや不満を抱いておられるでしょうか。もしそういう感情、苦い思いを心の中に抱いておられるならば、神様は今朝、「あなたの怒りは正しいことか」と問われていることを知ってください。そして、この神様からの問いかけは、「自分の胸に手を当てて、その怒りや不満の根源はいったいどこにあるのか、その思いには正当性があるのか、本当に間違っていないかをよく吟味してみなさい、自分の心を探って見なさい、そして自分の間違いに気付いたら、悔い改めてわたしに立ち返りなさい」という招きであることを覚えていただきたいと思います。心を神様に明け渡し、変えていただき、神様に立ち返る絶好のチャンスを逃さないようにしていただきたいと思います。

 神を恐れない人たちが繰り返す悪や不正や不義に対して怒ることは、決して罪ではないと思います。エフェソの信徒への手紙4章26節の最初の部分には、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」とあります。「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」というのは、主の御心です。悪を憎み、悪に対して怒ることは間違いではありません。しかし、ここで大切なのは、26節の後半の「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」という使徒パウロの言葉にもありますように、わたしたちの怒りを神様に委ねることを通して罪を犯すリスクから遠ざかり、主の御言葉を通して怒りをコントロールするということです。一時的な感情に押し流されたり、支配されて罪を犯してしまうのではなく、常に神様の御心を求めてゆくこと、御心に従うことに神様がくださる真の平安があると信じます。

 さて、今朝の宣教のために準備をしてゆく中で、ご聖霊を通して、わたしの心に強く迫ってきた聖句がありました。それはローマの信徒への手紙14章8節です。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」という言葉です。

 わたしは、この聖句へとなぜ導かれたのか、すぐに分かりました。わたしたちは、神様から「あなたは誰のために生きていますか。わたしのために生きていますか。それとも自分のためだけに生きていますか」と問われています。自分の弱さや至らなさをどこか棚に上げて、繰り返し間違いを犯すヨナに対して、「あぁ、ヨナよ、懲りないなぁ。あなたは神のために生きるよりも、自分のために生きている」と言って、彼を一方的に裁くことはできません。なぜならば、ヨナはわたしたちであり、わたしたちはヨナである可能性があるからです。

 ヨナはわたしであり、わたしはヨナである。その可能性は大いにあると思います。今朝は、先週のメッセージを少し振り返りながら、それがどういう意味なのかをお話ししたいと思います。預言者ヨナは、神からの使命を受けてアッシリア帝国の都、悪が満ちていたニネベに出かけてゆき、神が命じられたとおりに、「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」と宣言しました。その滅びの宣言を聞いたニネベの人々は、身分の高い、低いに関係なく、すべての人が悔い改めて神のもとも帰りました。人々が悔い改めたので、神はニネベを滅ぼすという最初の計画を思い直されます。つまり、異邦人たちが救われたことを意味します。

 人々が滅びから免れたことを喜んでよいはずなのに、ヨナは神様の判断に納得できず、激しい怒りを覚えて、「主よどうか今、わたしの命を取ってください。生きているよりも、死ぬほうがましです」と言って、神様に激しく抗議します。ヨナにとって、ユダヤ人以外の異邦の民が、異教の民が救われることなど有ってはならない、到底受け入れられない、異教の民、異邦人は滅びて当然というねじ曲がった考えを持っていたからだということを聴きました。ヨナという人は、神の愛や憐れみや赦しは、イスラエルにのみ限られるべきだという非常に狭い考え、偏見、差別意識を持っていたということをお話ししました。

 ヨナの根本的な間違いというのは、主なる神には、誰を愛し、憐れみ、赦し、救うという「自由」があるということ、神の愛は一民族を愛する狭くて限られた愛ではなく、すべての人を愛する広がりのある「愛」であるということ、そして何よりも、悔い改めて神に立ち返る者には、誰に対しても罪の赦しと救いを与える「絶対的権威」を持っておられる神であることを理解しないで、自分を「神」のように捉えているということでした。

 つまり、ヨナは自分が考えているとおりに神が動かなければならない、自分の願っているとおりに神は動くべきであると考えていた節があります。「神は、悪に満ちたニネベの人々を滅ぼすべき、彼らを滅ぼすことによってイスラエルに平和と繁栄がもたらされる」と考え、神がニネベを滅ぼすことを心底願い、神様に期待していたのだと思われます。しかし、結果はヨナの願いどおりにはならなかった。ヨナは神様に裏切られたと思い込み、彼の怒りは頂点に達したのだと思います。

 しかし、主なる神様は愛の神であり、何にも束縛されない自由な神です。誰を愛し、どれほど愛するのかという自由と権限はいつも神様にあります。つまり、愛する範囲を決めるのは神様であって、わたしたちにはそのような権限は一切ない。ですから、わたしたちが心の中で「敵」とみなす人々をも神様は愛し、憐れみ、悔い改めることを待っておられることを覚える必要がある。すべての人々、民族、国民は、神様に創造され、愛され、生かされています。しかし、そのことを忘れさせてしまい、差別や嫉妬や憎しみや怒りをわたしたちの心の中に生じさせているのは、わたしたちのうちにある「罪」であることを先週お話ししました。そして、その罪に支配されているわたしたちを救うために、わたしたちの罪を十字架上で贖い、神様の愛と真理と正義の道を教えるために、イエス様はこの地上に遣わされた救い主、神様の愛と赦しの言葉として共に生きてくださるお方であることを聞きました。

