「人を分け隔てない実」 5月第四主日礼拝 宣教 2020年5月24日
ガヤテヤの信徒への手紙 2章1〜10節 牧師 河野信一郎
今朝も、神様に礼拝者として招かれ、インターネットを通してこの時と場に出席くださっている皆さんと、そして、この場所で礼拝を配信するために仕えてくださる皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。東京、神奈川、埼玉、千葉に生かされているわたしたちは、もうしばらくの間、このような形で礼拝をおささげすることになりますが、この期間、礼拝もライブ配信が始まり、神様から様々な気づきが与えられました。主に信頼して静まること、神様の時を待つこと、忍耐すること、優しさと思いやりを持つことの大切さ、今まで当たり前にしていたことを感謝すると同時に、古いものにしがみつかない心の柔軟さの必要性、新しい生活のあり方、隣人との接し方、様々な新しい課題もたくさん与えられました。礼拝をおささげできることがどんなに幸いなことか、喜ばしいことか、感動的なことであるかを教えられました。これらのことを大切にしてゆきたいと思います。
さて、今朝は、宣教に入る前に、皆さんにお祈りに覚えていただきたいことが3つあります。1つは宣教の最初の部分で、2つ目は宣教の最後の部分で分かち合わせていただきたいと思います。
まず一つ目の祈りのリクエストですが、今週土曜日の朝に開かれる大久保教会の執事会を覚えてぜひお祈りいただきたいということです。緊急事態宣言が解除される日が近づいている様に見受けられますが、解除後にどの様に教会施設を整えてゆき、教会員をはじめとする礼拝者を迎えてゆき、一緒に礼拝をおささげして行くかという直近の重要課題がありまして、細心の心配りと知恵とマンパワーを屈指して、新しいセッティングの中で礼拝を共にささげるという取り組みをしてゆかなければなりません。ここまでみんなで頑張ったのに、教会が感染第二波の感染源になるわけにはゆきませんし、ご高齢の方々や基礎疾患をお持ちの方々はまだまだ恐れや不安は拭えないと思います。教会に戻りたくても同居するご家族のこと、ご両親のことを考慮すると今はどうしても戻ることができないというジレンマがあると思います。
すべての方に教会へ帰ってきていただきたいという願いと、「教会がクラスターになってはいけない」という強い思いが執事会にはあり、そうならないための方策を立てる責任があります。執事会内では、すでに画期的なアイデアが出されたりしていて、私は驚きを隠せません。「主の導きに従って前進しよう」という年間標語どおりにこの教会が力強く進もうとしていること、神様が、ご聖霊がわたしたち教会を力強く導こうとしている様に感じ取っていますし、何か新しいことが始まる、神様が始めてくださるという大きな期待で胸が熱くなってきます。とにかく、執事会が心一つに神様によく祈って、み旨を求めて、神様の喜ばれる生きた聖なる礼拝をおささげできる準備ができる様に、教会のこれからの歩みのためにお祈りいただきたいとお願いいたします。
さて、今朝は「人を分け隔てない実」という主題でガラテヤの信徒への手紙の2章から宣教をさせていただきたいと願っていますが、皆さんの中には、「今朝の宣教主題は変なタイトルだなぁ。人を分け隔てない『実』って、何それ?」とお感じになられる方もちらほらおられると思います。確かにそうです。今朝の聖書箇所であるガラテヤの信徒への手紙2章7節には「神は人を分け隔てなさいません」とあり、この言葉どおり、神様はわたしたちを「分け隔てされない神」でありますから、そのままを主題にしたほうが良いと考えます。しかしながら、私はあえて「人を分け隔てない『実』」としました。その理由は、教会の年間標語に「霊の実を結ぶ教会」という副題があり、つまりもう一つの目標がありまして、神様とイエス様が、わたしたち大久保教会に、また皆さん一人一人に、「人を分け隔てしない実を結んで欲しい」と願っておられる、それが神様の御心であるということをと分かち合いたい、つまりそれが今朝の宣教のゴールであるからです。
では、どのようにしたら、わたしたちは自分と人を、人と人を、こちらのグループとあちらのグループを、一つの人種とそれ以外の人種、一つの民族とそれ以外の民族を「分け隔てしない実」を結ぶことができるのでしょうか。これこそが、今朝わたしたちが信仰の耳を立てて聴くべきテーマであります。
