主イエスが地上に残した平和とは

「主イエスが地上に残した平和とは」 十二月第二主日礼拝 宣教 2023年12月10日

 ヨハネによる福音書 14章27節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。ゲストの皆さん、ようこそ大久保教会へ!歓迎いたします。礼拝堂に集められた皆さん、またオンラインで礼拝をささげておられる皆さん、お帰りなさい。アドベントの第二週を歩み出す主の日の朝に、皆さんとご一緒に賛美と礼拝を主におささげできる幸いを主に感謝いたします。素敵なアドベント・クランツのキャンドルに火が2つ点りました。心が落ち着き、優しくなれる感じがいたします。いつまでも眺めていられます。

 さて、先週は、アドベントの意味を分かち合いましたが、今朝はクランツにある5本のキャンドルの意味を短くお話ししたいと思います。アドベントの最初の日曜日に点す第一のキャンドルは「約束のキャンドル」で、神様がアブラハム、イサク、イスラエルに祝福を約束されたことを表し、2週目のキャンドルは「預言者のキャンドル」で、救い主の来臨を予言した預言者たちを表します。3週目のキャンドルは「バプテスマのヨハネのキャンドル」と呼ばれ、救い主がすぐに来られると告げたヨハネを表し、4週目のキャンドルは「マリヤのキャンドル」で、御使ガブリエルが「救い主があなたを通して生まれる」というお告げを信じて従ったマリヤの信仰を表します。5つ目のキャンドルは「キリストのキャンドル」です。お生まれになられイエス様が「世の光」であることをはっきりと表すキャンドルです。

 大久保教会では、アドベントとクリスマスのシーズンに、礼拝堂の十字架にリースを掛けますが、これにも意味があって、リースの輪は永遠に尽きることのない神様の愛を表し、緑の枝は永遠の命を表します。しかし、わたしたちを永遠に生かすために、イエス様は十字架上で贖いの死を遂げてくださった。この犠牲の上に罪の赦しと神様との和解が与えられ、神の子とされる恵みと永遠の命が約束されていることを喜び、感謝するのがクリスマスです。

 さて、皆さんの去る一週間の歩みはいかがでしたでしょうか。目まぐるしい日々であった方もおられるでしょうし、病院などに通われることが多かった方もおられるでしょう。わたしもけっこう忙しい週でしたが、主からたくさんの感謝な恵みを受けました。とても多すぎるので、全部を分かち合うことはいたしませんが、一つだけ分かち合いたいと思います。

 11月19日に教会の子どもたちのために神様の祝福をお祈りする時を持ちましたが、Y家の男の子たちは出席できませんでしたので、皆さんとお祈りをして、小さなプレゼントを後日お送りしました。そうしましたら、先週「プレゼントを受け取りました。ありがとうございました」というメールに写真が添えられて送られてきました。Y家は、コロナパンデミック以降、教会に戻ることができていませんが、いつか戻れるように神様の励ましとお導きを祈り続けたいと思います。「今年のクリスマスは、4年ぶりにクリスマスの祝会があるので、是非いらしてください」と返信しましたが皆さんにも是非お祈りいただきたいです。

 さて、今朝は最初に数枚の写真をご覧いただきたいと思いますが、最初の写真はクリスマスの準備をしているベツレヘムの町の写真です。今年の写真ではないと思いますが、今年のベツレヘムでは、どのようなクリスマスの準備をクリスチャンたちはして、お祝いするのでしょうか。次の写真は、たぶんエルサレムだと思いますが、ユダヤ教のハヌカの祭りの写真です。城壁にプロジェクションマッピングをしている様子です。

 ハヌカの祭りは、別名「光の祭り」と言いますが、紀元前2世紀、イスラエルは強力なギリシャ軍の支配下にあり、偶像崇拝の強要、宗教的弾圧を受けましたが、ユダヤ人は反乱を決意し、紀元前165年にエルサレム神殿を奪回し、解放しました。ギリシャ軍の占領下、神殿の燭台(メノラー)を点す油の壺のほとんどが汚されて儀式に使用できなくしたそうですが、神殿を取り戻した時、汚されていない油壺が一つだけ見つかったそうです。壺の中には1日分にも満たない量の油しかありませんでしたが、火を点してみると8日間も燃え続けたので、その奇跡を記念して「ハヌカ」という祭りを8日間祝うようになったそうです。この祭りの期間がキリスト教のクリスマスの時期にちょうど重なります。

