光の中へ招かれている

「光の中へ招かれている」 イースター礼拝 宣教 2022年4月17日

  マルコによる福音書 16章1〜8節     牧師 河野信一郎

おはようございます。主イエス・キリストのご復活をお祝い申し上げます。心からおめでとうございます。2022年のイースターの朝を迎えました。今朝、救い主イエス様の甦りを喜び感謝する礼拝を皆さんとご一緒におささげできて、本当に感謝です。大久保教会へようこそ。

2021年、去年のイースターは、今朝のように皆さんと礼拝堂でお祝いできましたが、すぐに緊急事態宣言が発令されて礼拝堂に集えなくなり、苦しい時期を過ごしました。昨年は、子どもたちが楽しみにしているエッグハントをリモートでしましたが、今年は、礼拝後に、2年ぶりにできるので、子どもたちも楽しみにしていると思います。本当に嬉しいですね。

コロナパンデミック最初の年、2020年のイースターは、この礼拝堂ではなく、一階のホールで、たった6人で礼拝をおささげしました。わたしとわたしの家族4人とドイツから一時帰国中であった姉妹が奏楽を助けてくださって、6人でお祝いしました。お祝いしたというよりも、ライブ配信について十分な知識、備え、機材もない中で礼拝の配信を行い、大久保教会の礼拝を何が何でも継続しようとがむしゃらでした。初めて経験したコロナ感染の危機は、ある意味、貴重な体験でしたが、もう二度と味わいたくない経験です。今も感染予防を徹底し、マスクをしての礼拝、賛美する時も息苦しさも感じますが、それ以上に、皆さんとご一緒にイエス様の甦りをお祝いできて本当に感謝です。恵み以外の何ものでもありません。

わたしは、イースターが大好きです。皆さんはいかがでしょうか。イースターは、わたしにとって重要な記念日です。なぜかと言いますと、イエス様の甦りがなければ、わたしは存在しませんでした。つまり皆さんとこの教会で出会うこともなかったですし、今このようにメッセージをしていることも有り得ません。わたしの父も母も、アメリカからの宣教師たちの祈りと宣教の働きによって神様の愛へと導かれ、十字架に死なれ、復活したイエス様を救い主と信じ、それ以降イエス様に従う者となりました。そういう二人が神様の導きの中で出会って結婚し、わたしと兄弟たちは誕生しました。わたしの妻も同じような境遇であり、皆さんの中にも同じ境遇の方々がおられると思います。イエス様の復活がなければ、この大久保教会も存在しなかったでしょうし、キリスト教自体がこの世界に存在しなかったでしょう。

くどいようですが、イエス様がわたしたちの身代わりとなって十字架上で贖いの死を遂げてくださり、その忠実なイエス様を父なる神様が死人の中から甦らせて下さらなければ、わたしたちは今朝、このように礼拝堂に集うことはできませんでした。ですから、このイースターの日は、わたしたちにとって最も大切で、何にも代えがたい大切な記念日なのです。

主イエス・キリストの十字架の死と復活の出来事には、ちゃんとした意味と目的があります。神様の壮大な計画があります。イエス様の十字架と復活は、神様の愛の表れです。神様がわたしたちを一方的に愛してくださり、わたしたちの罪の代価をイエス様においてすべて支払ってくださり、わたしたちを罪と死、恐れや不安から解放し、その代わりに平安と喜び、永遠の命を与えてくださる。そのように約束してくださる。そしてその約束を守ってくださる。それはまさしくわたしたちを闇から光の中へと移してくださる神様の愛の行為そのものです。

わたしたちに神様の愛を受ける資格や権限があったからではなく、すべて神様の憐れみ、慈しみです。神様の愛は強制ではなく、優しさに満ちた救いへの招きです。その招きを喜んで受け取るか、断るかの自由がわたしたちに与えられています。しかし、その選び取りの結果によって、光の中に生かされるか、闇の中を彷徨い続けるかといった決定的な違いが出てきます。イースターは光の中に永遠に生きなさいという神様からの招きが開始した記念日です。

