内側からの不満を解消するために

「内側からの不満を解消するために」 九月第二主日礼拝宣教 2021年9月12日

 ネヘミヤ記 5章1〜13節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。緊急事態宣言の解除が月末まで延期されましたので、心待ちにしておりました礼拝堂での対面式の礼拝は、最短でも10月3日まで待たなくてはなりません。全国的に見ても、また首都圏の感染状況、医療機関のひっ迫した厳しい状況に変化はありませんので、致し方ない処置であります。ですので、神様が対面式の礼拝への道を開いてくださるまで、忍耐と祈りの中、もうしばらくステイホームを頑張りましょう。お互いを覚えて祈り合ってゆきましょう。

さて先週、いつも家族と教会に来る女の子から牧師の家庭にお手紙が届きました。青、紫、オレンジ色のペンで、家族の名前をひらがなで書いて、「げんきにいてね」という言葉と可愛いイラストを添えて送ってくれました。つい先日5歳になったばかりのお友だちです。お母さんのお腹にいる頃からずっと教会に来て、一緒に礼拝をささげているとても利発で元気な女の子です。普通ならば鏡文字の一つや二つはあると思うのですが、鏡文字もなく、素晴らしい知恵が与えられながら成長されていることを大変嬉しく思い、神様に感謝しました。

緊急事態宣言が解除されたら教会にお戻りになられたい方々、子どもたち、またキリスト教と神様の愛に興味を抱かれて教会に行ってみたいという方々が今か今かとその日を待ってくださっていることと思います。昨日開かれました執事会でも今後のこと、クリスマスの諸集会などについて話し合いましたが、希望を主に抱きつつ、祈りつつ、丁寧に準備してゆきたいと思います。皆さんのお祈りと協力が必要ですので、どうぞよろしくお願い致します。

さて、ネヘミヤ記を1章から読み進め、各箇所から神様の語りかけを共に聞いています。先週はエルサレムの城壁を再建している最中に内外から様々なチャレンジを受けたこと、それに対してネヘミヤがどのように対応し、工事に携わっている人々を励ましたかを聴きましたが、宣教をお聴きになられた方の中には、少し消化不良を覚えられた方もおられるかもしれません。何故ならば、4章の最初の部分である1節から8節、口語訳・新改訳聖書では7節から14節の部分だけをお話しし、その後半部分に触れないで宣教を終えてしまったからです。

そのようなお気持ちを先週抱かれた方々に深くお詫びいたします。そのお気持ち、よく理解できます。何故なら、もしわたしがそのようにされたら、十中八九、悶々とした気持ちになったと思うからです。ですので、今朝は先週触れませんでした4章9節から17節の主要な部分を最初に手短に分かち合わせていただいてから5章に入ってゆきたいと思います。

ネヘミヤの強力なリーダーシップの下、バビロンの捕囚から解放された民とエルサレムに残留した民たちが力を合わせて崩れ落ちた城壁の再建に励みます。それぞれ工事を担当する箇所が与えられ、懸命に作業にあたります。しかし、彼らの頑張りように憤りを覚える人々がいました。周辺国に生きる異邦人たちです。彼らは共謀して、エルサレムへ攻め上り、混乱させ、工事を中断・阻止しようと計画したのです。外側から攻撃を受ける危険に直面したネヘミヤとイスラエルの民は、いつ攻撃があっても良いように備えをします。

しかし、城壁再建工事も並行して続けていかなければなりません。ネヘミヤは民の半分を工事を護衛する戦闘員として剣や槍や弓を持たせて配備し、もう半分を工事の作業員として工事に付かせます。しかし、この作業員たちも「各自腰に剣を帯びて作業した」と4章12節にあり、「夜が開けてから星が現れるころまでわたしたちは作業に就き、部下の半分は槍を手にしていた」と15節にあります。神様から委ねられた工事を着実に進めながら、同時に外部からの攻撃に万全の備えをしてゆきます。ここからわたしたちは二つのことを学べます。

一つは、宣言が解除されて教会に戻れるようになったら、礼拝を神様におささげすることを進めながら、コロナウイルスの感染、クラスターが教会内で起こらないように細心の注意を払いながら感染防止に努めるということです。剣ではなく、消毒液を腰に帯びるかのように、またマスクをし、しっかりソーシャルディスタンスを保ち、ちゃんと換気をしながら礼拝、祈祷会、教会学校、各会の交わりをなし、ウィズコロナの教会生活を共に送りながら教会形成をなしてゆくこと。これが外から来る感染から身を守る、教会を守る心の持ち方です。

