共に生きる事の素晴らしさ

「共に生きる事の素晴しさ」 九月第一主日礼拝 宣教 2023年9月3日

 コヘレトの言葉 4章9〜12節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。早いもので、2023年も9月に入りました。今年も残すところ4ヶ月で、月日が流れる速さに驚くばかりです。今朝も皆さんと共に礼拝をおささげすることができて、主に感謝です。今年の夏は、本当に暑かったですね。都心では観測史上初めて、8月の31日間、すべて30度以上であったそうです。この猛暑、もうしばらく続くでしょうか。一日も早く、秋の涼しさが訪れて欲しいと願いますが、関東、北陸、東北地方の水不足はかなり深刻な状況で、お米や野菜が不作とのことです。Kご夫妻が生活されている新潟・越前高田も昨日ようやく雨が降ったそうですが、雨が必要でない所に大雨が降り注ぎ、雨が必要な所にはまったく雨が降らない。自然界のバランスが壊滅的に崩れている証拠であると言われています。そのアンバランスさは、人間社会の中にも確かにあると思います。

 さて、毎日が暑すぎてずっと家に居られたという方もおられるかもしれませんが、行動の規制が緩和され、3年ぶりに旅行をされたり、親しい人と再会されたり、近場に出かける回数が増えた夏であったかもしれません。しかし、それでもこの夏、何かやり残したことは皆さんにはないでしょうか。この暑さのために、どうしても出来なかったこと、我慢したこと、諦めたこと、やり残したことないでしょうか。コロナ感染が完全に終息していない中、また猛暑が続く中、教会での礼拝を断念しなければならなかったかもしれません。

 わたしは、いつになく忙しい夏を過ごしましたが、夏の暑さゆえにやり残したことが最近まで一つありました。それは教会の庭の草むしりです。庭の両側と裏側の草むしり、暑すぎてずっと先延ばしにしてきましたが、先週中旬から朝晩だいぶ涼しくなってきましたので、暑い日差しが照り付ける前の早朝と陽が沈む前の各30分間、作業をすることができました。

 わたしにとって草むしりの良いこと、それはアリやミミズ、カエルやトカゲと遭遇できることです。先日は、生まれたばかりの小さなトカゲやカエルを見かけました。わたし以外の家族は正反対のリアクションをするのですが、わたしだけは嬉しくなります。トカゲやカエルはわたしを見るなり一目散に逃げるのですが、そういう懸命な姿を見て、わたしは「みんな元気だなぁ、頑張って生きているなぁ」と感心し、微笑んでしまうのです。皆さんにも理解できないかもしれませんね。なぜ嬉しくなるのか、トカゲやカエルの存在は教会の庭には彼らの餌がたくさんある、つまりこの教会の庭の土は栄養豊かであるという証明なのです。

 大久保教会の牧師としてのわたしの祈りは、この教会が神様の愛と御言葉によって養われ、霊的に豊かにされることによって、わたしたちがお互いのことを覚えて祈り合い、支え合い、仕え合い、お互いの霊性をさらに豊かにし合い、共に聖霊の実を限りなく豊かに結ぶことができる土壌になるということ、まず成るということです。栄養豊かな土壌には良いことが多くあります。蒔かれた種が発芽し、根を土の中で張り巡らし、土から大量の栄養を吸収します。苗もぐんぐん成長し、太陽からエネルギーを受け、良い実を結び、良い種を付けます。土壌を良くするためにはよく耕し、石などを取り除き、肥料を与え、水を撒きます。御言葉がわたしたちの心を耕し、肥料を与え、水を注いでくれます。土が栄養豊富になると自然に実を豊かに結ぶようになり、健康な教会になります。そのような土壌作りを皆さんと一緒にしたいと願います。そのすべては神様を礼拝することから始まり、御言葉に聴くことから始まることを覚え、今後も一緒に大切にしてまいりましょう。共に祈りことも大切です。

