主はわが牧者

宣教要旨『主はわが牧者』 大久保バプテスト教会 2018/10/21  石垣茂夫 副牧師

聖書:詩編第23編1~6 節(p854)

さて、聖書がわたしたちに伝えようとしている第一のことは何でしょうか。

それを、ひと言(こと)で言(い)い表(あら)わすのは難しいことですが、敢えて表わすなら“わたしたちの人生のあらゆる場面で、「神はわたしたちと共にいてくださる」”ということでしょう。

『ある牧師の証し』

随分と前の事ですが、牧師となった一人の方の証しを、お聞きしたことがあります。

その方は若い日本海軍の兵士でしたが、太平洋戦争の最中(さなか)にインドネシア海域で捕虜となり、ニュージーランドの捕虜収容所で過ごすことになりました。まだ戦争は続いています。この先の、自分の命はどうなるのかと、日々不安であったということです。

しかし、収容所の周りは青々とした牧草が生え、なだらかな丘陵地帯であり、羊の群れが毎日現れては草を食(は)んでいるという、のどかな風景が広がっていました。捕虜でありながら、「本当に戦争はまだ続いているのだろうか」と疑ってしまいたくなるような、穏やかな日々であったそうです。加えて、収容所では毎朝、礼拝がありました。キリスト教の牧師が捕虜のために聖書を開いては話をされるのです。そうした生活が、実に3年も続いたということです。

最初はそうした優(やさ)しい扱いに抵抗を感じていたものの、自分が今読めるのは、聖書だけでした。そして、自分が眺める景色は、どこまでも続く緑の草原と羊の群れだけでした。

一般的に、戦争の最中に捕虜になるならば、その人の精神と肉体に良い影響が生じることはないでしょう。しかしこの方にとって、捕虜としての生活は全く別の意味を持つことになりました。

3節に「魂を生き返らせてくださる」という言葉があります。聖書の「魂」という言葉は、「精神と肉体と両方合わせた自分自身」を指しています。捕虜であった方はみな、心も体も死ぬほど弱っていたに違いありません。そうした中で、この方は幸いにも、生き返ったように元気になりました。まさに「魂が生き返る」「わたしは生き返った」という経験を収容所においてしたのです。

やがて、「わたしには、主なる神がいてくださる」と信じられるようになり、これからは、この主なる神にすべてを委ね、その導きに従って素直に生きてみようと決心し、収容所で洗礼を受けたということです。

自分は、洗礼を受けて、早く日本に帰してもらおうなどと、そのようなずるいことを考えていたのではない。心から悔い改め、わたしには「神がいてくださる」と、その確信が与えられて信仰を持てたと言っておられました。

彼は『23編の御言葉』から「三つの発見」をしました。

羊飼いたちは、たとえ羊が何百匹いようとも、群れの一匹一匹の顔を見分けて、どの一匹対しても注意を怠ることはないと言われています。

まるで羊飼いのようなわたしたちの神は、わたしたちが必要なものを知っておられ、与えて守ってくださる神です。神はこのように、一対一で、的確な配慮をして下さるお方です。

この方は、そのような神を発見し、心に変化を起こし、心から安心できたのです。「神がおられる」この事を知ったこと、これが第一番目の発見でした。

この牧師の第二の発見は、自分の人生は自分で支配するのではなく、神に支配されて導かれる人生だと知ったことです。自分の人生は、自分で選ぶと思っていましたが、羊のように、羊飼いである神によって導かれる人生があるのだと考えるようになりました。

第三の発見は、「死の時までも、身近に、共にいてくださる神」 の存在です。

わたしたちの命は神によって造られ、神によって始められた命です。それ故に神がわたしたちの人生を終わらせようとする時が来るならば、それに従おうと導かれたのです。死ぬ日にも、自分と共にいてくださる神に伴われているならば、恐れることなく、その瞬間を迎えられる。詩人はそうありたいと願っているのです。「鞭(むち)と杖(つえ)」という羊飼いの道具が書かれています。これらは羊を脅すための道具ではなく、外敵から羊を守るために、羊飼いは常に持っています。羊たちは、自分たちの安全を守る「鞭(むち)と杖(つえ)」、その気配がするだけで飼い主を感じ、安心できるそうです。それほど力強い飼い主が、いつも身近にいてくださるならば、恐れは遠のきます。

神は「死の時までも、身近に、共にいてくださる」、あこれが牧師にとっての第三の発見でした。

その方は更に、「わたしを苦しめる者(新共同訳」、「わたしの敵」(口語訳)という言葉について、こう捉えていました。「わたしの敵」、これは私たちの心に潜(ひそ)む「罪」の事だと言っています。新共同訳聖書が「わたしを苦しめる者」と訳した意図は、単に「敵」を表わすのではなく、もっと広げて、わたしちの心に潜む罪を意識したことにある、というのです。詩人は、わたしを苦しめるのは、なんといっても私自身の罪だと言われました。

そして更に、詩編を読む時に欠かしてはならないこと、それは、聖書全体に言えることですが、「イエス・キリストを思いながら読む」と言う事だと言っておられます。

「イエス・キリストを思いながら読む」、このような読み方に倣いたいものです。

「23編6節」から  「主の家にとどまろう」

23編の詩も、終盤で自分の死を考え、自分の罪を思いめぐらしていきますが、詩人は最後にもう一つの発見をするのです。詩人は今までひたむきに神を求めて、導かれたいと思っていたが、実はそうではなかったことに気付きます。それは、自分が求めるのではなく、神ご自身が、自分を追いかけてくださっていたのだと発見するのです。「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う(23:6a)」と、まさに、そのことを歌っているのです。

こうして詩人は終りに、救われた者が連れて行かれる新しい住まいについて歌います。

わたしたちは人生の最後に、神に伴われて、神が備えてくださる「主の家」に導かれていきます。

わたしたちには死や死後のことは隠されていますが、「主の家」に導かれることは確かです。

神は、わたしたちをそこに導いてくださいます。わたしたちも共に「生涯、そこにとどまる」、そのような信仰を持とうと詩人は歌っています。

今日、そのような神はどこにおられるのかと、疑うこともあるでしょう。そのようなとき、わたしたちの信仰が揺るぎかけたときにこそ、主イエス・キリストの御姿を見上げましょう。

イエス・キリストは父なる神からわたしたちに遣わされた神の子であり、神であられます。この神が、わたしたちの牧者であり、神としてすぐ近くにいて下さいます。この朝、もう一度、「神がいてくださる」、そのことを確信し、それぞれの魂に力をいただいて、この週の歩に踏み出していきたいと、そのように願っています。