主よ、あなたはどなたですか

宣教要旨「主よ、あなたはどなたですか」  石垣茂夫副牧師     2019/05/19

招詞:ガラテヤ1:1~5  聖書:使徒言行録9:~

先週水曜日の祈祷会と今朝の教会学校のテキストはガラテヤ書4章でした。

その19節の、『キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはもう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます』との御言葉が、わたしたちに迫って来ました。

今朝は、思いを使徒パウロに向け、わたしたちの信仰を導かれたいと願っています。

「使徒パウロの印象」後ほどその個所を読みますが、最初のガラテヤ訪問のころ、パウロ一行が困窮の中で行動したことが伺えます。その上、パウロ自身が病に犯されていて、まことに惨めな有様でした。ガラテヤ教会の人々にとってパウロは、「神の恵みを伝える器」には、とても見えなかったはずです。

パウロは自分でも分かっていたのですが、印象のよくない面がありました。人に嫌がられても仕方ない顔つきであり風体であり、しゃべり方が下手であったようです。この事は、幾つかの手紙から読み取れます。

パウロがガラテヤに行ったのは、治療の目的もありました。ところが、人に不快感を与えるような姿のパウロに接した当時のガラテヤの人たちは、彼が語る「キリストの福音」には、驚くほど積極的に心を開き、キリストの信仰を受け入れ、その道に励むようになったのです。これはパウロにとっては、思いをはるかに越えた出来事でした。

「ガラテヤ教会の変容」ところがパウロがガラテヤを去った後、彼らの信仰は急速にゆらいでしまいました。その原因となったのは、パウロが旅立つのを待っていたかのように教会に入って来た、ユダヤ人伝道者たちの指導でした。彼らはユダヤ教時代の律法主義にこだわり、そこから抜け出ることの出来ない、キリスト教伝道者でした。

彼らはまず、パウロ個人をけなしました。第一に、パウロは正式な使徒ではない。なぜならば、生前のイエスに会っていないから。しかも、ごく最近までクリスチャンを迫害してきた乱暴者だ。その首謀者だったと批判したのです。

第二に、彼らは「神によって真に救われるには、信仰のみでは十分ではない。」

救いは、律法を守る正しい人のものであり、パウロの語る「自由の福音」は、信仰をだらしないものにしていくと強く批判ました。或いは「割礼」を受けてユダヤ人のようになりなさいと強要したのです。やがて教会内には、律法主義者に同調する者が増え、教会が分裂していくという事態になっていきました。

パウロがこの事を知ったのは直線距離で500㌔の道のりを進んだ頃であり、エフェソに着いたときでした。パウロはこの様子を聞くと直ちに激しい口調で憤りの手紙を書き、信徒たちを正しい信仰に引き戻そうとしたのです。

「パウロの回心」それでは、パウロは「キリストに出会っていない」のでしょうか。「キリストの使徒」ではないのでしょうか。「信仰をだらしないものにしていく福音」を伝えて来たのでしょうか。

パウロの生涯の中では、ただ一度、回心に導かれた決定的なことがありました。そのことが、お読みいただいた使徒言行録9章「サウロの回心」に記されています。この回心から分かることは、なんといっても、「キリストとの対話」があったこということです。

その回心は、人間の内面的な、罪意識からの救いの経験であったのではありません。苦しみ悩んだ末に与えられた体験といったものとは無関係なことでした。

パウロの期待や願望には関係なく、神からの側からの一方的な働きがパウロにあったということです。突然としか言いようのない仕方で、復活のキリストの声が聞こえ、パウロはキリストと対話をしたのです。

主イエスはパウロにこう呼び掛けたのです。「なぜ、わたしを迫害するのか」。

「なぜ、わたしを迫害するのか」との声はパウロにとって衝撃的な言葉でした。

パウロはキリスト教徒とキリスト教会を迫害していたのであって、キリストご自身を標的にしてきたという認識はなかったのです。

おもわずパウロは「主よ、あなたはどなたですか」と思わず問い返しました。

すると「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」

この朝最も注目すべき事は、パウロと主イエスとの対話です。

この時のパウロは、自分の信奉するユダヤ教信仰に真面目に向き合い、律法を守る生活に忠実でした。それ故に、敵とさえ思ってキリスト者迫害に情熱を傾けていたのです。このパウロに対して、復活のキリストは『なぜ、わたしの弟子たちを迫害するのか』とは言われなかった。「サウル、サウル、『なぜ、わたしを迫害するのか』と言われました。

キリスト教会を、あるいはキリスト教徒を迫害することは、イエス・キリストご自身を迫害することに他ならない。青年パウロは、復活のキリストとの対話によって、即座にこの事を理解したと思われるのです。

パウロに、キリストの信仰が宿ったのは、主イエスの声を聞いたからであって、パウロが何かをしたという事ではありません。ガラテヤ3章ではこの事を「霊を受けた」と表現しています。神が、神の方から働きかけてくださったという事です。

わたしたちひとり一人は、このパウロのようにそれぞれの歩みの中で、聖霊の働きによって主イエスの声を聞いたのです。そのことに、確信を持ちましょう。

わたしたちは、「ああ主よ、あなたはどなたですか」と声に出さなくても、わたしたちのうちに宿された主イエス・キリストを、信仰において、知ることができているのです。 これこそが、「神がわたしたちと共にいます」ということです。わたしたちの人生の主人は、自分ではなく神です。困難の中でこそ、「主よ、あなたはどなたですか」と問いかけましょう。主イエスは「わたしだ。わたしに聞け」と答えてくださいます。