 さて、今朝も旧約聖書にあるコヘレトの言葉から神様の御言葉に耳を傾け、神様の愛を受け取り、主の恵みの中に今日という日を生かされていることを共に感謝したいと願っていますが、このシリーズの4回目として与えられたのは4章の9節から12節です。9節の「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」という言葉をどなたかの結婚式で、司式をされた牧師のメッセージの中で聞いたことがあるかもしれません。しかし、この4章の文脈からすると、9節を結婚式での奨励の聖書箇所として選ぶのには、かなりの無理があると思われます。むしろ、結婚式で選んではならない聖書箇所であるように思います。

 何故ならば、結婚は人間関係の中で築かれる「平和・幸い」を象徴する最たる事例であると思いますが、この4章全体は「人の苦しみ、不幸さ、社会の不平等さ、戦い」が強調されています。この章の中で「幸い」を唯一感じられるのは9節から12節だと思いますが、その部分もこれから共に幸せに歩んで行こうとする夫と妻の関係性についてではなく、「正義」の反対であるこの世の「不義」に対して共に戦っている仲間との関係性について触れている言葉として理解することが神様の御心に沿っていると思われます。コヘレトがここで声を大にして言いたい事、それは「人生は戦いである」という事です。常に戦いがあるという事。結婚生活も然りです。いつも順風満帆という訳ではなく、様々な戦いがあるでしょう。

 このコヘレトという人は、人間の日常生活に、特に日々の営みの中にある人間の闇の部分に非常に高い関心があるようです。社会の中にある喜ばしくて明るい部分ではなく、社会が、人々が意図的に隠そうとしてしまうような闇の部分に着目し、その問題点を正確に指摘する、しかし同時にその改善点を教えようとしている、そのように感じます。社会の問題は一人で担ってゆけるような小さな問題では決してなく、二人三人、複数の人たちが共に心を合わせて担い、共に熟考し、細心の注意をもって取り扱い、様々な意見を交わし、共に問題を乗り越えてゆき、共に平和・幸いの中を歩もうとする、その大切さを教えているようです。

 まず4章の1節を読みたいと思います。「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない。見よ、虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はない」とあります。ここでコヘレトは社会批判をしています。太陽の下で行われている不義、悲しむべき身勝手な行為、そしてその不義によって虐げられ、涙している人々がいるという現実を指摘しています。コヘレトが生きた時代にも、わたしたちの時代と同じ格差社会があったことが分かります。不平等な社会があったという事です。

 世界的にも、経済格差、所得格差、地域格差、そこから生じる情報格差や教育格差があります。日本では、非正規雇用で安定した収入や保障が受けられない人たち、少額の年金で苦しい生活を余儀なくされている人たち、母子家庭で経済的に常に圧迫されている人たち、子どもたちがいます。富める人はさらに富を増し、貧しい人はどんなに頑張っても貧しいまま、負のスパイラルから抜け出せずにもがき苦しんでいます。世界的な問題、社会的で深刻な問題は、虐げられている人たち、公正・公平に扱われていない人たちが大勢いて、涙しているのに、国や政府、社会と行政から無視され続けているという事です。世界に、社会に、虐げられている人たちと虐げる人たちがいるという現実です。

 コヘレトは、「見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰める者はない」と叫びます。虐げられ、小さく弱くされている人たちの涙を拭い、慰め、励ます人がいないと叫びます。わたしたちは、虐げられてもいないし、誰かを虐げてもいないと中立の立場を取ろうとしますが、虐げられている人をそのままに放置することは、虐げている事と同じではないでしょうか。

 そういう厳しい現実を見て、コヘレトは2節と3節でこう言うのです。「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」と。虐げから救われないのであれば、死んだほうがましではないか、生まれてこなかったほうが幸いではないか、と心が引きちぎられそうな悲しい言葉を語ります。しかし、それでも今を生きることに集中しよう、助け合って共に今日を生きようとコヘレトは9節から12節で苦しみ、涙している人たちに対して精一杯慰め、励ましてゆくのです。

