宣教要旨『今日、ここに神の国がある』(子ども祝福式) 副牧師 石垣茂夫 2018/11/18
招 詞 イザヤ書65章1〜2節 聖 書 ルカによる福音書4章16節〜22節(p107)
お読みいただきましたルカによる福音書4:16には、「 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息(あんそく)日(び)に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。」と、そのように記されています。
主イエスがお育ちになったガリラヤの寒村ナザレは、人口100人ともいわれ、まことに小さな村でしたが、そこにも「会堂」がありました。主イエスは幼いころから両親に連れられて会堂に集い、人々の祈りの内にナザレの村で成長されました。12歳になると大人の仲間入りをして安息日にこの会堂に集い、信仰者としての歩みを始めました。
やがて主イエスは、今やその地方一帯で知られ、尊敬される人物になっており、その日、主イエスはナザレに戻って来られました。礼拝には、皆さんが楽しみにして集っています。主イエスは今、故郷・ナザレの人々の目の前で講壇に登り、聖書を開き、お読みになりました。人々は静まりかえって主イエスに注目し、耳を傾(かたむ)け、ひと言も漏らさぬようにと、集中して見入っています。イザヤ書61章をご自分で選ばれ、説教者であるご自身がお読みになりました。
4:18 「主の霊がわたしの上におられる。
貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。
主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げるためである。」
4:20「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。」当時の礼拝のひとこまを伝える、大変、興味深い記述です。
16節に「会堂」という言葉がありました。ユダヤ教の礼拝堂を「シナゴーグ」と呼びますが、本来は「集まる」、あるいは「会衆」という意味の言葉です。
この「シナゴーグ」はの起源は紀元前6世紀の初めの「バビロン捕囚」にあります。ユダヤ民族にとっては、モーセの出エジプトに次ぐ大きな出来事でした。故国から遠く離れ、バビロンで生活していく中で、最も大きな苦しみは、礼拝の中心であったエルサレム神殿から遠く引き離されてしまったということでした。この神殿「礼拝の中心」を失った70年の生活を続ける中で、実は「新しい礼拝の在り方」が与えられるきっかけになったのです。彼らは、集会を繰り返す中で、神殿がなくとも「神を礼拝する」ということに導かれていったのです。これは、現在のキリスト教会の原型でもあります。主イエスはこの日、聖書の言葉を一字一句、丁寧に説明されると言うことはなさらなかったようです。
「そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話しはじめられた(21)。
その会堂に居合わせた人たちにとって、このイザヤ書は、これまで幾度となく聞いてきた御言葉であったことでしょう。しかし、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、
実現した』と言われました。会衆は、果たしてこの言葉を理解したのでしょうか。
わたしはもう少し分かり易い表現はないものかと探し『今日、ここに神の国がある』と、この宣教のタイトルにした言葉に出会いました。ここで使われています「今日」という言葉は、わたしたが毎日過ごしている「平凡な日々」という意味です。これから毎日、ずっとわたしがあなたがたと共にいるそれが『神の国』なのだと言われたのです。この主イエスの言葉を、人々はどのように受けとめたのでしょうか。そしてわたしたちはどう受けとめるのでしょうか。
22節です。『皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」』
今朝は、普通でない聖書の区切り方で読んでいただきました。人々は主イエスを褒めた。そしてその口から出る恵み深い言葉に驚いた。そして言った。何と言ったのか。
「この人はヨセフの子ではないか」と言ったのです。
この「この人はヨセフの子ではないか」という言葉はお分かりのように、明らかに軽蔑(けいべつ)した言葉なのです。『あのヨセフの子。大工の“せがれ”ではないか』と蔑(さげす)んだのです。
この反応の仕方、これは、わたしたちにとっても、他人事ではありません。
わたしたちはどうでしょうか。主イエスが「神の国は近付いた」、「神の国は今、実現した」、「このわたしが神の国だ」と、今、聞いたならどう反応するでしょうか。
そのようなことは起こるはずはないと、疑いながら聞き流していくのではないでしょうか。
この日のナザレの礼拝をわたしたちが批判することは出来ないのです。わたしたちこそ、そうした聴き方をする者なのです。
ナザレの礼拝に欠けていたことがあったと思われます。そのためでしょうか、実に、ナザレの会堂での主イエスは無力であり、主イエスを亡き者にしようとさえして、この日の礼拝は無残な終わり方をしたのです。この礼拝に欠けていたことについて、ある方はこう言っています。『礼拝が整えられて、形式が整っただけでは、神の霊は働かない。かえって神の霊は無力になるのだ。「主イエスが、今ここにいてくださる」という信仰が、わたしたちの内に起こされてくるようにと礼拝していないのならば、神の霊といえども無力になるのだ。』そう言っておられました。礼拝していても陥ってしまう、わたしたちの弱さ、貧しさがここに示されていると思います。
しかし、これで終りではありません、むしろここから主の恵みの年、救いの業は始まったのです。
招詞では、イザヤ書65章1〜2節が読まれました。(一節のみ読む)
65:1 わたしに尋ねようとしない者にも/わたしは、尋ね出される者となり/わたしを求めようとしない者にも/見いだされる者となった。
わたしの名を呼ばない民にも/わたしはここにいる、ここにいると言った。
わたしたちは皆、そのようなところから救われて来た者ではないでしょうか。
主イエスの十字架によらなければ、わたしたちが解き放たれることはないのです。
「わたしはここにいる、ここにいる」と叫ぶ主なる神の声を聞き逃さない者へと変えていただきましょう。「わたしはここにいる、ここにいる」と高らかに呼びかける教会とさせて頂きましょう。