しかしまず、わたしたちが土台とすべき基本中の基本に戻りましょう。その基本とは、救い主イエス・キリストを信じるということ、つまり主イエス様はわたしたち一人一人の罪を贖うために十字架に架かって死んでくださり、その三日後の日曜日の朝に神様の大いなる力によって死から甦られた復活の救い主と信じて、このお方につながるということが最重要です。この復活の主を信じて、この救い主につながらなければ、わたしたちはいとも簡単に神様が嫌われる敵意や争い、妬みやそねみ、怒りや利己心や仲間争いという実は結べますが、神様の喜ばれる愛や喜び、平和や寛容、親切や善意、誠実や柔和などの霊の実を結ぶことはできません。また同様に、「人を分け隔てしない」という実を結ぶこともできないのです。
人を分け隔てしないというのは、そもそもの間違いである「人と人を比べる、比較する」ことをしないということ、一人一人が神様によって造られ、愛され、生かされている存在であると認め、互いの存在を喜び合う、共に生きるということであると思います。神様の助けを日々受けつつ、人を分け隔てしない社会を作ろうと祈りつつ、聖書のみ言葉に聞きつつ、ご聖霊の導きの中でそのことに全力を注ぐならば、わたしたちは人を分け隔てしない社会だけでなく、人々からも分け隔てされない社会、互いに分け隔てをしない世界を共に構築してゆくことが、神様の憐れみの中で可能になる。わたしたちにはできなくても、わたしたちを通して神様にはできる。神様にできないことは何一つありません。御心を求め、信仰をもって神様の御心のままに従ってゆく時に、神様が御心をなしてくださる。そう信じて従うことがわたしたちのなすべきことではないでしょうか。そのために大切なのは、わたしたち一人一人が復活の主イエス様を信じ、このお方につながり続ける、信頼し続け、聞き従い続けるということです。
現代でも世界中に様々な民族や人種、性別や職種の差別、地理的な区別や分離があり、そこから噴出する争いがありますが、初代キリスト教会にもユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンの間に基本的な考えの違い、神様から受ける「恵み」に関する捉え方の違い、そこから来る差別的な間違った考え・教えがあり、解決しなければならない課題がありました。私がここでいう初代キリスト教会というのは、使徒ペトロたちがユダヤ人たちに福音を伝えたエルサレム教会と使徒パウロたちが異邦人たちに福音を伝えたシリアにあったアンティオケ教会を指します。
先週もお話ししましたが、パウロ先生がイエス様から直接啓示された福音、アンティオケ教会が伝えた福音とは、1)救いはイエス・キリストにある、2)信仰によってのみ神に受け入れられ、恵みのうちに救われる、3)ユダヤ人以外の異邦人も信じるだけで救われるということでしたが、エルサレム教会の一部のグループ、律法主義的ユダヤ系クリスチャンたちの福音、主張は、1)救いはイエスを救い主と信じることプラス割礼を受け、モーセの律法を守り、2)異邦人はユダヤ人の生き方に倣ってユダヤ人のように生きる必要があるということで、自分たちの考えを異邦人クリスチャンたちに押し付けようとしました。そういう理由もあって、このガラテヤの信徒への手紙も書き送られたわけです。
しかし、パウロ先生の主張、キリストから直接受け取った福音はそうではない、神様の愛・憐れみ、恵みによってのみ、わたしたちは救われていて、ユダヤ人のようになることではなく、キリスト・イエス様のように変えられて行くことが神様の御心だということです。
アンティオケ教会を拠点に異邦人伝道が進んでいった中で、エルサレム教会の流れをくむユダヤ主義的クリスチャンが、先ほど申しました割礼と律法を守ることを異邦人クリスチャンたちに強制する事件が起こりました。そのような中で、エルサレム教会を中心としたユダヤ人クリスチャンとアンティオケ教会を拠点としたパウロ先生や異邦人クリスチャンたちの間に、摩擦や対立の問題が浮かび始め、それは福音宣教の前進を、また神様の御心を行うことを阻むことであるため、問題解決のために「エルサレム会議・使徒会議」なるものがエルサレムで行われることになりました。その時のことが、今朝の2章1節から10節に記されていて、使徒言行録15章にもこの会議の詳細が記されていますので、後でぜひ読んでいただければと思います。
