「何事も恐れない根拠を持つ」 十二月第二主日礼拝 宣教 2025年12月14日
マタイによる福音書 1章18〜25節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんと共に礼拝を神様におささげできる幸いを主に感謝いたします。今年のクリスマスがすぐそこまで来ています。この喜びをわたしたちはどのように表しましょうか。第一に礼拝です。来たる21日のクリスマス礼拝にご出席ください。今朝の礼拝ではKさんの信仰告白がありますが、来週のクリスマス礼拝において彼女のバプテスマ式が執り行われます。主と歩む新たな出発を共に喜びましょう。第二の応答は、日本キリスト教海外医療協会と久山療育園へのクリスマス献金として表すことができます。今朝はI姉からクリスマス献金のアピールがあり、二つのキリスト教団体の紹介がありますので、このクリスマスシーズンにお祈りに覚えていただき、感謝としてお献げしましょう。
さて、今年のアドベントとクリスマスは、イエス様の誕生の次第をマタイによる福音書から聴いていますが、先週は1章1節から17節に記されている「イエス・キリストの系図」から聴きました。アブラハムと交わされた約束を神様は長い歴史の中で片時も忘れることなく守り続けてくださったということを聴きました。この福音書が記された目的は、アブラハムの子孫であるユダヤ人たちに読んでもらい、イエス様がアブラハム、そしてダビデ王の血を継ぐ正統な末裔であり、待ち望んでいたメシア・救い主であることを証明することです。
真実な神様は、交わされた約束をどんなことがあっても守られるお方です。今朝の礼拝への招きの言葉でイザヤ書9章5節と6節を読みましたが、イスラエルの民のみならず、わたしたちへの神様の愛と熱意が約束を守る力の源であり、その愛は長い歴史を貫くのです。イスラエルの成長と繁栄の時代だけでなく、彼らが神様との約束を守れずに没落の時代を過ごしても、さらに暗黒の時代を歩むことになっても、神様は救いの約束を守られ果たされます。
どのように果たしてくださるのでしょうか。神様は暗黒の闇の中に、イエス・キリストという「世の光」を、「神の言葉」を、「救い主」を派遣されるのです。しかし、「闇」の正体とはいったい何でしょうか。様々な事が言えると思いますが、闇とはわたしたちの心の状態です。わたしたちの心が欲望、妬み、不満、怒り、敵意、不安、虚しさ、絶望などで満ちている状態です。しかし、何故そのような状態にわたしたちは陥るのでしょうか。それは、罪の中に生きているからです。自分を神様から切り離し、神様から遠く離れ、自分勝手に生きているからです。神様とのつながりがまったくないから、闇の中を生きるのです。
先週は、そのような闇の中にも神様は5人の女性を用いて救いの約束を守り、救いの希望をつなげてくださったことを聴きましたが、今朝は5人目の女性マリアの夫ヨセフにスポットライトを当て、神様はこのヨセフを用いてメシアと呼ばれるイエス様をこの世に派遣されたということを聴き、人生にどのような困難が押し寄せて来ても神様とイエス様に信頼し、何事にも恐れずに生きる根拠を持つことを1章18節以降から聴いてゆきたいと思います。
このヨセフという人はダビデ王の末裔ですが、ガリラヤ地方の小さな町ナザレで貧しい大工として生きる人です。貧しくなければ、妻と一緒にベツレヘムの馬小屋で妻と共に夜を明かすことはなかったと思います。このヨセフは、マタイとルカ福音書に記録されているイエス様の誕生物語にのみ登場する人物で、最も驚く事実は、その誕生物語の中で、彼は一言も発していないということです。それは神様の前に無言であったということですが、ただの脇役であったからセリフがなかったのではありません。責任がなかったのではありません。その真逆です。彼の信仰と愛がなければ、神様の救いの計画は破綻していたかもしれません。彼が自分の意思だけに従っていたら、イエス様の系図も永遠に途絶えていたでしょう。
しかし、主なる神様が救いの約束を果たすためにヨセフを励ましたのです。神様に励まされたヨセフの信仰と愛が原動力となってマリアの夫としての責任を果たさせ、イエス様の系図を永遠に続くものとしたのです。ヨセフの無言は、神様への服従を表しています。しかし、だからと言って、最初からそのような立派な信仰がヨセフにあったというのではなく、彼のうちに激しい葛藤があったことを今朝の聖書箇所から覚えたいと思うのです。