もう一つは、教会を共に形成してゆくだけでなく、アフターコロナを見据えながら、福音宣教、地域伝道、個人伝道、つまり神様の愛とイエス様の救いを人々と分かち合ってゆく備えをし、ゴーサインが神様から出たらすぐに動けるようにメンタルの面で備えておく、stay ready、祈りながら万全の準備をしてゆくことです。教会の使命は、福音宣教と教会形成です。どちらか一つに比重を置いてしまうと教会は力を失って内外のチャレンジに敗北してしまいます。エフェソ書6章にあるように、真理に堅く立ち、正義と平和のために生きる。信仰という盾を手に取り、救いという兜をかぶり、神の言葉を霊の剣として取り、聖霊の助けの中で根気強く祈りながら、主に信頼しながら共に前進してゆく、そういう群れにされてゆきましょう。

さて今朝はネヘミヤ記5章1節から13節に注目し、神様の語りかけ、神様の御心を聴いてゆきたいと思いますが、その前にバビロン捕囚を経験して帰還した人々と捕囚はされずに廃墟となったエルサレムに残留した人々の当時の状況を少しお話ししたいと思います。つまり、遠いバビロンへ捕らえられて行った人々だけが苦労して来たわけではなく、エルサレムに残留した人々もずっと苦しみながら命をつないで来たという事実を知る必要があります。

バビロン捕囚から帰還した人々は、エルサレム神殿や城壁の再建に集中することは容易でしたが、残留して生きて来た民の多くは農家として穀物などを育て、生計を立てていました。その多くは農地を借りたり、土地を買って穀物を育て、収穫で得たわずかな利益を地主に支払ったり、借金返済に当ててきましたが、神殿や城壁の再建工事に駆り出され、農作業が今までのようにできなくなり、そのため収穫も激減し、生活に困窮するようになったのです。

コロナパンデミックの中で突然仕事を失ったり、収入が半減して家のローンが払えなくなったり、店舗の家賃が払えなくなって廃業したり、生活が困窮しておられる方々が多くおられる現代社会ですが、同じように困窮にあえぐイスラエルの民がネヘミヤの時代にも数多くいて、苦しい叫び声を上げる様子がこのネヘミヤ記の5章に記されています。ですから、今朝の箇所は、現代に生かされているわたしたちにとっても決して人事ではないのです。

1節に「民とその妻たちから、同胞のユダの人々に対して大きな訴えの叫びがあった」とありますが、彼らはイスラエルに残留し、農業などをして生き延びて来た人々です。そして彼ら、彼女らの悲痛な訴えは同胞に対するものでした。2節から4節には様々な苦しみを持った人々の叫びが記されています。「ある者は言った。『わたしたちには多くの息子や娘がいる。食べて生き延びるために穀物がほしい。』 またある者は言った。『この飢饉のときに穀物を得るには畑も、ぶどう園も、家も抵当に入れなければならない。』 またある者は言った。『王が税をかけるので、畑もぶどう園も担保にして金を借りなければならない。』とあります。

ここに極度の貧困、飢饉という自然災害、税金や借金というお金の問題、子どもを奴隷として売るという壮絶な痛み、苦しみ、悲しみが記されています。2節の訴えは最も貧しい生活を強いられていた人々による叫びです。3節の「またある者」というのは、2節の貧しい人たちよりも少しは経済状態が良い人、4節の「またある者」は3節の人よりも税金を収めることがまだ可能な状態の人です。しかし、ここに記されている人々の苦しみや痛みの最大の問題、その根源はイスラエルを忌み嫌う異邦人たちではなく、イスラエルの同胞であった、つまりユダヤ人の地主や役人や貴族たちであったのです。エルサレムとその周辺に残留した人々の中に同胞の貧しい兄弟姉妹に対して寛容ではなかったということ、もっと突っ込んだ言い方をすれば、主なる神様を畏れないで自分の利益を求める貪欲なユダヤ人たちが困窮と飢えに苦しみ、希望を失いかけている同胞たちを憐れまなかった、愛さなかったということです。

5節をご覧ください。彼らは「同胞もわたしたちも同じ人間だ。彼らに子供があれば、わたしたちにも子供がある。だが、わたしたちは息子や娘を手放して奴隷にしなければならない。ある娘はもう奴隷になっている。どうすることもできない。畑とぶどう園はもう他人のものだ」と叫びます。「同じ人間だ」というのは、「同じ血を分けた兄弟姉妹なのに」と云う意味です。みんな神様に造られ、愛されている民なのにどうしてその民の中に不平等、貧富の差、差別があるのかという叫びです。現代社会の中でも、世界中からも同じ叫びが聞こえます。