 コヘレトは、次の4節から6節で、現代と何ら変わらない競争社会の中で生きる人々の悩みや苦しみに注目します。4節では、「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」と言います。社会の中で、周りの人を蹴落として行かなければ生き残れないという現実があったようです。そこには妬みや競争心があります。自力で勝ちに行って、幸福を得なければならないと思い込み、夢中になってしまう。そして成功を手にしたかのように見えても、究極的には空しさだけが残ってしまう。そんな寂しいことはないのではないでしょうか。

 コヘレトは、6節で「片手を満たして、憩いを得るのは、両手を満たして、なお労苦するよりも良い」と言います。これは、両手で全てをつかみ取ろうとしてつかめないで常に不満の中に、貪欲の中に生きるよりも、片手で得られるもので満足する、今あるもので満足し、感謝することを覚えなさいと言うことです。もしかしたら、その先があって、たとえ祝福に預かって両手が満たされても、強欲にも貪欲にもならずに、虐げられ、貧しくされている人たちのために片手にある祝福を手放し、祝福を分かち合いなさいということかもしれません。

 8節のコヘレトの言葉に注目しましょう。「ひとりの男があった。友も息子も兄弟もない。 際限もなく労苦し、彼の目は富に飽くことがない。『自分の魂に快いものを欠いてまで 誰のために労苦するのか』と思いもしない。 これまた空しく、不幸なことだ」とあります。ここに巨万の富を持っていてもそれを誰とも分かち合おうと考えない仕事依存症の孤独な人がいます。「際限もなく」とは、終わりがないということですが、仕事に打ち込み、もっと多くの富を、もっともっとと貪欲に求めるのですが、死を迎える最後はそれらをすべて手放さなければなりません。そう考えると、これまた空しく、不幸なことではないでしょうか。

 さて、今朝のメッセージの本題に入りますが、コヘレトは社会批判を展開し、富を得るために手段を選ばない人間の空しさを語った後、人生が苦労と骨折り損と戦いの連続であったとしても幸いを得る方法を9節から12節で教えます。「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。更に、ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。 三つよりの糸は切れにくい」と。

 コヘレトは、わたしたちが共に生きることの素晴らしさ、連帯して生きてゆく必要性をここで語ります。各個人の力は小さくても、二人三人が一緒に力を合わせれば、問題を乗り越えられることができます。「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす」とありますが、戦いが続く時代、不安定な時代が背景にあるようです。共に戦い、互いに助け合う仲間が必要であるということです。お互いの背後を守るということ、お互いの命を守るということでもあります。そうだとすると、「ふたりで寝れば暖かいがひとりでどうして暖まれようか。ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する」とは兵士たちが寒さをしのぐために身を寄せ合い、お互いの体温・体力を温存し、共に今日を生きるという意味合いになると思います。

 わたしたちは、ひとりでは生きて行けません。格差社会の中で、人間の欲にまみれた社会の中で弱者はいとも簡単に切り捨てられます。わたしたちは、孤独と日々闘いながら生きてゆくことはできません。どこかで力尽きてしまいます。そうならないために、愛と憐れみの神様は救い主イエス・キリストをこの地上に、わたしたちのもとに派遣してくださいました。

 救い主イエス様が、日々虐げられている人々の涙を拭い、慰め励まし、幸いに生きる道を示し、その道へと招き続け、その道を共に歩んでくださいます。わたしたちが互いのために生き、愛し合い、祈り合い、支え合い、仕え合ってゆく模範を主は示してくださいました。イエス様がわたしたちを愛してくださり、仕えてくださったのは、わたしたちが愛し合い、仕え合って、寄り添い合って、共に神様の恵みのうちに生きるためです。神様の愛はすべての人に平等に注がれます。わたしたちが不平等さを、格差を生んではならないのです。神様の愛に根差した信仰共同体を造り、神様の愛を実践する教会とならせていただきましょう。