何をするにも、主イエスに対してするように

「何をするにも、主イエスに対してするように」一月第四主日礼拝 宣教 2026年1月25日

 コロサイの信徒への手紙 3章23〜24節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて感謝です。とても寒い日々が続いています。北海道から日本海側で生活されておられる方々は、大雪のため大変なご苦労の中にありますので、覚えて祈りましょう。今日から2月1日までは「協力伝道週間」ですが、日本バプテスト連盟に連なる教会は、北海道に15教会、日本海側の東北の青森から山陰の松江までには9教会あります。今朝の礼拝に出席されるだけでも大変であると思います。諸教会が守られますようにお祈りしましょう。祈りは、協力伝道の第一歩です。

 

さて、わたしが今から分かち合うことはフライング(先走る事)となりますのでお許しいただきたいのですが、来月2月15日に開催される「礼拝出席者の会」という集いの準備会が昨日の夕方ありました。教会員のみならず、大久保教会の礼拝に出席されている方々にも参加いただき、今後の大久保教会について一緒に考えてゆく会を企画しています。来週2月1日には正式な案内がありますが、大久保教会の5年後、10年後について、遠慮のない真剣な語り合いを大久保教会の礼拝に出席されている皆さんとしたいと心から願っています。

 

わたしたち大久保教会は、昨年7月に教会創立60周年を迎えましたが、5年後に65周年、10年後に70周年の感謝礼拝を神様におささげできるのかという危機感を牧師は持っていて、その危機感を共有したいのです。皆さんの中には、「こりゃダメだ。この牧師には信仰がないなぁ。キリストの教会なのだから神様が守ってくださるに違いない。心配することなど不信仰の証だ。」と思われるかもしれません。しかし、キリストの体であるはずの教会がどんどん高齢化し、衰退し、毎週5名以下で礼拝をささげている教会、計上献金100万以下、200万以下の教会が多く現存しています。複数の教会が一つに統合したり、解散・消滅して、教会があった場所が更地になっている現場を見ている者が皆さんの牧師なのです。

 

けれども、捉え方を変えればピンチはチャンスです。わたしたちが今から心一つに取り組んでゆけば、神様が必ず守り導き、成長させ、神様に喜ばれる実をたくさん結ぶ教会、この地に仕える教会としてくださるはずです。この大久保教会で礼拝をおささげし、恵みを受け取っておられる皆さんと一緒に今後の教会について考え、知恵を結集して教会の体制強化に取り組む時期が今です。「自分には関係ない。自分の3・4年先のことすら分からない。」と、そんな悲しいこと言わないでください。イエス様の御言葉に聴いてください。自分のことよりも、隣人のことをお考えください。罪の赦し、魂の救い、神様の愛を必要としている方々がこの日本にまだ大勢おられるのです。この教会を通してイエス様に出逢い、神様の愛を受け取って生きる人々が、これからも10年、20年、30年と続きますようお祈りいただき、ぜひご協力いただきたいと願います。2月15日、礼拝と昼食後の会合にご参加ください。

 

さて、今朝はコロサイの信徒への手紙3章23節の「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」という言葉と24節後半の「あなたがたは主キリストに仕えているのです。」という言葉から、わたしたちに対する神様とイエス様の願い・御心を共に聴いてゆきたいと思います。この二つの使徒パウロの言葉に共通するのは、どのようなことがあってもイエス様にフォーカスし続ける・集中し続けるということです。

 

わたしたちは、日常生活の中で様々な人々と関わりを持ちますが、その中で祝福された素晴らしい関係性を築ける場合もあれば、何をやってもうまくいかない、こじれてしまう関係性もあります。学校や職場でも、友人関係や家族の中でもあります。隣近所やコミュニティーの中でもありますし、教会の中でもあるかもしれません。自分には問題はないけれど、相手に問題があると考え、自分は被害者で、相手が加害者だと思い込んで嫌悪感を抱いてしまい、その人とは関わりたくないと心を閉ざしてしまう拒絶反応、アレルギー反応です。

