「信仰による勝利の教会」 七月第四主日礼拝 宣教 2022年7月24日
ヨハネの手紙Ⅰ 5章1〜5節 牧師 河野信一郎
おはようございます。東京での新規感染者の数が先週水曜日から2万人、3万1千人、3万5千人、昨日は3万2700人と爆発的に増加し、過去最高を連日記録しましたので、執事会の皆さんと相談し、今朝からこの第7波の感染が収まるまで、たぶん8月末までかかると思いますが、オンライン礼拝に切り替えるようにしました。しかし、オンラインでの礼拝に対応できない方々もおられますので、そのような方々には感染防止を徹底していただき、礼拝堂でご一緒に礼拝をおささげすることとしました。どうぞご理解とご協力をお願いいたします。
この礼拝堂に皆さんが集えない悲しみ、寂しさ、痛みを味わうのは、これで何回目でしょうか。何度経験しても、これだけはまったく慣れません。今週は、4万人、5万人になるかもしれないとメディアで報道されていますが、コロナ感染の危険性が身近に迫ってきているのが、確かに肌で感じるようになり、いつ感染してもおかしくないと思うようになりました。感染後の備えがしっかりできているのかと言われれば、できていないのが現状です。ですので、牧師家族が守られ、また礼拝と配信の奉仕者が守られますよう、お祈りに覚えてください。
さて、先週のことですが、激しい雨も上がり、時間があったので、教会の庭の掃除をしていましたら、写真のような数種類のアゲハチョウが教会の花壇とみかんの木の周辺を日替わりのように自由に舞っていました。わたしは、その優雅さに見とれてしまい、足を蚊に何箇所も刺されてしまいましたが、神様の創造の御業は本当に美しいなぁ、凄いなぁと感じました。
そしてウクライナでも蝶は舞っているのかなぁとふと思いました。ロシアの侵攻から今日で5ヶ月になります。日本のテレビでは、ウクライナの惨劇が以前のようにオンタイムで報道されなくなり、大量破壊兵器で破壊し尽くされた町々や大切な人を失って嘆き悲しむ人々の姿しか放映されません。美しい蝶たちが自由自在に舞っている季節であるはずなのに、神様の創造の業、素晴らしい自然やその恵みが破壊されている部分ばかりが映し出されます。
東京の空を見上げて、「主よ、ウクライナを憐れみ、早く解放してください」と祈る者です。無力な自分に嫌気を感じることが時折ありますが、それでも神様に心を向けてお祈りすると、イエス様の御名によってお祈りできる幸いをひしひしと感じ、慰められ、励まされ、ウクライナのためにさらに強く神様の憐れみとお守りと平和を求めて祈る者とされてゆきます。
さて、もう一つだけ短くお話しさせてください。昨日の朝、東京壮年連合主催のオンライン研修会があり、わたしは飛び入りで参加しました。西南学院大学神学部教授であり、学部長の濱野道雄さんを講師に、コロナ後の教会の課題、教会の次の一歩を考えるというテーマでした。研修会のチラシには、「教勢の停滞、財政の困難、教会員の高齢化、青少年の減少、献身者の減少など、いま教会はさまざまな課題に直面しています。オンライン礼拝が広く行われるようになり、教会共同体のあり方も問われています。共に『教会の次の一歩』を考えたいと思います」とありました。2年と7ヶ月、まだ続くコロナパンデミックの中、クリスチャンの「教会離れ」が加速しているとのデータが示されました。教会のあり方だけが問われているのではなく、信徒一人ひとりのあり方が問われている、信仰のチャレンジを受けている、だから、わたしたちはどう対処することが良いのだろうかということが喚起されました。
確かに、今回の感染再拡大のように、教会に戻って礼拝を共におささげできなくなると、せっかく上向きかけていた教会の勢いはぐっと下がり、停滞し、財政的にも困難さを覚えることになります。神様との縦の関係性と教会員の皆さんとの横の関係性も弱くなってしまい、教会に戻りたい、賛美と礼拝を皆さんとささげたいという思いが薄らいでしまい、信仰的に、霊的に弱ってしまい、牧師や教会の皆さんから少し放って置かれると、強い孤独感、寂しさを味わい、教会への愛情、神様への愛が弱くなります。その負のスパイラルから脱する方法は、イエス様につながり続け、イエス様の言葉を聞き続け、その言葉に従い続けるしか方法はありません。つまり、イエス様にしがみついて、忍耐し続け、信仰にとどまるしか方法はないのです。しかしそれが独りでできないので、教会の家族、励まし合う人が必要なのです。
