「主イエスに執り成されていることを覚えつつ歩む」 元旦礼拝 宣教 2025年1月1日
ルカによる福音書 22章31〜32節 牧師 河野信一郎
新年、明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。今日から始まりました2025年は、どのような年になるでしょうか。この年も、神様がわたしたちといつも共にいて、わたしたちを守り導いてくださることを信じ、先取りの感謝をささげたいと思います。元日の朝、このように礼拝堂に集められ、ご一緒に賛美と祈りをささげ、礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。
新年を迎えた午前0時ごろから、大勢の人々が日本中の神社仏閣へ祈願のためにお参りに行っておられます。今日明日と参拝者は多いと言われています。多くの人々は、家内安全、商売繁盛、無病息災、安産、試験合格、安全運転などの祈願を行なっておられます。神社やお寺に赴いて、神や仏に祈願します。つまり、幸福になることを神や仏に期待するわけです。その祈りが利かれますように、購入した御守りをカバンに付けたり、財布に入れたり、家の神棚などに置いておくわけです。それらは、どちらかと言うと、受け身の信仰です。つまり、最初は能動的に祈願するわけですが、その後はひたすら待つわけです。
わたしたちの信仰も同じでしょうか。わたしたちも神様に祈って、神様が働いてくださることを期待して待つだけの信仰でしょうか。アドベントの時もそうでしたが、救い主イエス・キリストの御降誕を待つということをやめて、神様がわたしたちを待っておられることを聖書から聞きましたように、この新しい年が始まった最初の朝に、わたしたちが神様に期待するよりも、神様に期待されているということを覚えたいと思います。新しい年もすべてを神様に委ねながら、自分に与えられた働きを全うできるように、毎日そのような生き方、歩み方を積極的に、主に期待しながら選び取って歩んでゆきたいと願います。
しかし、そのように心から思い、願い、神様に祈り求めるわけですが、皆さんはどうか分かりませんが、わたしはあらゆる面において弱さを持つ者です。意志薄弱です。ですから、神様の憐れみにひたすら寄りすがって歩んでゆかなければなりません。独りでは歩んでゆくのが難しい者です。一緒に歩んでくれる人が必要です。皆さんにも一緒に歩んでくれる信仰の友、教会の兄弟姉妹、神の家族が必要ではないでしょうか。
大久保教会にとって、2025年は教会創立60周年の特別な年です。これまでの60年の歩みを守り導いてくださった神様とイエス様の恵みを覚えると同時に、猛スピードで変動してゆく時代の中で、今後どのように大久保教会を形成してゆき、福音宣教をしてゆくことが神様の御心であるかを絶えず祈り求めてゆく必要があります。そのためには、御心によってこの教会につなげられている皆さんのお祈りとご協力が必要不可欠です。主イエス・キリストを通して神様から与えられている信仰をもって、共に礼拝をおささげし、共に祈り、共に神様と教会と地域に仕える者とされてゆきましょう。様々な課題が目の前にあり、時々圧倒される時もありますが、ご計画を持たれ、すべてを導いてくださる主に信頼して、祈りつつそれらの課題に取り組み、神様に栄光をお返ししましょう。どうぞよろしくお願いいたします。
2025年の初日、どのようなメッセージを語るべきか、神様に祈りました。迷いながら祈りました。いくつかテーマの候補が与えられましたが、どのテーマが元旦礼拝に最適であるのか分かりません。ですので、アプローチを少し変えて、わたしたちが神様に祈るということよりも、わたしたちはイエス様に祈られ、執り成されていることを知ることが新年の歩み出しに必要なのではないかと感じました。わたしの好きな賛美歌にこういう賛美があります。476番です。「愛されて、わたしは生く。値なき身をキリストに。愛されて、愛されて、試練の時も、喜び満つ、愛されて。祈られて、わたしは生く。弱きこの身をキリストに。祈られて、祈られて、闇行く時も恐れはなし、祈られて。」という歌詞です。
新しい年を迎えても、わたしたちに対する神様の愛は変わりません。新しい年も、神様の愛と憐れみの中で生かされ続けます。これまで同様に、わたしたちは新しい年も小さな間違い、大きな間違いを繰り返すでしょう。肉体をもって歩む中では弱さを持っているからです。しかし、それでも、神様はわたしたちを愛し続け、イエス・キリストの十字架によってわたしたちの弱さを赦し続けてくださいます。そのような弱さの中で、わたしたちの傲慢さを砕き、御心に適った者へと造り変え、御心を行う者として建て上げてくださいます。
