主なる神がつないだ系図

「主なる神がつないだ系図」 十二月第一主日礼拝 宣教 2025年12月7日

 マタイによる福音書 1章1〜17節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。主の恵みのうちに12月最初の主日の朝を迎えました。神様の招きに与り、今朝も皆さんと共に神様に賛美と礼拝をおささげできる幸いを主に感謝いたします。クリスマスまであと18日、2025年も残すところあと24日です。今年も、主の豊かな憐れみの中、大久保教会として共に前進し続けることができて感謝です。一進一退のように感じる時も確かにありますが、年間標語として掲げているように、これからも生き生きと主の恵みに応答する教会として歩ませていただきましょう。そのように歩むことが神様の御心です。

 

さて、今年は大久保教会が創立してから60回目のクリスマスを迎えますが、今朝の礼拝には56年という長きにわたって大久保教会に忠実に仕えて支えてくださったKご夫妻が出席くださっています。7月の創立60周年感謝礼拝も喜びに溢れた礼拝でありましたが、今朝、Kご夫妻と共にささげる礼拝もこの上ない喜びの時、恵みの時です。このような祝福をわたしたちにくださる神様に感謝します。お住まいが遠くなりましたが、これからもご夫妻が主の伴いとお守りの中で健やかに生活されますように祈り続けてまいりましょう。

 

さて、先週30日からイエス・キリストの誕生を喜び祝う心の準備をする待降節・アドベントを過ごしています。また、本日まで世界宣教を覚えて祈る世界バプテスト祈祷週間を過ごしていますが、この待降節と世界祈祷週間をわたしたちはいつまで覚えて過ごすのでしょうか。それはイエス・キリストが使徒たちに約束された通り、イエス様が王としてこの地上に再び来られ、すべてのすべてを完全に統治される時までです。イエス様の誕生を「初臨」と呼び、再び来られることを「再臨」と呼びますが、イエス様の誕生の「理由」を正確に知り、イエス様が再びこの地上に来られるまでイエス様の十字架の贖いの死と復活を証ししてゆくことが主から委ねられたわたしたち一人ひとりの、教会の「使命」であることを再確認してゆくことが、アドベントシーズンと世界祈祷週間の過ごし方と言えると思います。

 

今朝の礼拝への招きの言葉として詩編130編の7節8節を読みましたが、主なる神様に信頼を置く者たちに対して詩人は、「主を待ち望みなさい。わたしたちに対する慈しみは主なる神のもとにあり、豊かな贖いも主のもとにある。主に信頼を置くすべての人の罪を神様が贖ってくださる。」と励まし、神様の確かな約束が記されています。この約束は、神の子イエス・キリストによって守られ、成就したのです。イエス様がカルバリの丘に立てられた十字架上で流された尊い贖いの血潮と命を捨てた死によって、わたしたちの罪の代価はすべて支払われました。わたしたちは、この救い主を通して、神様の慈しみを今朝も受けています。

 

この救いは、イエス・キリストを通して、すべての人に神様から平等に与えられている恵みです。生きた年代も、人種も、性別も、年齢も、社会的地位も、境遇も一切関係ありません。すべての人は神様によって創造され、神様の愛の中で生かされている存在です。すべての人が神様の愛の対象者です。その愛から漏れている人はいません。しかし、神様を畏れずに自分勝手に生き、神様から差し出される愛の御手、救いの御手を拒む人もいます。けれども、そのようなことに落胆せず、救い主が誕生したことを人々に告げ知らせ、「一度来てみてください」とクリスマス礼拝に招くことが、今年もわたしたちに委ねられています。

 

さて、今朝は、マタイによる福音書の最初に記録されている「イエス・キリストの系図」から、主なる神様がアブラハムに約束された祝福は、長い歴史の中でも片時も途切れることなく神様が守ってくださったということ、神様がつなげてくださったということをご一緒に聴いてゆきたいと願っていますが、まずこの福音書を記録したマタイは何故イエス様の系図を福音書の冒頭に記したのかという素朴な質問から答えてゆきたいと思います。

 

まず1節に、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とありますが、このマタイ福音書はアブラハムの子孫であるユダヤ人たちに読んでもらい、イエス様が父祖アブラハムと偉大なるイスラエルの王ダビデの血を引き継ぐ正統な末裔であること、待ち望んでいたメシア・救い主であることを証明し、伝える目的で記されました。イスラエルの歴史の中で神様が働かれ、その民を守られてきたという神様の真実さを示すことだけでなく、そのように守ってつなげてきたことには理由と目的があるということを示すために記しました。

 

端的に言いますと、主なる神様はイスラエルがどのような状態にあっても、常に近くにいてくださり、守り導いてくださるという神様の愛と真実さを記します。この系図を通して分かることは、イスラエルに対する神様の愛と救いの約束は歴史を貫くということです。