 先ほど分かち合いましたローマ書14章の「主のために生きる」とは、本来、主なる神の御心に自分の心を合わせ、神様の御心に従って生きるということです。しかし、こともあろうか、ヨナは自分の思いに神様を合わせようという間違いを犯したのです。自分の都合に神様を合わせさせるという生き方は、「自分のために生きる」ということであり、ヨナは神のために生きるよりも、つまり神様に仕えて生きるよりも、自分の思いを優先させて、自分のために生きていこうとしたということです。

 何故そのような間違いをヨナは犯すようになったのでしょうか。理由は単純明快、とてもシンプルです。ヨナは、自分が神様によって造られ、生かされているという恵み、自分は「主のもの、神に仕える者」であることを忘れ去っているからです。あたかも、自分は自分の意志で生まれて来て、天然の知恵と力に満ちた存在だと勘違いをしているからです。それでは、わたしたちはどうでしょうか。わたしたちは自分が神に創造され、愛され、生かされていることを認識しているでしょうか。そのことを忘れ、どこか自分が「神」のように振る舞っていないでしょうか。そして自分の思い通りにならないと不満をすぐに抱き、怒ったり、誰かを傷つけたり、苦しめ、そして自分をも苦しめていないでしょうか。

 ニネベを滅ぼす計画を思い直した神様に対して怒りをぶつけたヨナは、神様から「お前は怒るが、それは正しいことか」と問われても、無言で神様の前から立ち去ります。4章5節をご覧ください。「そこで、ヨナは都を出て東の方に座り込んだ。そして、そこに小屋を建て、日差しを避けてその中に座り、都に何が起こるかを見届けようとした」とあります。救われる異邦人の都にはこれ以上居たくないと思ったのでしょうか。そこを出て「東の方」に行って、そこに座り込んだとあります。「東の方」とは神様から遠く離れる方角です。「座り込む」とは、神様に対する無言の抗議・デモです。「都に何が起こるかを見届けようとした」というのは、ニネベが滅びることをヨナはまだ諦めずに願っていて、神様が再度心を変えてニネベを滅ぼすかもしれないという一抹の期待を抱いていた表れかもしれません。ヨナの未熟さがうかがえますが、これは他人事ではなく、わたしたちも傲慢さを持っています。

 しかし、そのような傲慢で、強情なヨナに対して、神様はどのように接していかれたでしょうか。6節に、「すると、主なる神は彼の苦痛を救うため、とうごまの木に命じて芽を出させられた。とうごまの木は伸びてヨナよりも丈が高くなり、頭の上に陰をつくったので、ヨナの不満は消え、このとうごまの木を大いに喜んだ」とあります。ヨナ書の中で唯一ヨナが喜んだ場面です。神様は、ヨナを愛するのです。そして彼を救うために、死の淵で苦しむヨナを助けるために巨大な魚を備えられたように、今回はとうごまの木を備えるのです。

 しかし、この神様の備えには綿密な計画がありました。ヨナに神様の御心を教える教育的な目的、深い配慮があったのです。それが7節と8節に記されていることです。読んでみましょう。「ところが翌日の明け方、神は虫に命じて木に登らせ、とうごまの木を食い荒らさせられたので木は枯れてしまった。日が昇ると、神は今度は焼けつくような東風に吹きつけるように命じられた。太陽もヨナの頭上に照りつけたので、ヨナはぐったりとなり、死ぬことを願って言った。『生きているよりも、死ぬ方がましです。』」とあります。ここでもヨナは死を願っています。自分に都合の良いことが起これば単純に喜び、それとは逆のことが起これば大いに落胆し、怒り、そして簡単に死を願う。ヨナの幼稚さが表れています。

 どうして幼稚だと思うのかというと、死ぬほど暑くて苦しいのであれば、今いる場所から移動すれば良いのです。しかし、彼はそこを動かず、その場にとどまりながら、生きていることを呪う、感謝しない。もう2歳児や3歳児のすることと同じです。自身の考え方、あり方、心の方向を少し変えるだけで状況や環境も変わり、喜びを回復できるかもしれないのに、ヨナはそうしないで、周りを変えようとする。そして自分の思いどおりに事柄が進まないと怒り、呪い、死ぬことを求める。わたしたちにも思い当たる部分はないでしょうか。

 しかし、神様はヨナやわたしたちに大切なことに気付かせるために、9節ですが、「お前はとうごまの木のことで怒るが、それは正しいことか。」と問われます。「あなたはとうごまの木が枯れて死んでしまったことを嘆き悲しんでいるが、人の命がなくなる事、滅びることを悲しむわたしがいることに気付かないのか。あなたの命が虚しく滅びることを悲しむわたしがいることに気付かないのか。わたしがあなたを、そしてすべての人を平等に愛していることに気付いてほしい。」と願っておられる愛と忍耐の神様がヨナのすぐ近くに居られて、今朝わたしたちのすぐそばにも居られることに気付きましょう。そして、神様の愛と憐れみ、慈しみと赦しの中で生きること、自分のためだけに生きるのではなく、主のために、神様の愛を必要とする隣人のために生きることを喜ぶ者とされてゆきましょう。そのように生きるために必要なのは、イエス・キリストという救い主です。次回がヨナ書の学びの最終回です。