まず1節をご覧ください。「その後14年経ってから、わたしはバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました」とあります。パウロ先生は、1章18節に記されている第一回目のエルサレム訪問から足掛け14年後、紀元48年頃ですが、バルナバと共にアンティオケ教会を代表してこのエルサレム会議に出席するのです。1節の後半に、「その際、テトスも連れて行きました」とありますが、テトスという人はギリシャ人クリスチャンで割礼を受けていない人で、異邦人伝道の成果を示す証し人として同行しました。
2節には「エルサレムに上ったのは、啓示によるものでした」とありますが、神様と主イエス様の導きによって、励まされて上ったということです。自分たちの感情や考えのみでエルサレムへ上ったわけでは決してないということです。エルサレム訪問の目的は、エルサレム教会と使徒たちとよく話し合ってしっかりつながり、連帯を確認し、平和を構築するためでした。パウロ先生の基本的な考えは、神様、イエス様の御心を大切にし、御心に生きるということでありましたから、両者の摩擦や対立を払拭することでした。
2節の後半から6節を読みますと、エルサレム教会の主だった人たち、つまり使徒ヤコブ、ペトロ、ヨハネたちはパウロ先生たちを受け入れてくれ、彼らに対して異邦人への福音伝道について説明と説得でき、屈服も譲歩もしないで、異邦人伝道への理解を得ることができたということが記されています。ここに神様の助けによる「分け隔てしない実」が、平和の実が実ったのです。
7節から10節を読んで行きますと、エルサレム教会とアンティオケ教会との間に3つの重要な合意が成立したことが記されています。まず1つ目は7節にありますが、「彼らは、ペトロには割礼を受けた人々に対する福音が任されたように、わたしたちには割礼を受けていない人々に対する福音が任されていること」を互いに確認し、それぞれの働きを尊重することが合意されました。つまり、真のクリスチャンとされるために、異邦人はユダヤ人になる必要はなく、異邦人のままで生きることが神様の御心であると認められたということです。
2つ目の重要な合意は、8節にありますが、「割礼を受けた人々に対する使徒としての任務のためにペトロに働きかけた『方』は、異邦人に対する使徒としての任務のために私にも働きかけられたのです」とありますように、ユダヤ人への福音宣教の任務をペトロに与えた方と異邦人への福音宣教の任務をパウロに与えた方は、決して人を分け隔てしない神様、同じ神様であるということの確認、すなわち信仰の一致がここで得られたということです。
3つ目の重要な合意は、9節にありますが、「また、彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファ(ペトロ)とヨハネ、つまりエルサレム教会の柱と目される主だった人たちは、わたしとバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、わたしたちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々のところへ行くことになったのです」とありますように、相互の連帯を確認し、交わりと協力を約束する握手をしたのです。
唯一付け加えられたのは、10節です。「ただ、わたしたちが貧しい人たちのことを忘れないようにとのことでしたが、これは、ちょうどわたしも心がけてきた点です」とパウロ先生は言っています。この貧しい人たちというのはエルサレム教会の貧しい人たちという意味で、パウロ先生やアンティオケ教会のクリスチャン、異邦人の諸教会は弱い人々、教会を忘れずに祈り、協力伝道献金を送金し続けたということです。
今朝の宣教を閉じるにあたり、二つの祈りのリクエストと言いましょうか、チャレンジをしたいと思います。