さて、7月は大久保教会の誕生月ということで、教会が西大久保伝道所から大久保教会とされてゆく時代の中で、歴代の牧師たちが取り次いだ聖書箇所をわたしが読み込み、そこから聞こえてくる恵みを皆さんと分かち合うということにチャレンジしています。最初にアナウンスした順番通りになりませんでしたが、まず大久保教会が教会組織される直前に、保田井建牧師を通して神様が語られたみ言葉を聞き、次に西大久保伝道所の時代に牧師としてご奉仕くださった丹羽勇牧師を通して神様が語られたみ言葉をご一緒に聞きました。
今朝は、伝道所の時代から教会組織の時代、丹羽牧師から保田井牧師の時代への移り変わりの中で、まず牧師として、そして協力牧師として仕えてくださった川口正雄牧師を通して神様が語られたみ言葉にご一緒に聞いてまいりたいと願っています。教会の資料を色々探しましたが、川口牧師とご家族が写った当時の写真を見つけることができませんでした。
川口正雄先生は、1964年から1967年まで、日本バプテスト連盟の伝道部主事として働かれるかたわら、丹羽先生の後任の牧師として、そして保田井先生の時代には協力牧師としてご奉仕くださり、その後は新小岩バプテスト教会の牧師となってゆかれました。当時の週報には、川口牧師は「国内と国外の伝道の推進に日夜奔走されています。ご加祷ください」と記されていました。その先生が、教会組織される前の1965年の4月に開かれた教会の信徒修養会で、ヨハネによる第一の手紙5章4節と5節から、「信仰による勝利の教会」という主題で説教されました。主題聖句は、第一ヨハネの5章5節、口語訳聖書ですが、「世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者でなないか」というみ言葉です。
「信仰による勝利の教会」という主題の川口先生の説教原稿は存在しませんので、聖書のみ言葉と当時の週報などを読み込んでゆく中で、神様は川口先生を通して何をお語りになられたのかということを想像するしか方法はありませんが、この主題から大久保教会が伝道所から教会へとステップアップしてゆく中で何を必要としていたのかを読み取ってみたいと思います。今朝のわたしの宣教の目的、ゴールは、61年前の教会の課題をただ振り返るのではなく、2022年の大久保教会が直面する課題について主の語りかけを聞いてゆくことにあります。
先ほど申しましたように、川口牧師は、連盟宣教部の主事として、当時、全国110の教会と123の伝道所、合わせて233の群れの成長をサポートする働きを担っておられました。連盟にとって1960年代後半は成長めざましい時期でした。そういう中で、先生は全国の伝道所が直面していた様々な課題、霊的問題を最前線でサポートしてこられたと思います。教会が産声を上げる中、大きな喜びも確かにたくさんあるけれど、霊的な戦いも多くあることを熟知しておられたと思います。そしてその霊的な戦いに勝利しない限り、教会は形づくられない、主イエス様から託された福音宣教の業を遂行できないと感じておられたと思います。
皆さんは、今朝、「信仰による勝利の教会」という主題を聞いて、どのようなことをお考えになられるでしょうか。教会は何か戦わなければならないことに直面している。その戦いに勝利することが重要であるが、まずイエス様を救い主と信じる信仰が必要であり、主に従い続けることが重要である、と思われるかもしれません。それでは、教会は一体何と戦わなければならないのでしょうか。様々なことが言えますが、「霊的な戦い」という時に「教会の一致」が最重要科目となります。バラバラであっては、霊的な戦いに勝利することは不可能です。
当時の週報を読んでゆきますと、1965年4月、イースターの頃でした。復活の主イエス・キリストを共に信じ、その復活の力に生きることの大切さが保田井牧師からも語られていました。大久保教会は、7月に教会組織を迎えるにあたり、母教会の承認を得たり、教会の規則を整えたり、連盟への加盟申請をしたり、教会を建築するための準備、教会内での資金の調達、連盟からの資金借り入れの申請など、対処しなければならないことがたくさんありました。そのすべてを同時進行で、慎重に、そして正確にしてゆく必要がありました。
