「主の言葉と業を忘れずに生きる」 二月第二主日礼拝 宣教 2025年2月9日
申命記 8章11〜20節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。初めて礼拝に出席くださった方々、ようこそ大久保教会へ。心から歓迎いたします。教会の皆さん、お帰りなさい。オンラインで礼拝をおささげくださっている方々、ありがとうございます。特にご病気で教会に戻れない方々が一日も早く回復されますようにお祈りします。また、災害級の大雪で大変な中で生活されている北海道から日本海側の地域におられる方々を覚えて祈る者です。去る7日と8日に、わたしたち教会が加盟しています日本バプテスト連盟の定期総会が開かれましたが、そこでは諸教会が被災されたという報告はありませんでした。しかし、今朝も大雪のために礼拝に集えない方々が大勢おられることと想像いたします。そのような方々がおられるということを覚えながら、神様のお守りを祈りましょう。
皆さんの去る週の歩みは、いかがであったでしょうか。わたしは、時間的にタイトで、精神的にも非常にタフな一週間を過ごしました。今朝、皆さんの前に、こうして立っていられるのも、只々神様の憐れみです。しかし、もしかしたら、皆さんはわたしよりももっと大変な日々を過ごされていたかもしれませんが、わたしたちは今朝ここに礼拝者として置かれています。神様の憐れみ、恵みです。大変な困難や試練があっても、今朝もこのように生かされている。心臓が動いている。この場に集うために必要なものが神様から与えられている。それはすべて憐れみです。この神様の愛を、憐れみを忘れないで、感謝してゆく時に、この時、この場所で、新しい週を歩み出す力、さらに前進する力が与えられるのだと思います。
さて、先週と今週は、旧約聖書の申命記という書物の第8章に聴いてゆくことにしました。先週は1節から10節を聴きましたが、今朝は11節から20節にある御言葉に聴いてゆきます。先週のメッセージは、教会ホームページに掲載されていますので、読んでみたい、聞き直してみたいという方はぜひお読みいただければと思いますし、ユーチューブもあります。
しかし、お忙しい方、お急ぎの方のために、大切なことを少し振り返っておきたいと思います。この申命記という書物は、300年にわたってエジプトの地で奴隷生活を強いられていたイスラエルの民が、その生活から解放され、荒野で40年間過ごすことになりましたが、その旅もようやく終わり、神様が約束されたカナンの地が目前に迫ってきた時に、イスラエルの民を40年間ずっと導いてきたモーセという指導者が民に対して語る告別説教です。これからあなたたちは神が約束された土地に入ってゆくが、その前に心の備えをしっかりしなさいと励ます言葉が語られています。その内容は、現代のわたしたちにも有益なものです。
約束の地に入る前に、モーセがイスラエルの民、その一人ひとりの心に語りかけ、その心に刻みたかったこと、それは約束の地に入っても、主なる神様の口から出る言葉を守り続けるということです。神様の言葉は、律法、掟、定めということでもありますが、それを守り続けるということです。1節の前半に、「今日、わたしが命じる戒めをすべて忠実に守りなさい。」とありますように、約束の地に入って、「自由だ。もう大丈夫。」と安心しきって、自由気まま、勝手気ままに生きようとしないで、常に神様を畏れ、神様の言葉に聴き従いながら生きなさいとモーセは語るのです。釘を刺しているわけです。
なぜそのように生きることが大切なのか。それは1節後半にあるように、「そうすれば、あなたたちは命を得、その数は増え、主が先祖に誓われた土地に入って、それを取ることができる。」からです。これは神様の祝福を受けるということです。今日を生かされているわたしたちに重要なのは、神様を畏れ、神様の御言葉に聴き続けて生きることです。
2節でモーセは、「あなたの神、主が導かれたこの四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわち御自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた。」と言っています。神様がイスラエルの民をエジプトの奴隷の生活から救い出し、これまでの40年の荒野の歩みも愛と忍耐と備えをもって守り導いてくださったことを忘れないで生きなさいと励ますのです。
さて、先週のメッセージで間違ったことを言いましたので、ここでお詫びして、訂正したいと思います。わたしは「エジプトからカナンの約束の地へは、最短1ヶ月で行ける距離です。」と申しましたが、正確には「最短で10日ほど」の計算になります。エジプトからカナンの地までは約354キロ、健康な人が一日平均35キロ歩けば、10日で着ける計算になります。しかし、600万人強とも言われる流浪の民の中には子どもや高齢者もいたと思われますので、そういうことも考慮して「1ヶ月」と言いましたが、正確には最短で10日ほどです。申し訳ありません。しかし、それが40年も要したのは、イスラエルの民が事あるごとに神様に対して不平不満を口にし、神様を試み、挙げ句の果てには金の子牛を作って偶像を拝み、神様の言葉、戒め、定めに聴き従うことをしなかったからですとお話ししました。イスラエルの民が新しくされ、約束の地へ入ってゆくためには40年が必要であったのです。
