「内外からのチャレンジ」 九月第一主日礼拝宣教 2021年9月5日
ネヘミヤ記 4章1〜17節(3章33〜38節) 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげできて嬉しいです。神様に感謝いたします。9月に入ってから冷たい雨がよく降り続けます。秋の到来を感じさせる肌寒い日々が続き、またコロナ危機の中で不安や疲れを覚える中で、わたしたちの心は知らず知らずのうちに冷たくなってしまいますが、神様は本当に良いお方です。わたしたちの心を励まし、暖めようと今朝も礼拝へと招いてくださいます。神様の愛とお取り計らいに感謝です。
今朝も宣教に入ってゆく前に、導入として皆さんと分かち合いたいことが二つありますので、お付き合いいただきたいと思いますが、昨日の朝、東京地方連合女性会の「秋の集い」がオンラインで開催され、1時間という短い集まりでしたので、わたしも参加させていただき、励ましや学びを多くいただきました。連盟宣教部の国外宣教室長が今回の講師であられましたが、この方が講演の冒頭で次のようにおっしゃいました。「長引くコロナパンデミックの中、私たちは互いに労うことが必要ですね。確かに神様も労ってくださるけれども、互いに労い合うことは、今の私たちには必要なことなのではないでしょうか」と言っておられました。わたしはその日、この「労う」という言葉が不思議なほどまでにとても新鮮に聞こえました。
「労う」とは、相手の働きや努力に対して謝意を表すこと、つまり「ありがとうございます」と言葉をかけることですが、いつもよくしてくださる方を労うこと、感謝を言葉で表すことは大切です。わたしは本当に幸いな牧師で、本当にたくさんの方々から大切にされ、いつも労いの言葉やお心遣いをいただきます。教会の内外を問わず、また日本だけでなく海外からも労いの言葉と愛をいただき励まされています。先週もたくさんいただき、感謝しました。けれども、わたしは常日頃から皆さんに労いの言葉をかけ、感謝を表していないなぁと感じました。多くのことを当たり前のように受け取り、感謝することを忘れていたことに気付かされました。ですから今回、「労う」という言葉があまりにも新鮮に聞こえたのだと思います。
ですので、今朝は大久保教会の皆さん、国内外を問わずにこのオンライン礼拝にご出席くださるゲストの皆さんに心からの感謝を申し上げたいと思います。カメラの向こう側に皆さんがいつもいてくださり、この礼拝に出席くださり、いつも祈りに覚えてくださり、様々な愛のフィードバックをくださり、本当にありがとうございます。「礼拝と宣教を毎週楽しみにしています」という労いの言葉をいただきますと感動で心が震えます。礼拝ライブ配信の働きを担ってくださる宣教師の先生ご夫妻、わたしの家族にも感謝いたします。ありがとうございます。主なる神様と皆さんがいつも労い、励ましてくださるのでわたしたちは頑張れます。
もう一つ分かち合いたいことですが、実はあまり嬉しくないことです。鳩のつがいが教会のみかんの木に巣を作り始めた、嬉しい、お祈りくださいと2週間前にお願いしましたが、その後数日間は巣作りに励んでいたのですが、その後ぱたっと見かけなくなり、どうやら教会での巣作りを諦めてしまったようです。わたしはとても楽しみにしていたのですが、どうしてもダメだったようで、途中だった巣は空っぽになり、本当に残念です。確かに先週降り続いた雨から身を守ることは厳しい、難しいと感じました。自然界は本当に厳しいですね。多分もっと安全な場所を見つけることができて、そこで頑張っているのだと思います。
何故このような話を宣教の冒頭でするのかと不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、そういう方は幸せボケの中におられるのかもしれません。よく考えてみてください。いえ、この鳩のつがいのことを聞いて、このことは自分にも当てはまると感じる方がおられるのではないかと思うのです。どういうことでしょうか。つまり、わたしたちの日常生活においても、人生という旅の途上においても、本当に上手くいかない時や期待通りにいかないことがあります。人が生きるとは、時に厳しく、時に険しく、どんなに知恵を尽くして頑張っても、願い通りにならない難しい時があります。そうではないでしょうか。
わたしたちは、バビロニア捕囚後のイスラエルの歴史をエズラ記とネヘミヤ記から聞いて学んでいますが、ずっと恋い焦がれていた故郷ユダの地、エルサレムに帰ってきても、すべての事柄が彼らの思い通り、計画通り、理想どおりに進んで、「本当に感謝だね!」というハッピーエンドになったわけではないのです。むしろその反対なのです、残念ながら!
