「兄弟姉妹のための決心」 六月第五主日礼拝 宣教 2019年6月30日
ローマの信徒への手紙14章13〜23節 牧師 河野信一郎
今朝もご一緒にローマの信徒への手紙から神様の声に聴いてゆきたいと思いますが、今朝の宣教は先週の続きとなりますので、聞き逃された方は、帰りがけに礼拝堂入口にある原稿をお取りいただいて読んでいただくか、教会ホームページの宣教要旨の欄にある原稿をお読み頂ければと思います。
さて、ローマの信徒への手紙14章は、キリストのからだなる教会に連なる兄弟姉妹たちのお互いの関係性について記されています。つまり、わたしたちがどのような健全な関係性を持ちながら共に歩み、そして健康な教会を立て上げてゆくことが神様の願い、御心であるのかがテーマであります。しかしながら、この14章の1節から読み進めますと、残念なことに、ローマのキリスト教会は大きく二つのグループに分かれていたということが分かります。パウロ先生は、「信仰の強い人」たちに対して、「『信仰の弱い人』を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」と言いますが、教会に「信仰の強い人」のグループ、「信仰の弱い人」のグループがあったということで、先週は「信仰の強い人」と「信仰の弱い人」とはどういう人たちであったのかということを聞きました。
わたしたちは、信仰の強い人=信仰的に成熟した者、信仰の弱い人=信仰的にまだ未熟な者と端的に考えがちですが、ここでパウロ先生が言う「信仰の強い人」、「信仰の弱い人」とはそういう意味合いではありません。ローマという異国の都市で、異邦人クリスチャンが教会の中で多数派=「強い人たち」で、ユダヤ人クリスチャンが少数派=「弱い人たち」と言う構図があったわけです。そういう構図の中で、ユダヤ人クリスチャンたちに対する異邦人クリスチャンたちの強気の態度、高慢な態度をパウロ先生はとっても心配し、そのような態度は教会を滅ぼしてしまう危険性があると危惧し、神の家族の中で、教会内で兄弟姉妹を裁いてはいけない、躓かせてはならない、これらの行為は神様の喜ばれることではないと書き送っています。ですので、この14章を一言で要約するならば、「互いの違いを認め合い、受け入れなさい。兄弟姉妹に対して寛容になりなさい」ということです。
パウロ先生はこう言います。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」と2節にあります。ユダヤ人クリスチャンたちの信仰生活には「モーセの律法」を守るという背景があり、食べ物に関しては、ユダヤの律法によって適切に血抜きの処理がされていない肉、コーシャーされていない肉は食べませんでしたから、ローマという異国の都市で適法に処理されていない肉は食べなかったわけです。しかし異邦人クリスチャンはそのようなユダヤの習慣を理解せずに、ユダヤ人クリスチャンの兄弟姉妹を軽蔑するようになりました。ですから、3節で「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」とパウロ先生は言い、あなたがたのその愛のない態度、無理解の態度を改めなさいというのです。
先週もお話ししましたが、この14章においてわたしたちが見逃してはならない言葉、心に留めるべき言葉は、6節の「感謝する」と17・18節の「喜ぶ」ということだと感じています。主の憐れみによって、主イエス・キリストを通して与えられているクリスチャンの兄弟姉妹たち、神の家族を神様からの恵みとして感謝し、その兄弟姉妹たちと共に神様と主イエス様にお仕えすることを喜ぶこと、それが神様の御心であることをわたしたちは聞く必要があると思います。
さて、今朝は最初に、なぜ兄弟姉妹を裁いてはいけないのか、躓かせてはならないのかと言う理由を14章から見てゆきたいと思います。幾つも理由があります。まず「神がその人をも受け入れられたからです」と3節にあります。4節には「その人の主人は神様であるから」と言う理由が記されています。同じ4節には、「主なる神様が責任を持ってその人を立たせるから」と言うことが記されています。5節から8節を読みますと、「その人は神様のために、主イエス様のために生きているから、生かされているから」と言うことが分かります。8節の後半には「わたしたちはみな主のもの」であるからと言うことが記されています。9節には、「キリストは死なれ、甦えられたのは、その人の主となられるため」であった、つまり主イエス様はその人のために死なれ、甦えられたからと言うことが記されています。ここまできてパウロ先生は、「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟姉妹を裁くのですか。侮るのですか」と言っています。
