主イエス、裏切られる

「主イエス、裏切られる」 3.11を覚える礼拝 宣教 2020年3月8日

 ルカによる福音書 22章47〜53節        牧師 河野信一郎

受難節・レントの真っ最中でありますが、そのことはさて置かれ、今はコロナウイルス感染への不安と恐れが収まらない中、わたしたちの心は様々な誘惑に負け、言葉はしどろもどろ、支離滅裂になってしまうことがあります。先週の学校休校から始まり、全国では卒業式やコンサートなど、様々なイベントが軒並み中止になっています。今週水曜日に東日本大震災から9年目の追悼式も例外ではありません。東北の太平洋側各地で開催予定であった追悼式の大半が中止になり、政府主催による追悼式が東京で行われることになっていましたが中止になりました。遺族の方々は、「致し方がない」と思いつつも、「震災を胸に刻む気持ちが薄まらないでほしい」との心境を明らかにされています。今週14日に宮城県石巻市で予定されていたGMさんたちの被災地支援・追悼コンサートも11月までやむなく延期になりました。ですので、せめてわたしたちは、今日、9年前の東日本大震災を覚え、大切な家族や家や故郷を失っても懸命に生きようとされている方々を覚え、神様の癒しと励ましと復興を求めて祈りたいと思います。

今、日本全体は不安と恐れ、混乱の最中にいます。真っ黒い雲に覆われている感じです。世界全体もウイルス感染に対して不安と怒れを抱いています。ヨーロッパなどではアジア人というだけで差別と暴力が繰り返されています。今、世界は「暗闇の中」に置かれていると言い表しても良いかもしれません。「暗闇」とは精神的な闇という意味で、不安や恐れ、疑いや迷い、痛みや悲しみ、憎しみの中にいるということです。しかし、そのような暗闇の只中に主イエスは立たれます。それはご自分のためではありません。わたしたちの心と命を守り導くために闇の中に力強く立ち続けてくださいます。オリーブ山のゲッセマネの園で父なる神様に対して苦しみもだえて祈り、「この杯をわたしから取り去ってください」と叫びつつも、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と言われた主イエス・キリスト。神様への信頼と服従、最後の最後まで父なる神様の御心に従って歩んでゆくと決心をされた主イエスが、十字架への最後の工程を歩み出す力と平安を持って力強く暗闇の中に立たれる姿です。この主イエスは、わたしたちを救うために闇の中で立ち上がってくださるのです。この主が「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と弟子たちにおっしゃられた言葉をわたしたちは先週聴きました。

わたしたちが暗い闇の中に置かれると、不安や恐れから混乱してしまい、そういう中で互いの価値観がぶつかり合い、わだかまりが生まれ、互いへの不信感が生まれたりしてしまい、そしてそこから不一致が生まれ、分裂が生まれてしまいます。それは教会の中でも絶対に避けなければならないことで、今わたしたちに求められているのは、主イエス・キリストにある一致、心を一つにしてキリストに聴き従うということです。そのことを覚えたいと思います。

さて、今朝わたしたちに与えられている御言葉は、その次のルカによる福音書22章47節から53節に記されている主イエスが裏切られ、逮捕される場面で、ここには主イエスがおっしゃられた3つの言葉と十字架に架けられる前の主イエスの最後の奇跡が記されています。この3つの言葉は、裏切るユダに対して、その他の弟子たちに対して、武器を持ってイエスを逮捕しに来た祭司長、神殿守衛長、ユダヤ社会の長老たちに対して言われた言葉です。

まず47節から48節に、主イエスがユダに向き合っていることが記されています。「イエスがまだ話しておられると」とありますが、ユダ以外の弟子たちに「誘惑に陥らぬように、起きて祈っていなさい」と話している最中にということで、皮肉なことに主イエスを裏切るという誘惑に陥ったユダが群衆とともにそのような場面に現れます。「群衆」というのは普通の人々でなく、ローマの兵士たちのことです。

さて、「十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた」とあります。福音書の記者ルカは何故「十二人の一人ユダが」とはここに記さず、「十二人の一人でユダという者が」と記したのでしょうか。「十二人の一人」とは主イエスご自身が選ばれた弟子の一人という意味であり、主イエスが愛された弟子の一人という意味です。しかし、「ユダという者が」という言葉に主イエスから心が離れてしまったユダの心の状態、心の距離を表すものではなかったかと思われます。わたしたちも誘惑に負けて「〇〇という者が」と言われないように、主イエスから離れないように、主の憐れみと助けを受けて、いつも祈り、主の言葉に聞く者とされてゆきましょう。