 

17節を読みますと、「こうして、全部合わせると、アブラハムからダビデまで一四代、ダビデからバビロンへの移住まで一四代、バビロンへ移されてからキリストまでが一四代である。」とありますが、14という数字は7という完全数の倍の数です。つまり、神様のイスラエル、そしてわたしたちに対する愛は完全な愛であり、神様の救いの約束は完璧に果たされるということです。つまり系図は、神様が慈しみをもってご計画されたイスラエルとすべての人に対する救いの歴史であるということです。歴史には良い時代も悪い時代もあります。

 

アブラハムからダビデまでの14代は「成長と繁栄の時代」を過ごしました。神様を畏れ、神様の言葉に聞き従ったからです。ダビデからバビロンへの捕囚の14代は「没落の時代」です。神様との契約を忘れ、神様の言葉に歯向かって偶像礼拝に走ったからです。バビロンへ移されてからキリストによって解放されるまで14代が「暗黒の時代」です。神様の裁きによってアッシリアとバビロニアの捕囚の民となり、エルサレムと神殿は破壊され、捕囚から解放された後もエルサレムの復興、神殿と城壁の再建の責任が重くのしかかります。

 

しかし、そのような暗黒の時代に、神様からイエス・キリストという「救い主」、「神の言葉」、「世の光」が与えられます。アブラハムと交わされた祝福の約束を神様は愛と慈しみをもって果たそうとされるのです。ここにわたしたちに対する神様の真実な愛があるのです。この真実な愛にわたしたちはどのように応答してゆくべきでしょうか。イエス様がわたしたちにその心を、その命を十字架上で与えてくださったように、わたしたちも心を主にささげ、命をもって主の御用のために用いてゆくことが大切であり、御心ではないでしょうか。

 

神様が真実をもって共に歩んでくださるように、わたしたちは小さく弱い存在であるけれども、神様には忠実に、隣人には誠実に生きるべきではないでしょうか。そのように生きることができるように、イエス様がいつもわたしたちと共に歩んでくださり、愛してくださり、祈ってくださり、言葉をかけてくださるのです。

 

このイエス様の系図には、5名の女性が記されています。それは男性優位のユダヤ社会ではあり得ないこと、異例中の異例です。しかし、主なる神様は男性だけを用いて祝福の約束を果たす方ではありません。男性の弱さ・罪深さによって神様とその祝福から切り離されそうになった状態をつなぎ止めるために神様は小さくされていた女性たちを用いられるのです。

 

3節に登場するタマルという女性は、義理の父であるユダと関係を持ち、ユダの子を産みます。ユダが義父としての責任を果たさなかったのです。5節に登場するラハブは遊女でしたが、そのようなことをさせてしまう男性たちに責任があります。彼女はサルモンによってボアズの母となります。そのボアズと結婚したのがルツという女性です。彼女はユダヤ人から最も軽蔑されていたモアブ人ですが、そのような理不尽な扱いを受けていた女性をボアズと結婚させてオベドの母とさせ、このオベドからダビデ王の父エッサイが生まれます。

 

6節に、「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけた」とありますが、性的欲望に満ちたダビデ王が王としての権力を乱用して部下のウリヤからその妻を略奪し、ソロモンを産ませます。彼女の名は、バト・シバです。ここからイスラエルの歴史は繁栄の時代から没落の時代へと突き進み、暗黒の時代を過ごす事になります。

 

このように、アブラハムから始まる系図には、男性たちが神様に対して繰り返し犯してきた罪の歴史が綴られ、しかしその歴史をつなげるために女性たちを神様が用いられたことが記されています。男性中心の社会の中で、闇の中で虐げられ、小さくされ、涙を流してきた女性たちを神様は決して忘れないで、神様の御用のために用いられるということが記されています。神様が祝福の約束を守るために、イスラエルを守り、イエス様の系図をつなぐために女性を用いられるのです。

 

救いの約束を果たすために、救い主をこの世に派遣するにあたり、神様はマリアという女性を用います。18節に、マリアはヨセフと結婚する前に、「聖霊によって身ごもった」とあります。救い主は、罪ある男性からではなく、ご聖霊によって処女マリアを通して生まれる必要がありました。男性を知らない女性が妊娠することなどあり得ないとわたしたち人間は考えますが、神様にはできないことは何一つないのです。

 

あり得ないことを神様が成してくださる理由は、わたしたちを愛してくださるからです。その目的は、イエス様を救い主と信じる者たちを救い、神の子としてくださるためです。わたしたちは、正真正銘、罪に生き、その罪の闇の中で苦しみ悶える者です。神様から遠く離れて生き、死に向かって生きる者でした。しかし、そのようなわたしたちを神様は憐れみ、救い主を与え、救いへと、光の中へと招かれるのです。そこに神様の真実な愛があるのです。