10節と11節では、わたしたち一人一人は、生きておられる神様、主イエス様に礼拝と賛美をささげるために生かされていると、わたしたちのこの地上での使命と目的を書き記し、私たちに何を最優先し、なすべきかをリマインド・念を押しています。わたしたちイエス様を救い主と信じる者たちが最優先し、集中しなければならないのは、神様と主イエス様を愛し、忠実に生きることです。この神様が全ての人を愛し、主イエス様は全ての人のために死なれ、そして甦られた。だから、その愛されている人たちをわたしたちも愛する、誠実に生きることが求められるわけです。
そう言う中で、今朝の聖書箇所である13節に「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置かないように」とパウロ先生は決心を促します。パウロ先生は、この14章13節から15章13節までで、わたしたちが兄弟姉妹のために心に決めなければならないことを記します。つまり、自分のために生きるのではなく、兄弟姉妹のために生きる、隣人のために生きる決心をしなさいとわたしたちの心に迫るのです。
個人的なお話をしますが、私の父は31年前の6月3日に天に召されました。53歳でした。その息子である私は、今年53歳になります。父は牧師でした。私も牧師とされています。父と母は、自分たちのために、あるいは子どもたちのために生きるよりも、人々に仕えることを喜びとしていました。今週の4日に82歳になる母は今もそうで、元気に人のために生きる人です。人々のために生きることが、神様のために、主イエス様のために生きることだと確信しているからです。私は、そのような両親を心から尊敬しています。牧師の家庭は裕福ではありません。しかし、いつも必要は満たされていました。神様が様々な方法を持って、様々な人たちを用いて必要を満たしてくださいました。子どもたちは高校生になるとそれぞれアルバイトを見つけてきて週末や空いている時間に働きました。欲しいものがあれば、自分で働いて買う、それが牧師の家庭であるわたしたち家族の暗黙の了解でした。時には、お金がなくて父を恨んだことや将来を不安に思うことがありました。しかし、不安になる時の共通点は、自分のことしか考えていないと言うことでした。私の両親にも、子どもたちに対して申し訳ないと言う思いもあったと思いますが、どんな時も神様に忠実に生きることを選びとってゆきました。神様に全幅の信頼を置いていました。ですから、父が病気に倒れて、死を迎える時も、父は平安でした。母は大変であったと思いますが、大きな難関を乗り越える力、忍耐と慰めと希望の力が神様から与えられました。わたしたちもそうだと思うのです。自分と身近な人たちのことだけを考えると不安になると思います。しかし、神様と主イエス様を第一に、そして人々を第二にして仕えて生きると言うことを選びとってゆく時、生きておられる神様が大いなる慰めと励ましと生きる力を日々与え、平安を与えてくださいます。
長い話になってしまいましたが、私が分かち合いたかったのは、自分のために生きるのではなく、主のために、兄弟姉妹のために、隣人のために生きてゆくと言う決心をする人を神様は必ず顧みてくださると言うことです。生きておられる神様は真実なるお方です。このお方のお言葉と御心に従ってゆくのは、なににも代えがたい祝福への道です。
さて、今朝、わたしたちは神様からの迫りがあります。神様はわたしたち一人一人に迫ってきて、わたしたちに決心を促します。その決心すべきことが何であるのか、それは各個人で違いがあると思いますが、その決心は兄弟姉妹たちのための決心であることを覚えてください。そして、その糸口として、13節から23節をご一緒に聞いてゆきたいと思います。まず13節で「互いに裁き合わない」と言うことを決心する。そして「つまずきとなるものや、妨げとなるものを兄弟姉妹の前に置かない」と言うことを決心する。ある人は勝手に何かにつまずき、何々に傷ついたと言って教会から離れる人もいます。ある人は、教会から離れたいが故にそのつまずきを、つまずくきっかけを探している人もいます。わたしたちが決心すべきことは、そのような人をも許してゆくと言うこと、そう言う時は神様のお委ねすると言うことです。
