「今こそ恵みの上に立つ時」 四月第四主日礼拝宣教 2021年4月25日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 1章4節〜10節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今日から3度目の緊急事態宣言が発令されたため、今朝からまたしばらくの間、礼拝はすべてオンラインとなりました。皆さんとご一緒にこの礼拝堂に集って賛美をささげ、祈りをささげ、共にみ言葉に耳を傾けることができないのはとても悲しく残念ですが、お互いの命、それぞれの健康と日々の生活を守るためですから致し方ありません。
もう一つ残念だなぁと思うことは、教会の庭にはたくさんの花が咲いていたり、椿の木々も素晴らしいグリーンの新芽が出ていたり、それを皆さんにお見せできないことです。夏みかんの木にたくさんの白い蕾がついたことを2週間ほど前にお伝えしましたが、今はそれが開き、たくさんの花を咲かせております。そしてその木の下では本当に小さなすずらんが美しく咲いています。その可愛らしいすずらんを見ていただきたかったと思いました。(写真は教会のすずらんです)
今回の緊急事態宣言、皆さんもさぞかし心を痛めておられるでしょう。ゴールデンウィークが2年連続有って無いものとなり、旅行などの楽しい計画がみんなダメになり、深いため息をつかれておられるかもしれません。「もういい加減にせい!」と痺れを切らし、やりどころのない怒りを心に秘めておられるかもしれません。わたしの友達は、今週末に久しぶりのコンサートの開催の予定がありましたが、この三度目の宣言の中でどうでしょうか。彼らの心情を察するばかり、心が痛み、苦しくて、どうなったかと尋ねることもできません。
牧師仲間に頭の回転が非常に早い人がいまして、今回の緊急事態宣言を「二度あることは三度ある」ではなく、「三度目の正直」であって欲しいと言っていました。また、3度目の緊急事態宣言が「短期集中」なら、ワクチンも「短期集中」でお願いしたいと上手いことを言っていました。確かに「二度あることは三度ある」ですと、もしかしたら四度目もあるかもしれないと不安になりし、早くワクチンの接種ができないかと焦りますが、「三度目の正直」であるならば、これが最後と少しでも希望を持つこともできるということでありましょう。
しかし、わたしたちは、主なる神様に希望を置く者であります。今朝の礼拝への招きの言葉としてイザヤ書41章10節を選びましたが、主なる神様がわたしたちにこう言われるのです。「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える。」と約束してくださいます。同じイザヤ書41章17節では、「イスラエルの神であるわたしは彼らを見捨てない」とも約束してくださいます。力を持つ敵がわたしたちに戦いをいどみ、襲い掛かってきて今にも大きな危害が加えようとする中、恐れと不安に押し潰されそうになる時にも、わたしたちを見捨てず、いつも共にいてくださり、その救いの右の手でわたしたちを支え、助け、そして前進する勢いを与えてくださる神様がわたしたちの近くに常におられます。わたしたちには神様の約束があります。そしてその約束は、新約の時代に神の子イエス・キリストによって守られ、今も守られています。この救い主、神われらと共におられるというインマヌエルの神が、わたしたちを日々励まし、慰め、生きる力を与えてくださいます。イエス様の代わりにペンテコステの日に与えられたご聖霊がわたしたちを絶え間なく守り導いてくださいます。ですから、わたしたちは恐れる必要はありません。わたしたちに必要なのは、神様、救い主イエス様、ご聖霊に信頼し、コロナパンデミックからの救いの時を忍耐して待つ信仰です。
先週の営みの中でわたしの耳に残ったもう一つの言葉は、「三度目のトンネル」という言葉でした。三度目の緊急事態宣言を言い表す言葉です。一度目は昨年の4月7日から5月25日までの49日間。二度目は今年の1月8日から3月21日までの73日間。三度目の宣言は今日から5月11日の17日間と言われていますが、延長も考えられます。いつ解除されるでしょうか。1年以上長引くコロナパンデミックは本当に終息するのでしょうか。長いトンネルが何度も何度も繰り返されると気持ちは本当に滅入り、わたしたちの顔はうつむいてしまいます。
