「今を耐え忍ぶことができる明確な理由」 八月第三主日礼拝 宣教 2025年8月17日
ヘブライ人への手紙 6章13〜19節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も、礼拝堂におられる皆さん、そしてオンラインで出席くださっている皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる恵みを主に感謝いたします。今週の関東は、雨が少し降る日もちらほらあるようですが、それ以上に35度を超える危険な暑さの日も多くあるとの予報です。熱中症対策をお願いします。また百日咳や新型コロナの感染も増加していますので、くれぐれもお気をつけてお過ごしください。お祈りしております。
さて、先週15日の敗戦記念日の朝、千鳥ケ淵戦没者墓苑で平和祈祷会があり、久しぶりに出席しました。一番驚いたのは、墓苑の入り口で荷物検査があったことです。空港以外で金属探知機チェックがあったのは初めてです。数年前は墓苑の中を自由に歩けましたが、今回は警察官の数もさることながら、多くの柵で囲まれて行動範囲が定められていました。祈祷会に出席される方の数も、高齢化の波に押されて、減少しているのは明らかでした。
しかし、幸いなことがありました。Kご夫妻の義理の息子さんであられるK教会のCさんにお目にかかることができ、短い立ち話ではありましたが、Kご夫妻のご様子をお伺いすることができました。日曜日の午後に、ユーチューブで大久保教会の礼拝に出席くださっているそうです。今週火曜日は、月報や週報を月に一度お送りする日です。礼拝後に一筆書いてくだされば同封することもできますので、お気持ちのある方はお書きください。
さて、9月から始まりますエレミヤ書のシリーズの準備を進めていますが、示される御言葉がたくさんあり過ぎて、良い意味で悩んでいます。9月から11月まで進めてゆき、終わらなければ来年一月から再開ということもあり得ます。お祈りください。水曜日の祈祷会も9月からヨハネによる福音書を1章から読み進めてゆきます。この機会に祈祷会への出席もお考えください。ヨハネ福音書の学びは、ルカ福音書の時と同じように、教会ホームページに掲載しますので、よろしければお読みください。また、9月は「教会学校月間」です。日曜日の朝の10時10分から30分の教会学校成人クラスです。今月は申命記を共に読んでいますが、9月はヨシュア記を読みます。1時間早めに家を出るのは大変かもしれませんが、その大変さ以上の恵みを受けることができると思いますので、教会学校にご参加ください。
さて、今月は「忍耐」という言葉をキーワードに、聖書から神様の語りかけをご一緒に聴いていますが、今日と来週24日は、ヘブライ人への手紙から忍耐についてさらに聴いてゆきたいと願っています。この猛暑が続く夏を過ごす中にも忍耐が必要ですし、歯止めがかからない物価高にも我慢が必要です。忍耐を強いられていることが日々多くあるかと思いますが、皆さんは、今、何に対して忍耐されているでしょうか。ご自分や家族の病気、怪我、老い、介護、仕事、貧困、社会的課題や問題があるでしょうか。他にも多種多様なことに忍耐力が日々試されているかもしれません。飢餓や迫害、移民問題も世界レベルであります。
しかしながら、たぶん最も大変で、頻度が多いのは、人間関係の中で忍耐することだと思います。そうではないでしょうか。生きてゆく中で、夫婦関係、親子関係、友人関係、職場の上下関係、近所関係、義理の家族との関係、赤の他人との関係、社会の中でも様々な関係性があるわけです。細やかな配慮が必要であったり、忍耐も必要となってくるわけです。それは、人間同士お互いに忍耐が必要ということです。しかし、その忍耐は何から生み出されるのでしょうか。忍耐するには、何が必要なのでしょうか。
現代社会の中には大小様々なハラスメントがあります。それは職場や学舎だけでなく、家庭の中にもあるし、教会の中でもあるかもしれない。それに対して悩んだり、苦しんだり、不満が徐々に増加していって、怒りや憎しみや敵意が生まれてくるわけです。レストランやカフェに入って飲食をしている時に隣の席からよく聞こえてくるのは、微笑ましい明るい話題ではなくて、職場や家庭での人間関係に関する愚痴や悪口や噂話です。皆さんには、そのような経験はないでしょうか。そういう愚痴や悪口は人間関係が病んでいる証拠です。鬱憤は日々溜まり続け、あるきっかけで爆発し、関係性が修復不可能な程までに壊れてしまう。そこには、わたしたちが心から望む平和はありません。傷つく人や悩む人ばかりです。
イエス・キリストを救い主と信じ、この主に従う者にとっての一番の問題は、そのような状態になるのは神様の御心であるのかということです。答えは聖書に明確に記されていて、わたしたちはそれをよく知っていると思います。人生には試練・苦難があります。試みがあります。そういう中で最も苦しむのは、試練や苦難をなぜ耐え忍ばなければならないのかということです。もし皆さんが苦しみや悩みの中におられるならば、その苦しみの理由を明確に知っておられるでしょうか。もしその理由が分かれば、少しは心も落ち着き、神様に祈ったり、聖書を読んだり、対処方法も考えられるようになり、問題を解決しようと少しずつでも前向きになれるのではないでしょうか。