さて、これから導き入れられる土地は「良い土地」だとモーセは言います。生活する上で何一つ不自由な思いをすることのない豊かな土地だと7節から9節で言っています。そのような素晴らしい土地でイスラエルの民が何をすべきか。10節に、「あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい。」とあります。これまでの苦しかった歩み、辛かった過去から解放されて、良い土地へ入ってあなたがいつも成すべきこと、それは神様を神として畏れ、神様の愛と憐れみの中で生かされていることを喜び、感謝をささげることです。それは、新しい週を今日から歩み出してゆくわたしたちにとっても大切なことです。神様の憐れみなくして今日という日を生きられないからです。
モーセは11節で、「わたしが今日命じる戒めと法と掟を守らず、あなたの神、主を忘れることのないように、注意しなさい。」と警告します。約40年前にエジプトを脱出した民に十の戒めが与えられましたが、それを今日覚えて守りなさいというリマインダーです。「注意しなさい」とは、慎みなさいということ。神様を忘れて、自分で自由になったかのように振る舞ったり、浮かれるなということです。神様という存在とその言葉を忘れてしまいますと、わたしたちは間違いを犯し、その間違いを何度も繰り返して自滅してしまうからです。
12節から14節の前半には、神様から心が離れ、自滅してしまう要因がいくつか挙げられています。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、銀や金が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。」とあります。自己満足、富への執着、心の驕り高ぶりが神様から心を離れさせ、自堕落な生活に陥る原因だとモーセは先回りして警告しています。食べ物、家や家畜や財産は神様が与えてくださる祝福・恵みです。しかし、それらを自分の力と知恵、努力で得たかのように勘違いして自由気ままに振る舞ってしまう人々が増えると、妬みや憎しみが生まれ、奪い合い、争いが生まれ、祝福の地であるべき土地が嘆きと悲しみの地になってしまいます。
しかし、それは神様の御心、願いではありません。そういう目の前の富に目を注ぐのではなく、恵みの源である神様に目と心を注ぎ、感謝し、主をほめたたえなさいとモーセは言うのです。14節の後半から16節を読みます。「主はあなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出し、炎の蛇とさそりのいる、水のない乾いた、広くて恐ろしい荒れ野を行かせ、硬い岩から水を湧き出させ、あなたの先祖が味わったことのないマナを荒れ野で食べさせてくださった。それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった。」とあります。
「炎の蛇」とは、荒野に生息していた毒蛇のことで、この蛇に噛みつかれて多くの人々が亡くなったことが民数記21章6節に記されています。噛まれると焼けつくような激しい痛みを伴ったのでそう呼ばれたようです。「硬い岩から水を湧き出させた」とは、ホレブとカデシュで神様がイスラエルの民のために岩から水を流れさせて喉の渇きを潤したということが出エジプト記17章6節と民数記20章7節から11節に記されています。また、「マナ」という食べ物を神様が荒野の中でも備えてくださり、イスラエルの民の飢えを満たしてくださったことも出エジプト記16章15節、31節に記され、その事を忘れるなとモーセは言うのです。わたしたちも、様々な災いから守られ、水も食べ物も与えられています。
17節に、「あなたは、『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。」とあります。お金を払えば何でも買えるという考えは傲慢で間違っています。生産者が日夜働いて、丁寧に作って、販売してくれているから、わたしたちは代金を払って買えるわけです。神様がそのように備えてくださるので、わたしたちは今日も生きられるのです。
モーセは、18節で、「むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主であり、主が先祖に誓われた契約を果たして、今日のようにしてくださったのである。」と言っています。生きるために必要なものをその時に応じて与えてくださる神様という存在を覚えて、この神様にすべてを委ねながら歩むことが祝福につながります。
19節と20節は、モーセからの警告です。「もしあなたが、あなたの神、主を忘れて他の神々に従い、それに仕えて、ひれ伏すようなことがあれば、わたしは、今日、あなたたちに証言する。あなたたちは必ず滅びる。主があなたたちの前から滅ぼされた国々と同じように、あなたたちも、あなたたちの神、主の御声に聞き従わないがゆえに、滅び去る」とあります。ある訳では、「必ず滅びる」となって、その意味合いが強調されています。
しかし、わたしたちが死んで滅びることは、神様の願い、御心、わたしたちを造られた神様の目的ではありません。わたしたちが神様の愛と憐れみの中で、祝福の中で平安に、喜びと感謝をもって生きることを望んでおられます。その事を正確に示すために、神様はこの世に、わたしたちのもとに、神の言葉として、イエス・キリストを派遣してくださいました。このイエス様の口から出た言葉が新約聖書に記録され、それを日々読みなさいとわたしたちは招かれ、励まされています。
イエス様は言葉だけでの方ではありませんでした。わたしたちの罪、弱さを一身に負ってくださり、十字架で贖いの死を遂げてわたしたちを罪と死の縄目から救ってくださいました。それによって神様の愛をわたしたちに明確に示してくださいました。この神様とイエス様の言葉と業を忘れずに生きること、つまり愛と憐れみを喜び、感謝し、イエス様を見上げ、主をほめたたえて生きる事を神様とイエス様は望んでおられるということを知り、喜びと感謝をもって日々歩む者とされてまいりましょう。