 次の数枚の写真は、イスラエル軍の空爆によって破壊されたガザ地区の写真です。皆さんもテレビの報道などで見て、目に焼きついていると思いますが、破壊し尽くされています。ハマスというテロ組織を撲滅するためだと言って容赦なくミサイルを撃ち込み、1万7千人以上の犠牲者がすでに出ています。世界中でもユダヤ支持者とパレスチナ支持者の緊迫状態が続いています。イエス・キリストが歩まれ、神様の愛と神の国の福音が語り伝えられたパレスチナ・イスラエルの大地に何万発というミサイルが撃ち込まれ、何万という人々の命が奪われ、何百万人の人々が苦しみ悶えています。何という人間の醜さでしょうか。何という悲劇でしょうか。何という愚かさでしょうか。

 神様に、この惨劇の責任があるのではなく、神様を畏れない人々に責任があります。神を畏れない人とは、自分には神様との和解が必要だということを知らない人です。神様を畏れないので、心が傲慢で、罪でcorrupt(堕落・腐敗)しているので、平気で人の命を奪うのです。それでは、ユダヤとパレスチナの双方に絶対的に足りないものはいったい何でしょうか。それは、イエス・キリストというメシア・救い主、世の光、平和の君です。イエス・キリストが和解の主なのです。世界中の人々がユダヤ人とパレスチナ人は永遠に仲良くできないと決めつけていますが、それこそ全能なる神様を畏れない証拠です。神様に不可能はありません。イエス・キリストに不可能はありません。わたしたち人間が神様を畏れず、イエス様を信じて従わないので、平和を築くことを不可能にしているのです。

 今、世界に必要なのは神様を畏れ、イエス様に忠実に従うクリスチャンとその影響力です。去る12月4日は、アフガニスタンで人道支援に取り組んでいたクリスチャン医師の中村哲さんが凶弾に倒れてから4年目の日でした。彼の偉業は、今でのアフガニスタンでずっと語り継がれていますが、彼の影響力は年を重ねるごとにさらに大きくなっていると言われています。貧しく、苦境に立たされているアフガニスタンの人々の命と生活のために生き抜いた方です。その命をアフガニスタンの人々に捧げたと言っても過言ではないと思いますが、彼のように実直に人々に仕えて生きるクリスチャンはどれほど存在するでしょうか。現代の大半の人は、自分の権利や自由だけを主張して、他の人を思いやる心がありません。神様を畏れることなどナンセンスだと言います。自分たちがこの時代の「神」となっているのです。

 神様を畏れない者たちが自分たちの権利や自由や力を主張し、それらを守るために非常に高圧的・攻撃的に論争したり、分断・分裂を煽ったり、憎しみを増殖させたり、強奪や戦いを勃発させ、その結果、たくさんの人たちが傷つき、尊い命が奪われるのです。それこそナンセンスであり、不条理です。そういう非常に愚かなことがまかり通る世界が今の時代です。そういう「悍(おぞ)ましい」時代に、この世の中に生きる人々にいったい何が本当に必要なのでしょうか。それは、神様の言葉、イエス・キリストの言葉です。愛の言葉です。

 人々はなぜ神様を畏れないのでしょうか。畏れるとは、どういう意味でしょうか。畏れるとは、愛するということです。神様によって造られ、生かされ、愛されているから、驚きと喜びと感謝をもって神様を愛する、それが神様を畏れることだと思いますが、皆さんは「神を畏れる」ということをどのように理解されているでしょうか。