わたしは若い時、まだ結婚前でしたが、新幹線に乗って東京から岡山や福岡の友人を訪ねる機会がありましたが、新大阪を出て神戸付近になりますとトンネルが多くなって、新神戸駅がトンネルとトンネルの間にあることに衝撃を受けました。神戸という町はとっても狭い土地なんだと新幹線の窓から外を眺めてそう思い込んでいましたが、そこで数年後に長女が誕生するとは思いもせず、その時はただひたすら、もう少し我慢したら懐かしい人達と再会できるという希望で胸を膨らませました。もし今回の緊急事態宣言が本当に「三度目の正直」であるならば、わたしたちはあとしばらくの辛抱で大好きな人たち、教会の家族と再会ができ、また一緒に礼拝をおささげすることができます。主にあって希望を抱くことが大切です。
昨年の4月7日以来、礼拝堂に集って一緒に礼拝できなかった回数は、すでに20回を優に超えています。あとどれだけ礼拝できないか分かりませんが、神様に希望を抱く人は「永遠」という時間の概念すら当てはまらない中で、神様を礼拝する恵みに与ることができます。希望を持ってあと何回か辛抱するだけで、永遠に神様に賛美をささげることができる幸いを得ることが神様の憐れみと祝福のうちにできるのです。ですから、もうしばらくトンネルは続きますが、その先に約束されている祝福を楽しみにして、主に望みをおいて、静まる時を過ごしましょう。そのように過ごすことが、わたしたちに対する神様の御旨であると信じます。主イエス様を通して祝福の約束が与えられていることを信じて、主と共に前進しましょう。
さて、今朝みなさんとご一緒に聴きたい聖書にあるみ言葉は、第一コリントの1章の最初の部分です。この箇所は先週の墓前礼拝の時にも分かち合った箇所ですが、三度目の緊急事態宣言期間を今日から過ごしてゆく中で皆さんと一緒に心に留めておきたいと感じたところです。コリントというギリシャにある商業が発達した非常に重要な都市で、経済的に豊かな分、道徳的と申しましょうか、宗教的、人間的には非常に堕落した都市でありました。
しかし、そのような土地にもキリストの福音の種まきがされ、祈られ、水や肥料がまかれ、キリストの教会が生み出されてゆきました。しかし、そのような教会にも様々な課題や深刻な問題が起こり、教会内に分裂や争いや裁きあいが起こり、それらの課題や問題を解決へと導くために、苦闘しているクリスチャンたちを励ますために、この手紙が使徒パウロから書き送られました。何度もなんども、愛と祈りの中で手紙のやりとりがなされました。
クリスチャンの信仰の中心は何か、教会の土台は何か、クリスチャンの地上での使命、教会の使命は何か、イエス・キリストを救い主と告白する者はどのように生活をして神様の栄光を現すのか、神様から与えられた霊的賜物をどのように用いるべきか、教会の秩序をどのように守るべきか、課題や問題とどのように向き合うか、教会の秩序を乱す人たちとどのように向き合うべきなのかなどなど、様々なテーマが二つの手紙にまとめられています。全てのテーマを取り上げることはいたしませんが、主の導きの中で示されたことがあれば、その都度、皆さんと分かち合い、共に聴いてゆきたいと願っています。
しかし、神様とイエス様によってコリントの教会に集められているクリスチャンたち、主にある兄弟姉妹たちへ宛てて書かれたこの二つの手紙の主題は何であるかと尋ねられたら、第一コリントの10章31節にある「あなたがたは、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」という言葉に尽きると思います。「神様のために生きる」ということです。確かにこう感じたり、考えられる方もおられると思います。「どうして自分のために生きずして神様のために生きなければならないのか、自分の人生をどうして好きなように使ってはいけないのか、そんなに縛るのなら、神という存在はただ単に私を束縛するものではないか。私はそのような束縛する神など必要ない。自分の思うように自由に生きる」と。
