主が召される執事

「主が召される執事」 一月第二主日礼拝  宣教要旨  2015年1月11日

テモテへの第一の手紙3章8〜11節      牧師 河野信一郎

 4月から始まる新年度の教会の歩みのため、わたしたちは祈りと主への信頼をもって今日の総会に臨み、7名の候補者から4名の執事を選びます。選出するのは確かにわたしたちでありますが、執事を立てられるのは主なる神です。神がわたしたちの信仰を通して4名の兄弟姉妹を来年度の執事として召し出し、神は御心を成されます。執事選出は教会の業であり、神の御業です。主の御心がなりますようにと祈りつつ、この大切な総会に臨みたいと思います。

 執事の働きは、その言葉通り「仕える人」です。ある教会では「役員」と呼びますが、「役員」と聞くととても身分の高い職に思ってしまうのはわたしだけでしょうか。人の上に立つ人のようなイメージを抱いてしまいそうです。しかし「執事」は人々の上に立つ者ではなく、主と教会と人々に心から仕えてゆく存在です。牧師や主事と同様に教会に仕えてゆく者です。執事は教会スタッフとチームを組んで主と教会と人々に仕えてゆく者で、働きは大変であり、かつ重要です。ある人は「執事になることは貧乏くじを引くことだ」と云いましたが、執事になることは貧乏くじを引くことではなく、とても恵まれたことです。その理由は三つあります。

 第一の理由:その人は神に信頼され、主なる神がその人も用いるために召し、その働きに立てられるからです。第二の理由:その人は教会の兄弟姉妹たちに信頼されているからです。第三の理由:執事としての職をよく務めあげた者として、確かにこの地上では身を低くして仕える者ですが、御国では良い地位が与えられると第一テモテ3章13節で約束されているからです。

 牧師家庭に生まれ育った私は、若い時に母から「お父さんのように牧師にならなくても良いから、ただ牧師を全力で支え、教会に誠実に仕える執事とされるように求めなさい」と云われたことが何度かあります。母がなぜそのように云ったのか、その意味がよく理解できるようになったのは、わたしが牧師として召され、この大久保教会に仕えるようになってからです。

 キリストのからだなる教会を建て上げ、形づくり、また福音を宣べ伝えてゆくためにはチームワークが絶対条件です。牧師と主事だけでは担えない働きであり、共に働く執事が必要です。家庭を築くためには夫と妻、そして家族が心一つに取組まなければなりません。コミュニティーを構築してゆく上でも、そこに参加して共に形づくる人たちが必要です。会社をより良い大きなものとしてゆくためには、より良い人材を集め、組織作りをし、チームで一丸となって働く必要があります。教会も一人では建て上げられません。兄弟姉妹たちが共に祈り、時間と能力をささげ、働いてゆく必要があります。すべての信徒がお客さんのように振る舞えば、教会は教会でなくなってしまいます。故に、主なる神は教会に仕える者として執事を選び出し、召し、立てられます。執事として選ばれた人だけが一生懸命に仕え、選ばれなかった人は教会に仕えなくても良いという間違った考えを持つことのないように信仰をしっかりと持ちましょう。

 わたしたち一人ひとりは「仕える人」で、「仕えること」を忘れて「仕えられたい」と思う欲求を持ち続けるならば、わたしたちの心から平安が、人間関係から平和がなくなります。

 教会は、すべての人が互いに仕え合う神の家族・コミュニティーです。わたしたちが仕える居場所が必ず教会にあります。わたしたちはみな神に必要とされています。この恵みにわたしたちはどのように応えてゆくべきでしょうか。その答えがテモテへの第一の手紙3章8節〜11節に記されていますが、8、9、11節を読みましょう。11節の「女たち」は「執事の妻たち」とも「女性の執事」とも訳せる言葉ですが、ここでは「主に仕える女性」と理解したいと思います。

 ここに記されている内容な神が執事に対して求めているだけでなく、わたしたちクリスチャンに求めておられることだと分かります。主なる神が豊かに用いられる人とは、神に対して忠実な人、教会と人々に対して誠実な人、そして自分に対しても信実な人です。ここに記されているようにこの社会の中で生きてゆこうとすればその道はとても険しく厳しいものとなります。生活のどこかで手を抜きたい、息抜きが必要とわたしたちは考えてしまいます。そうでなければ到底やってきけないと感じてしまいます。確かにリラックスし、自分を大切にすることは必要不可欠です。

 しかし、たとえそのような中にわたしたちがあっても、いつも心に覚えておきたいことが一つあります。それは、わたしたちが主と仰いでいるイエス・キリストは、わたしたちに仕えるためにこの地上に誕生され、この地を歩まれ、十字架に架かって死んでくださったということ。その愛と犠牲によってわたしたちは今日生かされているという恵みを。そのことをいつも感謝して生きてゆき、わたしたちがそれぞれなすべき事柄を大切に成してゆきましょう。

 最後にマタイによる福音書20章25節から28節で主イエスが弟子たちにおっしゃっている箇所を読みましょう。「あなたがたの知っているとおり、異邦人の支配者たちはその民を治め、また偉い人たちは、その民の上に権力をふるっている。あなたがたの間ではそうであってはならない。かえって、あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねばならない。それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである。」