絶えられない悲しみや痛み、大きな試練に遭う時、主が近くにいてくださることを忘れて自分本位の歩みをしても、それでもイエス様と聖霊はいつもわたしたちの傍らに居てくださり、わたしたちの心を、信仰を守ってくださいます。励ましてくださり、養ってくださいます。それは新しい年になっても同じです。わたしたちに大切なのは、主がいつもわたしたちと共に居て、助け導いてくださるということを信じること、信じ続けることです。日々の歩みの中で、いつも神様を自分の前に置き、イエス様の言葉に聞き従い、聖霊の導きに従う時、苦しい試練、悩みの時にも、主イエス様の伴いと神様の愛を感じることができ、心に平安が与えられ、神様の愛で心が満たされ、喜びで満たされます。
イエス様は、ご自分の死、十字架の死を目の前にしても、わたしたちのために祈ってくださいました。ヨハネによる福音書17章には、イエス様を信じる者たちのために祈られたことが記されています。今朝の御言葉として導かれました箇所は、水曜日の祈祷会で3年に亘って聞いているルカ福音書の22章32節の言葉です。この22章31節から34節は、イエス様の一番弟子と言っても過言ではないシモン・ペトロが捕らわれたイエス様を知らないと3度言うと予告された箇所です。実際に、22章54節から62節を読みますと、ペトロは自分の命を守るためにイエス様を知らないと否んでしまいます。そのような弱さがあるのはペトロだけでしょうか。そうではありません。わたしたちにも同じ弱さがあるわけです。
しかし、そのような弱さを持つわたしたちをそれでも愛して、赦してくださるイエス様がシモン・ペトロにこう言われるのです。32節です。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」と主イエス様は言われます。「わたしはあなたのために祈ったよ。あなたの信仰が無くならないように、父なる神様に祈り、執り成しをし、神様があなたを憐れんでくださり、助けてくださるように、神様の慈しみを求めたよ。」と言われるのです。
ペトロが、そしてわたしたちが間違いを犯す前から、イエス様の祈りがある、執り成しがあるということです。万全のバックアップがあり、セーフティーネットが張られているということです。わたしたちがイエス様から一瞬離れても、イエス様とのつながりが切れないように、神様の祝福のパイプが途切れないように、イエス様が神様に祈り、執り成しをしてくださっている。そこに神様の愛の大きさ、イエス様の思慮と配慮の深さ、聖霊の守りの強さを感じることができるのではないでしょうか。
わたしたちは、当たり前のように生きているのではありません。当たり前ではなく、ただただ神様の愛、憐れみなのです。恵みの内に生かされているのです。神様の愛とイエス様の祈りと執り成しの中で生かされ、弱さ・罪が赦されて生かされていることを忘れてはならないのです。神様の憐れみを忘れてはならないのです。わたしたちを罪から救うために十字架上でイエス様が何をしてくださったのかを覚え続けなければならないのです。
皆さんの新しい年は光に満ちているでしょうか。そうであれば、この上ない祝福です。その祝福が常にありますように神様にお祈りいたします。もし古い年から試練の中を通らされ、闇の中を生きているように感じて、心の姿勢がうつむきかげんであるならば、イエス様を見上げましょう。イエス様を信じましょう。イエス様があなたのために、わたしたちのために祈り、執り成してくださっているからです。イエス様はわたしたちのすべてをご存知です。わたしたちがどんな状況の中に歩んでいるか、どれほどの重荷を負いながら歩んでいるか、どのような不安や悩みを抱えながら生きているかをご存知です。イエス様はすべてご存知だから、いつも神様に祈って、執り成してくださるのです。
ローマの信徒への手紙8章34節に、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とあります。
ですから、今日から始まる新しい年の歩みの中で、たとえ憂いの時があっても、試練の時があっても、闇の中を歩むことがあっても、わたしたちの信仰が無くならないように祈り続け、執り成し続けてくださるイエス様を信じて、その言葉に聞き従って行きましょう。新しい年の祝福の鍵は、イエス・キリストにあります。