しかし、わたしたちの社会での生活はどうでしょうか。本当に自由でしょうか。目に見えないとてつもない大きな社会的枠組みの中に放り込まれ、いろいろなものに管理されて生きているのではないでしょうか。周りの人々の顔色をうかがったり、ひそひそ話が気になったり、誰かしらから関心や好意を寄せられることを密かに期待したり、それをひたすら待ち続けている生活を送っていないでしょうか。管理されたシステム・枠組みの中でさえも人々との摩擦が毎日繰り返し起こるのに、すべての人が自分のやりたいように生きようとすると、制御不能になり、痛みや苦しみや悲しみが増して、生きる意味すら分からなくなる、生きる希望も意欲もなくなり、ただ闇の中を彷徨ったり、海の上を漂っているだけではないでしょうか。
わたしたちは、闇雲に生まれてきた訳ではありません。闇雲の中を走り抜けるために生きているのではありません。永遠の闇に向かって歩んでいるのではありません。わたしたち一人一人を創造され、この地上に生かしてくださる神様にはご意志とご計画とご配慮があり、わたしたちを生かす目的があります。しかし、わたしたちはそれを知らない、見えない、求めない。どうしてでしょうか。それは、わたしたちの心が罪によって汚され、自分を愛する思い、自分を幸せにしようとする欲望で満たされ、その欲望が満たされないために不満や焦りや怒りや妬みで心が満たされているからです。自分のことしか考えない自分がいるのです。
このコリントの手紙には、わたしたちがどれだけ人間の醜い欲望に満ちているかが記されていますが、そのようなマイナスな事実ばかりではありません。この手紙には、そのようなわたしたちを愛してくださる神様の存在、わたしたちの罪を贖うためにわたしたちの身代わりとなって十字架に死んでくださり、三日目に甦られた救い主イエス様の存在、そしてわたしたちを常に正しい道へ導いてくださるご聖霊の存在がある、おられるということが記されています。困難なことが続く人生の中で苦闘するわたしたちを励ますためにこの手紙は愛と祈りをもって記されました。わたしたちがそのような苦しみから解放されて、生きる目的や使命を見つけ出し、誰からも束縛されず、本当の意味で自由に生き、神様の喜びのために、栄光を現すために生きるためです。そのために必要であるのが救い主イエス様との出会いです。イエス様と出会って、イエス様を信じて、イエス様に結ばれて、イエス様に従ってゆくこと。
使徒パウロは、復活されたイエス様と出会って本当に変えられました。イエス様を信じる者たち、キリスト教会を迫害する先頭に立っていた彼が復活のイエス様に出会って彼の人生は大きく方向転換が起こり、イエス様のために生きる者とされてゆきました。わたしたちも復活の主イエス様に出会い、この主の御足の跡に従って生きることが大切です。パウロ先生は、復活のイエス様に出会えたことは「神様からの恵み」だと言って感謝しています。そして同じように復活のイエス様に出会って信じて従っている人々を自分の兄弟姉妹と呼んでいます。
パウロ先生はこのようにコリントの教会の兄弟姉妹たちへ書き送っています。4節から5節を読みたいと思います。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」とあります。ここで心に留めたいことは、わたしたちはイエス・キリストを通して神様の恵みを受け、その恵みのうちに生かされ、すべての点で豊かにされているということ。神様とイエス様がわたしたちの必要をすべて満たしてくださるお方であるということです。
8節をご覧ください。この主が「最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます」とあります。主なる神様がそのようにわたしたちを変えてくださり、祝福してくださると約束されています。
9節。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです」とあります。長いトンネルの中を行くときも真実なる神様が共にいて、親しい交わりへと招いてくださいます。だから、わたしたちは大丈夫なのです。独りで頑張る必要などなく、真実なる神様の恵みの上にみんなで一緒に立って行くことだけが必要なのです。
ですから、主にあって絶対に希望を捨てることなく、10節をご覧ください、主にあって「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合い」ましょう。これが、神様がわたしたちに求めておられることです。主の恵みの上に立ち続けてまいりましょう。今がその時です。