主に選ばれた者の使命

「主に選ばれた者の使命」 六月第四主日礼拝 宣教要旨  2016年6月26日

ヨハネによる福音書 15章16〜17節       牧師 河野信一郎

4月からシリーズで語ってきましたヨハネによる福音書15章1節から17節の宣教も、今回の16〜17節が最後となります。十字架の死を前に、地上に残してゆく愛弟子たち、わたしたち教会に主イエスが語られた言葉です。過去9回の宣教は要旨を読み返してください。

主イエスは16節で、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と弟子たちに明言していますが、その理由は弟子たちの中に「自分の意志で弟子になることを決めてイエスに従ってきた」という考えや「わたしは主イエスに特別に選ばれた弟子である」という傲り高ぶりがあったからです。また、弟子たちの間で「誰が主イエスの一番弟子なのか」と傲慢にも争っていたからです。同様な危険性が今日のクリスチャンにも潜在的にありますから、謙って、信仰の帯をしっかりと絞め直す必要があります。

確かに、イエス・キリストに弟子として選ばれることは、喜ばしい恵み、光栄なことですが、弟子たちを選ばれた神と主イエスには特別な目的があることを決して忘れてはならないと16節の中ほどの主の言葉から示されます。「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」とあります。ここから、キリストの弟子たちには大事な使命があることが判ります。

ヨーロッパ連合から離脱することをイギリスが国民投票で決め、世界中に衝撃が走りましたが、そもそも何の目的のために12カ国が集まって「EU」を立ち上げたのでしょうか。共に協力して豊かな実を結ぶためであったと思いますが、イギリスはそこから自らを切り離しました。これからヨーロッパ、世界はどのようになってゆくのでしょうか。この出来事から、キリスト教会も、主に召され・選ばれた目的を見失い、スタンドプレイを選び取るような傲慢さをたった一人が持つことでバラバラになることを肝に銘じなければなりません。

主イエスは、わたしたちが全世界に出て行ってキリスト・イエスを通して与えられている神の愛、赦し、救い、希望を宣言すること、その働きに実がその地に残ることを期待して任命されました。そしてその働きを遂行してゆく上で必要なものをすべて主イエスの御名によって神に祈り求めるならば、すべて与えられるとここで約束されています。「主イエスの御名によって祈る」とは、主イエスがわたしたちの側に共にいて、共に求めてくださることです。

キリスト教会は、主イエス・キリストによって選ばれ、任命された者たちが集められる神の家族です。この神の家族に全ての人が招かれていることを伝えてゆくことがわたしたちの使命であり、わたしたち主にある兄弟姉妹たちが互いに愛し合い、助け合い、祈り合ってゆくことによって、神の家族の素晴らしさが証しされると主イエスは17節で命じています。

この主イエスにしっかりとつながっていなければなりません。そして主イエスが愛してくださったように愛し合ってゆくことが御心です。主イエスはわたしたちを救うためにその命を十字架上で「捨てて」くださいました。実は、この「捨てる」というギリシャ語は「任命する」という同じ「ティセミー」という言葉がここで用いられています。この言葉は、他に「差し出す」、「置く」という言葉としても用いられます。つまり、キリスト者に大切なのは、主を信じて、主の御用のために、主の御前に自分自身を「差し出す・置く」ことです。わたしたちがそんなに弱く、罪深く、汚れていたとしても、自分自身を主イエスの御前に置く時に、その愛・十字架の血潮で清めてくださり、まったく新しくしてくださり、主の御用のために用いてくださるのです。ただ神の憐れみ、恵みに寄りすがって行けば良いのです。ただ日々謙り、この恵みに応えて生きてゆく事を選び取ってゆく時、わたしたちは互いに愛し合い、互いの命と存在を敬い合うことができるのではないでしょうか。