兄弟姉妹のつまずき、信仰成長の妨げの原因になるものとして、食べ物のことが14節から16節、そして20節から21節に記されています。これは先ほども言いましたユダヤの律法によって適切に処理されていない肉を「その肉は汚れている」と信じているユダヤ人クリスチャンに出してはいけない、食べなさいと強要してはならないと言うことが記されています。
わたしたちが大丈夫だと思っても、ある人にとっては食べられないものは、現代の生活の中でもたくさんあります。誰にでも食物アレルギーが何かしらある時代です。ある物を食べたら命取りになるものもあるわけで、それに対して無関心で、心を配らないで「食べなさい」と言う行為は、15節にあるように、兄弟姉妹の「心を痛めさせる」だけでなく、その人の命を「滅ぼしてしまう」ことにもなるのです。そのようにする人は、「もはや神様の愛に従って歩んでいません」とパウロ先生は言うのです。ですから、わたしたちが心に決めるべきことは、16節にあるように「あなた方にとって善いことがそしりの種にならないように」すると言うことです。わたしたちの言動がそしられないように、非難されないように気をつけなさいと言うことです。いつも細心の心を配り合いなさいと言うことだと思います。
20節から21節には、「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。すべては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪いものとなります。肉も食べなければぶどう酒も飲まず、そのほか兄弟姉妹を罪に誘うようなことをしないのが望ましい」とあります。食べ物のことで、神様の働きを無にしてはなりませんと言うのは、教会を建て上げることではなく、教会を分裂させたり、破壊するようなことがあってはならないと言うことです。
17節から18節には、神の国のことが記されています。神の国というところは、飲み食いする場所ではなく、また肉を食べるか食べないかが問われるところではなく、イエス様によって義とされて神様の御心にかなった兄弟姉妹たちが神様との平和のうちに礼拝と賛美をささげて神様を喜ばし、互いを喜び合うところであるから、食べ物のことで互いに批判し合ってはならないということです。互いのことを批判し合うことに集中しないで、力を注がないで、キリストに仕えることに集中し、あなたの力を注ぎなさい、そのようにする人は18節、「神様に喜ばれ、人々に信頼されます」とあります。イエス様に仕えることを決心しなさい、そうすれば、神様に喜ばれ、人々からも喜ばれ信頼されると記されています。
19節、「だから、平和や互いの向上に役立つことを追い求める」ことを決心しなさいと勧められています。このことについては、来週の宣教で分かち合いたいと思いますので、もうしばらくお待ちください。そして、この一週間、「兄弟姉妹の平和のために、互いの向上のために私にできることは何であろうか、自分が役立つことは何であろうかと思い巡らせてみてください。祈りつつ求めるならば、神様は必ずそれを教えてくださいます。
さて、最後の22節と23節ですが、パウロ先生は「あなたは自分が抱いている確信、また心に決めたことをぶれずに持ち続け、聖霊の助けを受けて、神様と主イエス様に忠実に仕え、隣人と兄弟姉妹に誠実に仕えて生きてゆくことを心に決めなさい」と勧められています。「確信」というとわたしたちの心の持ちよう、わたしたちの心の力が強調されているように聞こえますが、パウロ先生がここでいうのは、神様から与えられている「信仰」です。この信仰は恵みです。神様から与えられている祝福です。この祝福、恵みを喜び、感謝し、いつも謙遜に生きて行くこと、その恵みを自分のために用いるのではなく、与えてくださる神様と主イエス様の喜びのために、また神様と主イエス様が愛しておられる人々のためにささげて仕えて行くことがわたしたちに対する神様の願いであり、わたしたちが決心して行くことではないかと導かれます。信仰を持って生きる人を神様は祝福されます。しかし、疑いながら生きる人は、確信・信仰に基づいて行動していないので、その人は神様の憐れみと罪の赦しが必要であることが記されています。そのような人たちに神様の愛であるイエス様を、イエス様の福音を伝えて行くことがわたしたちの働きです。この働きを忠実に、誠実にすることを心に決めましょう。