教会はどうでしょうか。教会の中に不平等や貧富の差や何らかの差別があるでしょうか。誤解がないようにお伝えしますが、大久保教会にはそれらの肉の思いはありません。もしあるとしたら、それは本当に「教会」と呼べるのでしょうか。わたしたちは皆、イエス様の血潮と死によって罪赦され、救われ、恵みのうちに歩むことができているのに、教会内に不平等や差別や争いや裁き合いがあって良いだろうかと常にセルフチェックしなければなりません。

この民の嘆きと訴えを聞いた総督ネヘミヤは、「大いに憤りを覚え、居たたまれなくなって貴族と役人を非難した」と6節7節に記されています。大きな集会を招集して、そこで「あなたたちは同胞に重荷を負わせているではないか」と非難します。この「重荷」とは、お金を貸して高利の利息をとったり、土地などを担保にさせて常に圧力をかけるということです。

8節をご覧ください。「『わたしたちは異邦人に売られていた同胞のユダの人々を、できるかぎり買い戻した。それなのに、あなたたちはその同胞を売ろうというのか。彼らはわたしたち自身に売られることになるのに。』彼らは黙りこみ、何も言えなかった」とあります。ネヘミヤたちがエルサレムに戻って最初に取り組んだことは奴隷として売られた同胞たちを買い戻すという運動でした。しかし、同じユダヤ人たちが貧しい同胞から搾取して、彼らを奴隷にしてしまっているという何とも悲しく虚しいことが横行していたのです。

ネヘミヤは同胞を顧みない貴族や役人たちの大きな間違いを人々の面前で指摘し、悔い改めを求めます。9節、「あなたたちの行いはよくない。敵である異邦人に辱められないために、神を畏れて生きるはずではないのか」とあります。「あなたがたの主なる神様は貧しい人々のために何をせよと命じているか忘れたのか」と問い正します。10節を見るとネヘミヤも金や穀物を貸していたようですが、彼は利益を求めてそうしたのではなく、兄弟や部下たちを助けるためにしたのですが、その負債を帳消しにすると言います。そして11節で「あなたたちも今日あなたたちに負債のある者に返しなさい。畑も、ぶどう園も、オリーブ園も、家も、利子も、穀物も、ぶどう酒も、油も」ともっと寛容になること、優しくなるように諭します。

教会の中で、お金の貸し借り、貧富の差があってはなりません。神様は貸すのではなく、与えなさいと言われます。世の中では、人の弱みに付け込んで大きな利益を得ようとする強欲な人々が確かにいます。しかし、神様の愛、イエス様を信じている人は見返りを求めるギブアンドテイクの関係ではなく、常にギブ・与えること、献げることを大切にします。なぜならば、人から得られるよりも遥かに大きな愛と慈しみ、憐れみを主イエス・キリストを通して神様から受けて生かされているからです。申命記23章20節には同胞から利子・利息を取ってはいけないと命じられ、同じ24章10節には担保も取ってはいけないとあります。

レビ記25章35節から38節には、貧しい同胞を助けなさい、「あなたの神を畏れ、同胞があなたと共に生きられるようにしなさい」と命じられています。申命記15章7節から18節には、「彼に必ず与えなさい。また与えるとき、心に未練があってはならない。生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい。与えなさい」と命じられています。箴言22章16節には、「弱者を搾取して自分を富ませたり、金持ちに贈り物をしたりすれば、欠乏に陥る」とあります。大切なのは、愛し合う、支え合う、励まし合うこと、つまり神様が愛してくださっているように、与えてくださっているように、隣人を愛し、恵みを分け与えるということなのです。

最後に13節をご覧ください。ネヘミヤに促され、悔い改めた人々は祭司の前で、つまり神様のみ前で誓いを立て、会衆は皆で、「アーメン」と答え、神を賛美した。民はその言葉どおり行った」とあります。「アーメン」とはみんなが同意した、つまり一つになったということです。そして「神を賛美した」とは共に礼拝をささげたということ。それがわたしたちの教会に求めておられる神様の御心です。一つとなり、主を賛美してゆく、証ししてゆく、イエス様を伝えてゆく。それがわたしたち一人一人の、そして教会の使命なのです。苦しい時にあっても、恵みの源である神様を、救い主イエス様を信じて、共に歩んでまいりましょう。