皆さんは今、光の中を歩んでおられますか。それとも闇の中を彷徨っておられるでしょうか。光の中を歩むとは、自分が見えていて、何のために生きているのか、どこに向かって生きているのかを知っているということです。暗闇の中であれば、本当の自分を見ることができません。何のために生き、どこに向かっているのか分かりません。生きる意味、人生の目的、そして最終地点が分からないまま闇雲に生きているほど苦しく辛い人生はないと思います。

しかし、そのような闇の中に生きているわたしたちの只中に、神様から「光」が派遣されました。イエス・キリストです。この光がわたしたちを照らし、わたしたちは何者で、何のために生き、どこに向かって生きるべき存在なのかを明確に示してくださいます。わたしたちが抱える痛みや悲しみ、迷い、試練や苦悩の意味と解決方法もすべて教えてくださいます。

今日の聖書箇所は、イエス様の復活のことが記録されているマルコによる福音書16章の1節から8節です。ここにガリラヤからずっとイエス様に従ってきた女性の弟子たちが登場します。1節に「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」と名前が記録されています。しかし、彼女たちは深い悲しみ、痛み、迷い、絶望の中にいました。心から尊敬するイエス様が、神様の愛と赦しを拒絶する人々によって三日前に十字架に架けられ、殺されたからです。

イエス様は安息日開始直前に息を引き取られましたので、イエス様のご遺体は男性たちの手によって大急ぎで埋葬の備えがされ、岩を掘って作られた墓の中に納められました。その様子を遠くから見ていた女性たちは、その不十分な埋葬を憂いていたと思われます。イエス様のご遺体に香油を塗ってしっかり葬りたいという強い思いが湧き上がってきました。彼女たちは安息日が終わるとすぐ、イエス様に油を塗りに行くために香料を買い、準備を着々と進めました。そして日曜日の朝、太陽が昇り始めるとイエス様が葬られた墓に向かいます。

イエス様に香油を塗る準備は万全、現地でそれぞれが担う役割なども決めていたでしょう。しかし、彼女たちの計画には、致命的な課題、大きな問題がありました。3節をご覧ください。「彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた」とあります。彼女たちは、イエス様の亡骸が納められている墓の蓋をするために、墓の前に置かれた石がいかに大きくて重たいものであるのかを見て知っていました。そして誰かの力を借りないと自分たちの力だけでは石を転がせないこともじゅうぶん知っていました。

イエス様を大切に思う愛情の強さと適切にイエス様を葬る準備は万全なのに、彼女たちとイエス様の間に大きくて重たい石が立ちはだかっていました。イエス様にアクセスできない何とももどかしい状態、どうにかしないと計画のすべてが無駄になります。でも、自分たちの力ではどうすることもできない。不安ともどかしさが彼女たちを苦しめたと思います。

わたしたちにも、そういうもどかしい思い、苦しい思いを抱くことが人生の中であります。この2年間、コロナパンデミックの中で、計画の変更を余儀なくされたこと、何度も諦め、我慢したこと、そういうもどかしさを何度も経験してこられたと思います。今も、そのようなもどかしさ、不自由さを抱えながら生活されておられるかもしれません。そうでしょう?

しかし、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っている女性の弟子たちが目を上げて見ると、非常に大きかった石が「すでにわきへ転がしてあった」と4節に記されています。写真のような感じでしょうか。いったい誰が、何のために大きな石を転がし、墓を開けた状態にしたのか。墓の石が転がしてあったという事実に対する女性たちのリアクションは記されていませんが、怪しむよりも、喜んだと思います。「わぁ、助かった!これでイエス様のご遺体に葬りの備えがじゅうぶんできる!」と感じたと思います。

しかし、彼女たちの計画自体がすべておじゃんになる事態、予期しなかった驚くことが彼女たちを待ち受けていました。5節です。「墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた」とあります。彼女たちは死なれたイエス様を見に墓の中に入ったのに、イエス様ではなく、生きた若者を見てしまったのです。この若者は「右手に座っていた」とありますが、聖書では「右・右側」というのは、神様の側を意味します。ですので、この若者は神様から派遣された御使いであったと考えられます。