明日から明後日まで、オンラインで開催される「地区宣教主事会議」という会議があり、わたしも出席するのですが、この会議のために祈っていただきたいのです。日本バプテスト連盟は、全国320の教会と伝道所からなる、キリストの福音を共に伝える協力伝道体です。これらの教会・伝道所は、それぞれ13地域の地方連合に加わっていますが、連盟の国内宣教部はこの13の地方連合を4つの大きな地区に分け、各連合の会長に協力いただき、連盟常務理事、宣教部長、そして8名の地区宣教主事が祈りと知恵と力を出し合って諸教会・伝道所のサポートを行っています。詳しく説明しませんが、様々な支援の申請が多数寄せられ、申請のあった教会へ地区宣教主事が出かけて行って、教会の様子を見たり聞いたり、そして一緒にお祈りして、それぞれの教会の宣教課題をサポートしようと頑張っていますが、すでに4月と5月初旬の2つの会議がコロナウイルス感染拡大防止のために中止となり、この間、全国の多数の教会から支援要請が届いています。しかし、今年だけでなく、2・3年のスパンの中で、人材的にも、また財政的に困窮・疲弊する教会が増加すると思われます。全国の諸教会からささげられる協力伝道献金のみで互いをサポートし合えることにも限界があり、支援するにしても十分な資金がありません。明日から開かれるオンライン会議では、とてもシビアなことも話し合わなければならないと思われます。通常三日間20時間で話し合うことを二日間10時間で、しかもオンラインで話し合います。タフなスケジュールですが、良い協議ができる様に覚えてお祈りください。
もう一つのお願いは、献金のお願い、チャレンジです。皆さんの手元には特別給付金がすでに届いたでしょうか。各自治体によって給付の作業スピードが違うようで、すでに受け取っておられる方、申請して待っておられるという方もおられると思います。実は、先々週と先週ですが、どうしてか分かりませんが、給付金の使い道について相談の電話が二人の方からありました。それも大久保教会員ではない方々、お名前も名乗らない男性と女性からでした。話を聞いていますと二人ともクリスチャンのようです。わたしは「ご自分の所属する教会に献金しては」と勧めましたら、事情があって教会とは疎遠になっていると言います。わたしは「それはいけませんね。祈って教会を求めて、教会につながってください。給付金が神様からの恵みとお考えならば、そこで献金を献げてください」と言いました。
さて、皆さん、わたしは今朝の宣教を台無しにするつもりは全くありません。皆さんの手元に届けられる給付金をすべて神様に献金しなさいと言っているわけではありません。皆さんの生活に支障がないようにと国から支給されるお金ですし、そもそもわたしたちの税金ですから、自分や家族の生活のために、命を守るために使っても何ら問題はありません。しかし、そのお金も神様から与えられる恵みと理解するならば、与えられた一部を、十分の一を感謝のしるしとしてご自分の意思で献金することは良いと思います。それぞれの自由です。しかし、今朝のみ言葉にもありましたように、わたしたちの周りには貧しく、小さくされている人たち、傷つき、弱っている方々、助けを必要としている方々もおられることを忘れてはならないと思います。
もし、神様の恵みに生かされていることを喜び、感謝していて、その恵みに応答したいとお考えならば、恵みの一部を必要な人に届けていただければと思います。連盟の困窮している諸教会を覚えて協力伝道献金を献げてくださることも一案です。今、ホームレスになる方々が増えています。クリスチャンの団体でホームレスを支援するココロケアという働きがありますから、そこに支援をしてみてはどうでしょうか。自宅に留まることが家庭内暴力や児童虐待につながっていることが報道されています。その中で最も傷つくのは子どもたちです。その子どもたちの命を守るため、児童虐待防止のために活動するオレンジリボンというNPOの団体がありますから、そのような活動を支援してはどうでしょうか。今、たくさんのシングルマザー、シングルファザーが日々悪戦苦闘しながら子どもたちと共に生きようとしています。そのような方々を支援してはどうでしょうか。日本に寄留している外国籍の方々も苦労しています。アルバイトもできないで苦闘している学生たちを支援するのはどうでしょか。大切なのは、神様が愛しておられるわたしたちの周りにいる人たちに目を注ぎ、心を注いで仕えるということではないでしょうか。それが「人を分け隔てしない実を結ぶ」ということではないでしょうか。