今朝と来週の日曜日の礼拝でご一緒に聴くヘブライ人への手紙は、ユダヤ人クリスチャンたちに対して書き送られた手紙です。ユダヤ人としての律法に生きる民のアイデンティティーとクリスチャンとしての神様の愛と憐れみ、恵みに生きる者のアイデンティティーを合わせ持つ人に対しての励ましの手紙です。なぜ励ましが必要であったのか。それはクリスチャンであるがゆえに多くの人々は厳しい迫害を受けていたからです。ある者たちは投獄され、ある者たちは財産をすべて失い、多くの人々は住み慣れた町を離れて各地に離散して行ったということが10章33節と34節を読みますと分かります。
皆さんは、自分の国民性(例えば、日本人としての)アイデンティティーとクリスチャンとしてのアイデンティティーのどちらかを選びなさいと命じられたら(強要されたら)、どちらを取られるでしょうか。その理由を誰かから質問されたら、自信と誇りをもって明確に答えることができるでしょうか。これからの時代、自分はいったい何者であるのかというアイデンティティーに関する問いかけが影のようにいつも付きまとうようになると思います。闇の中を生きれば、つまり偽りの中に生きようとすれば影はありません。しかし、光の中を、真実の中に生きることを望むのであれば、自分の足元には影が必ずあるわけです。
もし、自分が何者であるかが分かれば、たとえ試練や苦難の中に置かれても、今を耐え忍ぶことができると思います。自分が何者であるかが明確に分かり、それを信じ続けるならば、たとえ人生が嵐のような状態に置かれていても、その荒波の中でも信仰とその信仰から生み出される希望という錨を下ろしているので、信仰に留まることができ、希望を持ち続けることができ、どこかへ流されることはありません。イエス・キリストを通して神様から与えられた信仰はなくならない、失うことは決してないのです。
さて、ヘブライ人への手紙にも「忍耐」という言葉がなん度も使用されています。今朝のテキストである6章19節には、「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」とありますが、ここにある「安定した」という言葉が「忍耐」と同じ言葉になっています。他にも、15節の「アブラハムは根気よく待って」の「根気よく」も、18節の「目指す希望を持ち続けようとして」の「持ち続ける」も忍耐につながっている言葉です。
しかし、今朝、皆さんと注目したい言葉は、それらの言葉ではなく、18節の後半にあります「世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです」という言葉です。これは迫害や投獄を逃れて来たという意味ですが、現代のわたしたちに当てはめますと、日々の苦難や罪の誘惑から逃れていると言っても良いと思います。そういうわたしたちが力強く励まされる『二つの不変の事柄』があると記されているのです。新改訳聖書では、「変えることのできない二つの事がら」となっていますが、その二つの不変の事柄とはいったい何でしょうか。それはユダヤ人の父祖アブラハムに対してなされた祝福の「約束」とその約束を守ると宣言された「誓い」です。
13節と14節に、「神は、アブラハムに約束をする際に、御自身より偉大な者にかけて誓えなかったので、御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました。」とあります。17節には、「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです。」とあります。ユダヤ・ヘブライ人クリスチャンたちは、この約束と誓いを信じて、励まされて、神様に希望を持って信仰を歩み続けたのです。
ヘブライ人への手紙が書き送られた目的は、時代がどのように移り変わっても、どのような苦難に直面しても、神様の祝福の約束と誓いは絶対に変わらないし、この約束と誓いはイエス・キリストによってすでに果たされているから、イエス様の十字架の贖いの死と復活に目を注ぎなさい、苦難の中に置かれていても主イエス様に信頼し続け、つながり続けなさい、信仰に留まり続けなさいと励まし、希望があることを再確認させるためでした。ですから、たとえ大きな苦しみの中に今あっても、人生の中で危機的な状況にあっても、今はイエス様だけを見上げなさい、信じ続けなさい、従い続け、誠実に生きなさい、神様とイエス様はあなたを手放すことはないと励ますのです。
18節の最後の部分と19節を読んで終わります。「この事柄に関して、神が偽ることはありえません。わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものであり、また、至聖所の垂れ幕の内側に入って行くものなのです。」神様とイエス様は真実なるお方です。この神に信頼をおく者はイエス・キリストという光の内を歩むことができ、魂に平安が与えられ、忍耐して前進する力が日々与えられるのです。そしてその先に、永遠の祝福があるのです。神様の約束の言葉、イエス・キリストを信じ、感謝しましょう。