「互いに謙遜を身に着けなさい」 元旦礼拝 宣教 2024年1月1日
ペトロの手紙一 5章5b〜6節 牧師 河野信一郎
新年、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。皆さんとご一緒に、2024年の元日の朝の時間を過ごし、賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝すると共に、皆さんの上に神様のお守りと祝福がこの一年も共にありますようにお祈りいたします。風邪が流行っています。体調を崩しておられる方々も多いです。今朝の元旦礼拝を楽しみにされていた方々から家族が風邪のため、教会へ行くことができませんと連絡が入っていますので、皆さんもどうぞ気をつけてお大事にお過ごしください。お祈りしています。
さて、実質的には今年の7月からではありますが、神様の憐れみとお守りと励ましの中、大久保教会は59年目の歩みが始まります。実に素晴らしい主の恵みです。70年、80年の歴史のあるキリスト教会が様々な理由で解散を余儀なくされ、消滅してゆく中で、大久保教会の歩みを大切に維持してゆきたいと思い、願い、そして祈っています。教会の歩みを継続してゆくためには、神様の愛と憐れみ、そしてお守りと励ましが不可欠です。教会が消滅する理由は、この神様からの愛と憐れみを受けられなくなって、教会が弱体化してしまうこと、弱体化してしまったことにあるとわたしは思いますし、その危険は常にあると思います。
それでは、なぜ教会は弱体化し、不健康な教会になってしまうのでしょうか。神様の祝福を受けられなくなったのかという理由、原因を突き止めてゆく必要性と体質改善をしてゆく必要がありますが、その理由、その原因を突き詰めてゆくと、聖書に記されている神様の言葉から離れてしまい、人の価値観や考えが優先されてしまうことが根源となっていることが多いようです。他にも教職者の不祥事なども理由に挙げられることもありますが、教会が神様の言葉を聞かないこと、それが様々な誘惑に負けてしまうことにつながり、信頼関係がなくなり、教会が弱体化してゆき、徐々にバラバラになってしまう原因になってゆきます。
イエス・キリストを救い主と信じ従う人たちも同じです。信仰が弱り始め、教会から離れてゆく原因を突き詰めてゆくと神様の言葉が記されている聖書を読まない、神様に祈らない、そういう基礎的なことが疎かにされているからどんどんと信仰が弱まり、信仰の火が消えてしまったかのように神様から離れてしまう。その理由は、優先順位を間違えてしまうこと、そして互いのことを思いやらない教会の体質にあると考えられます。
ですので、使徒パウロはコロサイの信徒への手紙3章で、ちなみにその箇所はわたしたちの年間聖句・標語のベースとなっている箇所なのですが、クリスチャンたちを次のように励ましています。少し長いですが、12節から17節まで読みたいと思います。
「12あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。14これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。15また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。16キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、愉し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」とあります。
この箇所を今読んで、昨日の年末感謝礼拝の中で聞いたエフェソ書の言葉に似ているとすぐに感じた方はすごいと思います。意図的にエフェソ書5章とコロサイ書3章をリンクさせました。エフェソ書とコロサイ書は内容的に似通っているだけでなく、各自の信仰にとって、そして教会の健康に関して、非常に重要なことがここに記されていると思うからです。
教会、あるいはイエス様を救い主と信じた人がなぜ不健康になってしまうのか、弱体化してしまうのか。その理由・原因には、一種の流れと言いましょうか、そのようになって行ってしまうプロセスと言いましょうか、順序があると思います。年始からちょっと面倒くさいお話になってしまうことをお許しいただきたいのですが、これは人間関係性を強化してゆきためにもヒントになることだと思いますので、お時間を少しいただければと思います。
できるだけ簡素にお話ししますと、先ほどコロサイ3章12節から17節を、順番を逆に読んで行けば健康な教会の状態を維持することができ、イエス様を信じている人たちも信仰から離れることはなくなるはずです。それを今から説明します。信仰とは、神様に感謝することです。この感謝が神様への信頼につながります。この感謝が神様を賛美し、礼拝することにつながります。この感謝をいつも心に抱きながら歩むためには、イエス・キリストがわたしたちの救いのために何をしてくださったかを知って、信じる必要があります。では、信じて、信じ続けるためには何が必要か、それはキリスト・イエスの言葉を心に常に蓄える必要があります。こうすることによっていつも感謝しつつ歩むことができます。
イエス様の言葉に聞いていくと、一人一人の心に平安・平和が与えられてゆき、そしてわたしたちが独りで歩むのではなく、信仰共同体、神の家族、教会として歩むことの必要性を知ることができるようになります。このキリストの言葉を中心とした教会を通して、神の平和がこの地上で構築されてゆきます。そのために、「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい」と励まされています。
