主のお言葉どおりの復活

「主のお言葉どおりの復活」 イースター礼拝宣教 2021年4月4日

  マタイによる福音書 28章1節〜15節    コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12節〜21節      牧師 河野信一郎

 イースター、おめでとうございます。昨年のイースターは新型コロナウイルス感染防止のため、1回目の緊急事態宣言のためにオンラインのみの礼拝となり、ご一緒にお祝いすることができませんでしたが、今年はこのように礼拝堂に集う方々が与えられて感謝です。東京の新規感染者数が400名を超える日々が四日間続いていますので、まだまだ細心の注意を払ってゆく必要がありますし、教会に戻りたくても戻れない方々もおられますので、そのような方々が教会に戻れるようになるまで、その日が1日も早く来ますように祈り続けてゆきましょう。

さて、今日はイエス様の甦りを喜び祝う日であると同時に、新しい年度が始まって最初の主の日です。今朝は、礼拝第二部で執事の就任式もありますが、礼拝への招きの言葉として2021年度の年間聖句であるコリントの信徒への手紙Ⅰの15章58節を読んでいただきました。週報表紙の左側に記されておりますが、年間標語は「主の業に常に励もう」で、副題は「危機で得た恵みに立つ教会」としました。危機とは、言うまでもなく、コロナパンデミックによってもたらされたコロナ危機のことですが、そのような危機を乗り越える中で受けた様々な恵みの上に教会の業に励むこと、そしてさらなる教会形成の働きと成長を目指してゆきます。

今年度の聖句は、来週の礼拝の中で宣教いたしますが、今一度そこを読みたいと思います。「こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」この言葉を大久保教会の2021年度の活動の中心に据えて、主を見上げつつ、神様の愛とイエス様の救いを一人でも多くの方々へ分かち合うことを共に進めてゆきたいと願っています。そのために、主日礼拝をまず大切にし、共にみ言葉に聞いて養われること、ご聖霊に励まされて共に祈ること、共に成長すること、多くの実を結ぶことを求めましょう。

 さて、今朝もみ言葉に耳を傾けてまいりましょう。今朝は、少し長かったですが、2つの聖書箇所を読んでいただきました。二つともイエス様のご復活ということがテーマとなっています。4つの福音書には主イエス・キリストの十字架の死とご復活の出来事がそれぞれの視点から記録されていますが、マタイによる福音書だけがイエス様が葬られた墓を守る番兵がついたということと何故ついたのかという理由、そしてその結果が記されています。

 本来ならば27章の62節から28章の15節まで読むべきであったと思いますが、時間の関係上、最初の部分を読みませんでしたが非常に興味深いことが記されています。イエス様を十字架につけた祭司長やファリサイ派の人々が総督ピラトの所へ来てこのように頼むのです。「閣下、人を惑わすあの者(イエス)がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。ですから、三日目まで墓を見張るように命じてください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、「イエスは死人の中から復活した」などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります」と。

祭司長たちは、イスカリオテのユダからそのような情報を得ていたのかもしれませんが、彼らは弟子たちがイエス様の遺体を盗み出すと本当に思っていたようです。しかし、彼らはイエス様が復活することはまったく信じておらず、盗み出されることを心配し、もしそうなったら自分たちに不都合が生じると考えて番兵を置くようにしました。死者の復活を否定することを神学的特徴とし、そのことでイエス様とも何度もぶつかったサドカイ派の息がかかっていたのかもしれませんが、復活を阻止しようと考えたのです。

 しかし、イエス・キリストの復活は弟子たちが引き起こした仕業ではなく、神様のみ業でした。神様がイエス様を死人の中から引き上げ、甦えさせられたのです。その復活の出来事が4つの福音書に記され、マタイによる福音書では28章1節から10節に記されています。けれども、今朝はそこに記されている多くの興味深い部分はお話しせず、宣教の最後にとある1節にスポットライトを当てて、今回は11節から15節に記されている出来事に注目したいと思います。

 もし1節から10節の部分についてもっと聞きたい、もっと知りたいと願われる方は、アメリカのガーデナ・トーランス南部バプテスト日本語教会にわたしが先週お送りしたイースターメッセージがその部分を取り扱っており、たくさんの恵みを分かち合わせていただきましたので、ガーデナ・トーランスの教会フェイスブックへの投稿を是非お読みいただければと思います。

 さて、11節から15節に誠に残念なことが記されています。先ほど読んでいただきましたが、もう一度読みます。「婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事(つまりイエス様の復活の出来事)をすべて祭司長たちに報告した。そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。『「弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った」と言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。』兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間で広まっている。」

 ここに、イエス様が葬られた墓を守る番兵が何故ついたのかという理由とその結果が記されています。神様がなさった驚くべき復活のみ業を人間がなした業とすり替えようとした事実をマタイははっきりと記します。何故ならば、イエス様が天に引き上げられた後、ご聖霊が地上にくだり、キリスト教会が誕生し、主イエス・キリストの福音、十字架の贖いの死と三日後の復活がエルサレムからコリントやフィリピやガリラヤ、テサロニケという異国人たちに宣教され、キリスト教会が形成されてゆく中で、死人の復活などありえないと主張する人々が出てきて、教会は揺さぶられます。教会の信仰告白だけでなく、信徒一人一人の信仰告白が試されます。