 ヨハネ福音書3章16節に、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という有名な言葉がありますが、神様はヨハネを通して「すべての人が滅びないで」とは言わずに、「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言っておられます。ここで誤解してほしくないのは、神様はすべての人の救いのために御子イエス・キリストを救い主としてこの地上にお送りくださいました。「すべての人の救いのため」です。神様は、すべての人にイエス様を受け入れ、信じて、悔い改めて神様に立ち返ってほしいと願っておられますが、すべての人がイエス様を信じる訳でなく、イエス様を拒絶する人もいる訳です。

 例をもう一つ挙げたいと思います。クリスマスシーズンに必ず読まれる聖書箇所、ルカによる福音書2章の8節から20節です。羊の群れの番を夜通ししていた羊飼いたちに主の使いが現れて、救い主の誕生という喜びの知らせを告げた直後、13節と14節ですが、こう記録されています。「すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。』」という言葉です。

 天使の大群が賛美の中で、声一つに、「平和が、御心に適う人にあれ」と言うのです。言葉の順番を変えてみましょう。「御心に適う人に平和があれ」となります。つまり、神様が与えてくださる「平和」は、「神様の御心に適う人たちにある」と言うことです。ここで言われていることは、御心に適う人と適わない人がいるという事実です。それでは、「御心に適う人」とは、どういう人でしょうか。「御心に適う人」とは神様に大切にされる人という意味です。英語では、to people ”on whom God’s favor rests”となります。神様に大切されるのは、神を畏れない人ではありません。謙った人です。世の中で小さくされている人たちです。英語では、”marginalized”された人、社会から排斥されている人々です。羊飼いたちも社会から排斥されていた人たちであったのです。

 ルカによる福音書には、神様の御心に適う人として挙げられているのは、社会から追放された人たち、病にある人たち、悪霊に取り憑かれた人たち、汚れた人たち、幼い子どもたち、高齢者たち、未亡人たち、女性たち、寄留者たち、そしてイエス様を救い主と信じて従う弟子たちも神様の恵みを受ける者として数えられています。しかし、このような人たちを社会から追いやっている人たち、メシアであるイエス様を拒絶するユダヤ教のリーダーたちは、神様の御心に適っていない、つまり、そういう人には神様の平和はありません。なぜ無いのか。神様との関係性が傲慢さによって断ち切られているからです。しかし、平和の君イエス・キリストを救い主と信じて御言葉に従う者には神様の平和・シャロームがあるのです。

 「シャローム」とは、ヘブル語で「平和」という意味です。幸福という意味になりますが、シャロームは健康、繁栄、安全、友情、救いをすべて含む平和です。ギリシャ語の「エイレネー」も平和という意味の言葉ですが、戦争がない平和を表します。神様との真の平和がない人々、神を畏れない人々が作ろうする平和は、戦争と戦争の狭間にある非常にもろい平和なのです。神を畏れない世界のリーダーたちが提供できる平和は、この程度なのです。

 しかし、イエス・キリストは違います。イエス様は、ご自分の十字架、ご自分の贖いの死を前に弟子たちに言うのです。この時の弟子たちは誰がイエス様の一番弟子かと争っている時でしたが、「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。(13:34-35)」とお命じになります。そして14章27節で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」と言われます。また、「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」と15章4節で言われます。15章9節では「わたしの愛にとどまりなさい」とも言われます。

 イエス・キリストが与えてくださる真の平和・シャロームは、父なる神を愛し、神に信頼し、御心に忠実に従う従順さに根ざしています。自分の権利や自由を主張する世の中で、イエス様の与える平和は、自分を与える愛、自己犠牲の愛に根ざしています。神様の御心を第一にし、自分の思いを神様に委ねる信仰に根ざしています。そして、このイエス様が与える平和は、永遠の命が与えられる希望につながるのです。あなたは、イエス・キリストがご自分の命を引き換えに与えてくださる神様との和解、平和、救い、神様の愛を必要としていませんか。凧糸の切れた凧のように、闇の中を彷徨っていませんか。不安と恐れと絶望の中に生きていませんか。神様は、あなたにそのように生きて欲しくないのです。ですから、平和の君、イエス・キリストがわたしたちに与えられたのです。そのことを喜び、感謝するのがクリスマスです。今年のクリスマスをご一緒にお祝いしましょう。