そしてこの御使いが6節で次のように女性たちに伝え、宣言するのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と。驚くなと言われても驚きますよね、愛するイエス様がそこにおられないのですから。よく気を失わなかったと思います。

御使いは彼女たちに事実を語ります。まず、あなたがたが捜しているイエスは「確かに十字架に架けられて死なれた」と言います。しかし、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と言います。「復活なさって」という言葉はギリシャ語の原典では受動形になっていますので、「あの方は復活させられた、甦らせられた」ということで、つまり神様がイエス様を甦らせたと御使いはここで宣言しています。ですので、彼女たちがいる場所は「イエス様の墓」ではなく、遺体が一旦納められた「場所」になったのです。復活されたイエス様がここにいないことを自分の目でよく見て確認し、イエス様の復活を信じなさいと招くのです。

御使いはもう一つのことを彼女たちに伝えます。7節です。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」。イエス様を失い、暗闇の中を歩んでいた彼女たちに男性の弟子たちにイエス様の復活を伝えさせるという使命を与え、生きがいを与えます。それは、光の中を、目的をもって生きるということ、自分のためでなく、神様と主イエス様のために忠実に生き、そして隣人のために誠実に生きるということです。

イエス様の亡骸が納められた墓は、イエス様との関係性が途絶えてしまった悲しい所ではなく、イエス様との関係性が続いていることを確認する場所となりました。彼女たちにとって生きる目的、生きがいが与えられる喜びに満ちた場所となり、復活されたイエス様と再会できるという希望が与えられた所をなったのです。

ガリラヤは弟子たちの原点がある土地です。弟子の多くは、ガリラヤでイエス様に出会い、イエス様を通して神様の愛を知り、イエス様に従う決心をしました。たくさんの奇跡を見て、イエス様の力を見せられました。感動しました。喜びました。すべての祝福の原点です。そのような土地に復活されたイエス様が弟子たちよりも先に行っていると御使いが言います。何のためにイエス様はガリラヤへ行かれるのでしょうか。

それは、イエス様が捕らえられた時にイエス様を見捨てて逃げ去った男性の弟子たちが、その惨めさや絶望感、人生のどん底を味わっている中で、彼らに出会ってゆき、彼らを赦し、暗闇から光の中へと再び招き入れ、彼らを励まし、復活の主を証しする者として再派遣するためです。苦しみ痛んでいた女性の弟子たちを光の中へ招き入れ、彼女たちを癒し、力づけ、喜びと平安で満たし、主のご用のためにさらに豊かに用いるためです。

8節に「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」とありますが、これはイエス様の甦り、神様の大いなる救いの御業に触れ、一時的に圧倒されたからで、不信仰さではありません。彼女たちはちゃんと弟子たちに報告したことが他の福音書にも記されています。

ただ一つ残る問題は、わたしたちの心です。わたしたちとイエス様の間に大きな石をわたしたちが置いていないかということです。日々の生活の安定を求めて、幸せを求めて頑張っている。学生は勉強し、大人は仕事をし、親は子どもを育て、家族の世話をしている。将来のためにお金もいくらか貯蓄し、老後の備えもしっかりしている。そういうことに忙しすぎて、そういうことを理由にしてイエス様と自分の間に大きな石を置いていないでしょうか。

しかし人生は計画どおりに行きません。予期せぬことが起こります。家族や社会の中で人間関係に波風が立ち、大いに苦しみます。事故にあったり、怪我を負ったり、病気にもなります。暗闇の中で苦しみ悶えるのです。しかし、そのようなわたしたちを神様が憐れんでくださって、わたしたちがイエス様との間に置いた石を神様が脇へ転がしてくださり、イエス様がわたしたちの罪のために十字架に死なれ、わたしたちを永遠に生かす者として復活してくださったこと、それほどまでに神様とイエス様に愛されている存在であることを見させてくださる、わたしたちを光の中へと招いてくださるのです。感謝ですね。復活の主イエス様を信じましょう。