18節を読みますと、「イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。」とあります。当時は婚約の段階から夫婦と見なされていたのですが、ヨセフとマリアが正式に一緒になる前に、マリアが妊娠している事が分かったのです。どのようにして分かったのか。たぶん御使からの告知があり、妊娠した兆候が現実にあらわれた時にマリアがヨセフに伝えたのだと思います。それ以外に方法はあったでしょうか。
マリアは「聖霊によって妊娠した」とあり、彼女はありのままを話したと思いますが、それはヨセフにとって非常に信じ難いこと、深い悲しみと大きな衝撃を伴う、歓迎できない知らせであったでしょう。自分以外の「聖霊によって妊娠した」と聞いて喜んで飛び跳ねる夫がいるでしょうか。いないと思います。ヨセフは、マリアの妊娠を知ってから、どれだけの苦悩の日々を過ごしたでしょうか。どれだけの葛藤があったでしょうか。葛藤というよりも、大きな恐れが彼の内にあったと言えます。
19節を読みますと、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」とあります。「正しい人」とは、まず神様を畏れ、神様の御前に忠実に生きようとする正しい人です。もう一つは、自分のことよりもマリアのことを最優先に考える正しい人という意味があると思います。神様に忠実に生きるためにも律法に従わなければなりませんが、律法には夫以外の男性によって妻が妊娠した場合は姦淫の罪で死罪となります。
しかし、愛するマリアを訴え出すことなどできるはずがありません。自分のためというよりも、マリアのために苦悩したのです。自分の将来ではなく、マリアの将来のためにありとあらゆる知恵を尽くしたのです。そして彼が悩み尽くした末に行き着いたのは、自分がマリアの身に起こったすべての責任を負い、たとえ多くの非難を人々から受けても、マリアの命と胎内の子の命を守るために密かに離縁するということでした。
そうしますと、20節と21節、ヨセフが「このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。『ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。』」という御告を受けるのです。
神様のなさることはいつもタイムリーです。ヨセフが最も暗い闇の中に、最大級の恐れの只中にある時に、御使いを通して神の言葉が与えられ、彼の心に希望と道筋を示す光が射すのです。神様の言葉には、愛する妻マリアがどのようにして妊娠したのかという真実と、男の子が生まれる理由と目的、そしてそれらすべてを神様がなさったという真実が分かち合われます。わたしが「真実が分かち合われた」と言いますのは、神様はヨセフを救い主誕生プロジェクトの重要なチームメンバーとして用いてくださったということを強調するためです。
22節に、「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とありますが、旧約の時代に預言者たちを通して救いの約束をされた神様がその約束をイエス・キリストの誕生によって果たされたということで、そのプロジェクトを完成させる主要メンバーとして、神様はヨセフを用いるために彼を励ますのです。
23節、「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」とあります。イザヤ書7章14節の言葉が引用されています。これは神様の救い主を与えるという約束の言葉です。
この救い主イエスは、ヨセフの救い主であり、マリアの救い主でもあり、わたしたちの救い主なのです。この救い主がわたしたちといつも共にいてくださる。たとえこれからの人生が困難続きの日々であっても、耐え難い苦しみを経験する事があっても、神様の言葉であるイエス・キリストが常にわたしたちを守り、わたしたちを導き、わたしたちに救いを与えてくださるのです。ですから、救い主イエス・キリストを信じる信仰、神様が与えてくださる信仰に堅く立ちましょう。神様の愛によって堅く立ちましょう。救い主イエス・キリストと共に日々歩むことが、何事も恐れずに歩む根拠、信仰の土台となるのです。
24節、「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた」とあります。夢から覚めたヨセフには恐れも、迷いも、躊躇もなく、唯々主なる神様に信頼を置き、主の言葉を守ったのです。それが無言で御心に生きたヨセフ、正しい人の人生です。