さて、教会が一つになるためには神様の愛が必要です。何故ならば、神様の愛がすべての根源であるからです。また、わたしたちの弱さ、わたしたちの足りない部分を補ってくださる力であるからです。わたしたちが愛し合うためには、イエス様がわたしたちをどのように愛してくださったかを聖書から知る必要がありますし、イエス様の言葉に聞き従う必要があります。イエス様は十字架の死を前に弟子たちにこうお命じになりました。ヨハネ福音書13章34節、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしが愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」とあります。
イエス様の愛は、赦す愛です。ですから、責めるべきことがあっても、赦し合う力が与えられます。この罪を赦す愛を受けているので、この愛の力によって、互いに忍耐し合うことが可能になります。神様の愛、その赦す愛は、わたしたちに憐れみの心を持ち、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着ける者になる力を与えてくださるのです。すべては神様から与えられる恵みであり、この恵みによって信仰が与えられ、教会が与えられています。教会が一つの「キリストの体」とされてゆきます。
この箇所で次に重要なのは、「互いに」という言葉です。この言葉が何度も繰り返されます。何故ならば、独りで信仰生活を歩むのは難しいからです。サタンの揺さぶり・誘惑・攻撃があるからです。一緒に歩んで、共に祈り、弱った時は励ましてくれる神の家族がわたしたちには必要なのです。これがなくなると教会は弱体化し、信仰は消滅してしまい、神様の恵みが無駄になってしまうのです。神様に選ばれ、聖なる者とされ、愛されていることを共に喜び、感謝し、神様と教会と人々に仕えてゆく、それが信仰者と教会のあるべき姿ではないでしょうか。そしてそれは、イエス・キリストの言葉に聞き従うことから始まります。
さて、前置きがだいぶ長くなってしまいましたが、わたしたちが身に着けるべき性質の一つに「謙遜」があります。使徒ペトロは、教会を建て上げてゆくために、この「謙遜」が信徒一人一人に必要であることがよく分かっていました。それは、自分が過去に非常に傲慢な人間であり、復活したイエス様によって変えられる必要が彼にあったことを認めつつ、イエス様によって新しく変えられた体験をしていたからです。特にペトロは若者に向かって謙遜に生きることを励ましていますが、しかし年齢は関係なく、すべての人が謙遜に生きる必要があり、それがない限り、教会は立ち行かなくなることをよく分かっていました。
ですから、5節の後半になりますが、「皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みを与えてくださる』からです」と言っています。クリスチャンに、キリスト教会に必要なのは「謙遜さ」です。強いて言うならば、「互いに謙遜になること」です。このペトロ5章後半にある言葉は、旧約聖書の箴言3章34節からの引用です。そちらには、「主は不遜な者を嘲り、へりくだる人に恵みを賜る」と記されています。良いチャンスですから、「謙遜」に関して記されている他の箴言の箇所も読んでおきましょう。箴言18章12節には、「破滅に先立つのは心の驕り、名誉に先立つのは謙遜」とあります。また箴言22章4節には、「主を畏れて身を低くすれば、富も名誉も命も従って来る」とあります。非常に興味深いですね。
傲慢な人とは、どういう人でしょうか。言葉の定義としては、「おごり高ぶって人と見下すこと。また、そのさま」とありますが、こういう人には「自分中心、人の意見を聞かない、気分屋、ナルシスト、甘やかされて育った人、自己主張する人」というレッテルが貼られ、厄介者扱いされてしまいます。インターネットを閲覧すると、傲慢な人との付き合い方などがたくさん紹介されていますが、ほとんどが距離を取りなさいとか、距離をすでに取っているというコメントが多いです。
傲慢な人は、ただでさえ希薄になっている関係性を破壊します。しかし、謙遜な人は、関係性をさらに豊かに強固なものにします。社会にも、教会にも、必要なのは謙遜な人です。
謙遜な人、謙遜な教会になるためには、何が必要でしょうか。それは、神様の愛と真理の言葉です。イエス様の言葉です。このイエス様の言葉に日頃から常に聞くことが大切になります。主イエス様の言葉を基礎にしてゆく中でわたしたちの信仰は整えられ、成長が与えられてゆきます。そしてそれが教会を建て上げてゆくことが祝福につながり、そして神様に期待されている聖霊の実を豊かに結ぶ健康な教会へと整えられ、霊的成長が与えられてゆきます。
周りを見渡しますと、偉ぶっている人、粋がっている人、自己中の人、人を平気で利用する人、自分の意見を通そうとする人、失敗しても自分の間違いを認めない人、自分の思い通りにいかないと周りに当たり散らす自分本位の人がいます。自分には金や権力や才能があると仰け反っている人があります。しかし、上には上がいるのです。上の上を突き詰めてゆくと、神様とイエス様がおられるのです。イエス様とわたしたちとの間には、十字架があるのです。そのことを忘れてしまうと、謙遜に生きられなくなります。ですから、この新しい年も、主イエス様だけを共に見つめて、イエス様の言葉だけを共に聞き、そして従ってゆきましょう。共に歩んでまいりましょう。その謙遜な歩みを神様は祝福してくださると約束してくださっています。主と主の言葉を信じましょう。主に信頼して歩んでまいりましょう。