 死人が甦ると信じる人は日本やアジア諸国では少なく、輪廻転生や極楽浄土という考えを持っておられる方が大勢おられます。そのような社会の中に生きるクリスチャン、イエス・キリストを救い主と信じて従う者たちは動かされないようにしっかり信仰に立ち、主イエスの十字架と復活を常に証しするように命じられ、励まされていますが、使徒パウロは全世界に離散しているキリスト者、そして現代に生きるわたしたちクリスチャンを励ますために手紙の中で復活について懇切丁寧に教えてくれていますので、今日はその部分に聞いてゆきたいと思います。

 その箇所というのは、先ほど読んでいただいたコリントの信徒への手紙Ⅰの15章です。ここでパウロ先生は、イエス様の十字架の贖いの死と復活は他でもない、すべて神様からいただく恵みであり、その恵みを神様の愛と信じることが信仰であり、イエス様を信じる者たちは死んでも生きる、つまり恵みのうちに永遠の命が一人一人に与えられ、神様がおられる天国で永遠に生きる恵みが漏れることなく与えられているとパウロ先生は言っています。

 キリストの復活を信じるという最初のステップが最も難しいのですが、この真実を信じたら恵みがさらに倍増してゆき、次のステップはとても簡単になるとパウロ先生は考え、この15章をステップバイステップで構成しています。ですから、復活など信じられないと立ちつくさないで、諦めないで、小さなステップでも踏み出してみようと少し心を開く時、その時初めてイエス様から差し出されている御手を見つけることができると思います。そしてそのイエス様の御手には十字架につけられた釘の傷跡があり、その傷跡はわたしの罪の代価を支払うために十字架で受けてくださった傷であることがご聖霊の導きによって感じるようになるでしょう。

 それではコリントの信徒への手紙Ⅰの15章12節から読み進めてゆきたいと思います。14節まで読みます。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。

 皆さんは、「もしイエス様の復活がなかったとしたら」ということをお考えになられたことがおありでしょうか。わたしはこの問いと向き合うことイコール自分の存在を確かめる行為であり、もしイエス様の復活がなかったら、祭司長たちが主張したかったように、弟子たちがイエス様の遺体を盗んで行ったのならば、死人の復活はないですし、すべてが愚かなことになってしまい、つまりわたしの存在自体が愚かなことになり、全否定されることになってしまいます。それよりにも、新約聖書のすべてが全否定されることになります。

 キリスト教会の信仰の柱、クリスチャンの信仰の柱は、神様の愛を表すイエス様の十字架と復活であり、十字架の死と復活は表裏一体です。切っても切れない一つの真理です。しかし、もしイエス様の復活が真実でないならば、わたしたちクリスチャンの、キリスト教会の柱はすべて粉々になってしまいます。キリストの復活がなければどういう信仰の柱が吹き飛んでしまうのかをご一緒に調べてゆきたいと思いますが幾つかあります。

 14節をご覧ください。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教も無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」とあります。福音はただのゴシップであったということになります。そして復活を信じて歩んできたすべてのクリスチャンは無駄で虚しいことをしてきたということになります。とっても恥ずかしことで人々から嘲られても何も反論できなくなります。

 15節です。キリストの復活がなかったら、「わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死人が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」とあります。人々を惑わす大嘘つき、ペテン師、詐欺師とさえ呼ばれてもおかしくありません。

 17節をご覧ください。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。つまり、そうなるとイエスはペテン師の大親分であり、罪人の頭であるから、わたしたちの罪は贖われておらず、今も罪の中にあるということになり、救われていないということになるのです。そうだとすると、18節にあるように「キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまった」ということになります。

 もうここまでくると、わたしたちの多くは耳を塞ぎたくなるのではないでしょうか。そう感じるわたしたちにパウロ先生は19節で「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」となるのですと追い討ちをかけます。もしイエス様の復活がなかったら、「わたし」という存在は最も惨めな存在となり、わたしの家族はみんな惨めな人々、この礼拝堂に集われている皆さん、オンラインで礼拝をささげておられる皆さん、イエス様に希望を抱いている全世界のすべての人たちが惨めな者になってしますのです。こんなに悲しいことは他には存在しないのではないでしょうか。

 しかし、真実はそうではありません。神様からこの地上に救い主として遣わされた神の御子イエス・キリストはわたしたちの罪を贖うために十字架に死なれ、十字架の死の最後まで従順であったイエス様を神様が甦らせたのです。20節から21節を読みます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人(アダム)によって来たのだから、死者の復活も一人の人(イエス)によって来るのです。」ここに「実際」とあります。イエス・キリストの復活を宣言した天使はマグダラのマリアたちにこういうのです。マタイ28章5〜6節、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」。イエス様のご復活を最初に宣言したのは天使ではなく、イエス様ご自身であった。ご自分のお言葉どおり神様によって復活されたのです。わたしたちは他でもないこの真実な救い主の言葉を信じなさいと今朝招かれているのです。