さて、主イエスはユダに対して「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われたと48節に記されています。ここでのキーワードは「接吻」になりますが、ギリシャ語では友情を表すフィレーマという言葉です。日本人にはない挨拶の仕方ですので、なかなか理解できないと思いますが、接吻は相手への愛情を示す行為ですが、ここでは心が離れて背く行為としてなされています。「裏切るのか」という言葉は、「売り渡すのか」という意味です。この主イエスの言葉にユダは無言を貫いています。人というのは、バツが悪くなると、その場の成り行きが悪くなると無言になります。一方的にコミュニケーションを断ち切ることをします。しかし、そのようなわたしたちを主イエスは愛し続けてくださいますから、間違いを犯して恥ずかしいと感じても、意地にならないで、すぐに謝って、イエスにつながり続けましょう。それが永遠の祝福につながります。

次に49節から51節に主イエスが弟子たちに向き合っていることが記されています。49節をご覧ください。「イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、『主よ、剣で切りつけましょうか』と言った」と記されています。イエスを「主よ」と呼ぶところは素晴らしいのですが、次がいけません。「剣で切りつけましょうか」と武器を持って人を傷つけましょうか、先手を打ちましょうかということは、自分たちの力で問題を解決しようする誘惑に陥ることです。

しかし、もっと悪いのは50節です。「そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした」ということで、つまり主イエスの答えを聞く前に自分の判断だけで動いてしまったということです。主の言葉に従うのではなく、自分の中にある基準値、価値観、思いだけで勝手に判断し、動いて間違いを犯してしまったということです。わたしたちも日々の生活の中で同じような誘惑に負けてしまっていないでしょうか。どのような切羽詰まった状況に置かれても、信仰を持って主の言葉を待ち、主の言葉に聞き従うということを大切にしたいとここから学ばされます。このことが永遠の祝福につながることを覚えたいと思います。

弟子の犯した間違いに対して、主イエスは「やめなさい。もうそれでよい」と言われます。何をやめるかは一目瞭然です。暴力を振るうことです。しかし、この「やめなさい」という主の言葉の延長線上には、誘惑に負けて自己判断でことをなすことをやめなさいということもあるのではないかと思わされます。裏切ることも、偽りの愛情を表すことも、無言を貫くことも、暴力で解決することも、自分の知恵や力で生きること、自分の心に従うことをやめなさいとも聞こえてきます。父なる神の御心に服従している主イエスは、捕まることも神の御心と信じて、争いではなく、無抵抗で捕えられることを選びとってゆかれます。

主イエスは、自分の目の前にいる人、自分を捕えに来た人の耳に触れて癒されたと51節の後半に記されています。十字架に架けられて死なれる直前に主がなされた最後の奇跡です。主は弟子たちに「あなたの敵を愛しなさい」と以前からお命じになられましたが、目の前にいる敵を愛する主イエスがここにおられ、言葉と行いが一致する主がおられます。激しい痛みから解放され、傷が癒されたその人は、イエスのことをその後どのように思ったのでしょうか。何も記されていませんが、罪赦されたわたしたちは大きな喜びと感謝の中に置かれています。たとえ暗闇の中にあっても主が共にいてくださると信じられる平安が与えられています。感謝なことです。この救われている喜びと感謝の思いを何のために用いましょうか。神と主イエスを愛し、互いに愛し合うためだけでなく、隣人を愛する、敵をも愛することに用いなさいと主イエスはここで教えてくださっているのではないでしょうか。

最後の52節と53節に、主イエスと押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちと向き合っていることが記されていて、主の言葉が記されています。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった」と主は祭司長たちに言います。これは質問ではなくて、このような形で捕まることに対する苦情です。救い主であるのも関わらず、強盗のように扱われることへの訴えです。しかし、この主イエスの言葉は、わたしは神のご計画から逃げも隠れもしない、神の御心に従って生きるという決心を言い表している言葉でもあります。

「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」、そういう中にわたしたちも置かれています。しかし、この闇の力が猛威を振るっているように見えても、それを覆い尽くす神のご計画、御心があることをわたしたちは忘れてはなりませんし、そこから信仰の目を離してはなりません。精神的な暗闇の中にあっても、闇のような時を過ごすことがあっても、主イエスはその只中に立ち、わたしたちの信仰と命を守ってくださいます。主イエスから離れないで、神の愛の中で主と共に生きることを信仰を持って選びとってゆきましょう。主が聖霊をもってわたしたちを神の家族、一つの教会として守り導いてくださいます。絶えず信じましょう。