 

そういう経験、皆さんにはないでしょうか。性格も違えば、生い立ちも違う。これまでの人生、考え方・価値観が自分と違う人たちと何人すれ違ってきたでしょうか。わたしたちにはそういう価値観の違う人をほぼ直感的に避けてしまう習性があります。関わるのが面倒だから。悩んだり、苦しむことは心の負担になるし、時間の無駄だからと捉えてしまいます。

 

けれでも、日頃から生活してゆく様々な場面で、そういう人たちと関わることがあるわけですし、これからもあると思われます。では、どうしたら良いのでしょうか。世捨て人にでもなるのでしょうか。世の中には良い人もいれば、自分には不都合・不利益に思える人もいるわけです。だから、そういう人と関わりを持たない。付き合いも必要最低限にする。共に生きようとしない。そもそも、自分には不利益と捉えてしまう自体、大丈夫でしょうか。そのように生きることが果たして神様の御心でしょうか。

 

そういう関係性が上手くいかない、いっていない時に欠けているものがあります。相手にかけているものではなく、わたしたちに欠けているものです。それは、イエス・キリストです。相性の悪い相手だけを見て、イエス・キリストというレンズを通してその人を見ていない。そんなことを言うこのわたし自身も弱い人間ですから、いつも相手だけを見て、イエス様を通して見ていない。目の前の人を不都合な人のように見てしまう弱さがあります。

 

その弱さをどこに持ってゆけば良いのでしょうか。どこにより頼めば、平安が与えられるのでしょうか。答えは、イエス・キリストです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイ11:28)とイエス様はいつも招いてくださいます。イエス様のもとに行くことは、イエス様だけを見ることです。関係性の悪い人の顔など忘れてしまうほど、イエス様に見惚れてしまいます。イエス様に集中します。このイエス様によってわたしたちの心は取り扱われ、愛で満たされ、心が強くなり、優しくなります。イエス様の言葉がわたしたちの心を変え、強め、イエス様がわたしたちに愛する心を、イエス様のように神と人に「仕える心」、「僕の心」を祝福して与えてくださいます。

 

このイエス様と共に生きるために、わたしたちに必要なのは、まずイエス様を救い主と信じることです。イエス様を信じて、イエス様と共にこの世の罪に死に、イエス様と共に復活の命に生きることです。そうすると、聖霊がわたしたちの心を常に守ってくださいます。そのことを使徒パウロはコロサイの信徒たちへ書き送り、その信仰を励ましているのです。先週のメッセージでは、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされなさい」という励ましをいただきました。

 

「キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。」とパウロは励ましてくれますが、「上にあるもの」とは、御国におられる神様のもの、神様が与えてくださる永遠の命です。パウロは、3章24節で、「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。」と記しています。「報い」と聞くと自分の努力で、自分が成した行為の成果として返ってくる事柄と思ってしまいがちですが、そうではありません。永遠の命は、わたしたちの頑張りようで受けられるのではなく、神様からの一方的な愛、憐れみ、慈しみによって与える恵みなのです。そのことを確信し、喜び、先取りの感謝をささげることが信仰であり、神様の御心に適ったことであるのです。

 

コロサイ3章12節から16節に、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。」とあります。17節には、「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」とあります。

 

この「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行いなさい」ということがキリストのからだなる教会の中でまず励まされ、そしてわたしたちに生かされている世の中でも、人間関係の中のすべてにおいてそのように行いなさいと励まされ、家庭でも、職場でも、ありとあらゆる中で、今朝の3章23節に、「何をするにも、人に対してではなく、主イエス様に対してするように、心から行いなさい。」との励ましがあります。この励ましを与え、そのように生きることを助けてくださるのがイエス・キリストであり、聖霊です。主イエス様と聖霊に日々助けられて、イエス様が愛してくださったように、愛と忍耐をもって人々に仕えてゆきましょう。そのような教会となるように、心を合わせて祈りましょう。