最も大変であったのが、建築費を献げるということであったようです。100坪の土地は宣教団から無償で譲り受ける恵みがありましたが、建築費は別問題です。当時の記録を見ますと教会員の皆さんは信仰を持って一生懸命に献げておられますが、いつの時代も、会堂建築とお金の問題は霊的な戦いを教会に強います。信仰の揺さぶりを与えます。そういう霊的な戦いの時期に、神様は川口牧師を通して語られるのです。とてもタイムリーな語りかけです。
2022年の大久保教会、小さな群れですが、本当に素晴らしい方々が教会に与えられていて、コロナパンデミックの中でも守られ、祝福されていますが、この建物は建築されてから56年が経過しています。1999年にきれいに増改築されましたが、現在は耐震と屋根に関する2つの課題があり、特に屋根を修繕する必要が出てきました。執事会でも慎重に検討してゆきますが、財政面での大きな課題があります。わたしは「課題」と申し上げ、「問題」という言葉をあえて使いません。何故ならば、教会の建物を維持してゆくために神様から問われている題目というよりも、責任として課せられているチャレンジであると捉えているからです。
61年前に川口牧師を通して神様が語られた箇所は第一ヨハネの手紙5章の4節と5節、特に5節です。「神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。」とあります。ここに「神から生まれた人」という言葉があります。人はみな、神様によって創造され、生を受けて生まれ、生かされています。恵みです。しかしそのように生かされていること、神様によって創造されたこと、神様に愛されていることを知らないで、自分の知恵と努力、頑張りようだけで生きようと奮闘し、疲れ果て、魂に飢え渇きを感じている人が大勢です。世の戦いに打ち負けてしまい、闇の中を彷徨う人、絶望して死んだように生きる人がいます。
使徒ヨハネがここで云う「神から生まれた人」とは、イエス・キリストを神の子、救い主と信じる人を指しています。1節には「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」とあります。イエス様を救い主と信じている人は「神様の愛から生まれた人」です。ですから、生んでくださった神様とイエス様を愛します。それだけでなく、わたしたちと同じように神様とイエス様から生まれた兄弟姉妹、神の家族を愛します。
神様とイエス様を「愛する」とは、具体的にどう云うことでしょうか。ヨハネは3節の前半で「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と言っています。「神の掟を守る」とは、イエス・キリストに聞き従うことです。では、兄弟姉妹を「愛する」とは、具体的にどう云うことでしょうか。それはイエス様の言葉を「共に、一緒に」聞き従うこと、つまり「神様に愛されていることを共に喜び感謝し(礼拝)、受けた愛を他の人たちとも分かち合い(伝道)、そして共にその愛の中に生きること(交わり)」です。教会が祝福され、成長しない理由は、礼拝だけに集中しすぎて、信仰的にアンバランスになり、簡単につまずいてしまうことにあると思います。
ヨハネは3節の後半で、「神の掟は難しいものではありません」と言います。しかし、わたしたちは、「いや、それが一番難しい」と考えてしまいます。イエス様に従うことを難しくしている張本人は「わたし・わたしたち」なのです。イエス様だけを見つめて、イエス様だけに素直に聞き従えば良いのに、自分の思いとか、都合とか、この世のものをわたしたちがイエス様の前に置いてしまうから、イエス様の後に従うことが難しくなるのです。そして、そうこうしている間に、様々なことに負け出し、心を弱くし、心が神様とイエス様から離れてゆくのです。
しかし、わたしたちに勝利を与えるために、神様の愛がこの地に現れました。そしてその愛を十字架の上で示してくださり、死から甦ることによって、死に勝利されました。それがイエス・キリスト、この世の光、わたしたちの救い主です。この主イエスを信じる者が、信じる群れが、この世の中で繰り広げられる霊的戦いに勝利し、神様の栄光を表すのです。イエス様を通して神様から賜る信仰と希望と愛がわたしたちに「真の勝利」を与えるのです。