最初にゼルバベルというリーダーのもとでエルサレムに帰還し、最初に神殿の再建を開始した民たちも、その後エズラの指揮のもとで神殿を完成した民たちも、ネヘミヤという強力なリーダーシップを持った人もとにエルサレムの城壁をたった52日間で再建した民たちも、最初はみんな奮い立って、委ねられた働きを神様の御心と信じて一生懸命に頑張ったのですが、その頑張った後、しばらくして信仰的に気持ちが緩んでしまい、その油断の結末は、残念ながら、納得も歓迎もできない、神様を悲しませることになってしまうのです。
今回ネヘミヤ記を読み進めていますわたしたちの目的は、この書物からウイズコロナの時代を歩み、これからアフターコロナの時代を歩もうとしてゆく中で、どのように教会を再建してゆくか、どのようにみんなで元気な教会になって実を結んでゆくかという知恵と励ましを受けようと神様のみ言葉に真剣に耳を傾けて聴こうとしていますが、このようなことを牧師であるわたしが言ったら皆さんはたぶん落ち込んで、ネヘミヤ記からの宣教を今後聴く気になれない、モーティベーションが低くなるかもしれませんが、このネヘミヤ記を最後の13章まで読んでゆくと、イスラエルの民は確かに城壁を完成させ、それはそれで素晴らしい業績を残しますが、その完成した後、しばらくして神様の御心に従って生きてゆくことが困難になるのです。要するに、エズラ記とネヘミヤ記に記されているイスラエルは、最後のところで、残念なといいましょうか、かなり後味の悪い形で終わってしまうのです。
捕囚の民を導いてエルサレムに戻ったゼルバベルも、エズラも、ネヘミヤも、神様からそれぞれに託された大きな働きを忠実に担い、民を励まし、ある程度の成功を一旦はおさめるのですが、イスラエルの民たちがエルサレムに戻り、神殿を再建し、そして城壁を再建した後、それぞれ共に働いた人々の中には、すべての人ではありませんが、そのうちの人々のその後の生活は、神様から離れてしまい、ネヘミヤたちは大いに落胆するのです。
わたしたち人間のやること成すことは、いつも的外れ、お門違い、不十分、不完全です。何が的外れなのか。自分の思い通り、計画通りに生きているかもしれないけれども、神様の願い通りには生きていないということ。何がお門違いであるのか。それは目指すべき方向、ゴールを間違えて、神様の願いとは真逆の方向へ突き進んでいるということ。何をもって不十分、不完全と定義するのか。それは、わたしたちには罪という弱さがあり、自分の知恵や力や努力だけで罪のない完全な者にはなれないということです。
わたしたちが飽きもせずに繰り返し間違いを犯すのは、わたしたちの内に罪という汚れが在り続けるからで、この罪あるわたしたちの心を完全に清め、新しい心にしてくださるのは、神様、その愛のあらわれである救い主イエス・キリスト、わたしたちの心に内住してくださる聖霊です。つまり、わたしたちにはイエス様という救い主と新しい心が必要なのです。わたしたちを憐れみのうちに完全に造り変えてくださるのは創造主なる神様であり、救い主イエス・キリストです。このことに関しては、宣教シリーズの最後で聴きたいと思います。
さて、今朝はネヘミヤ記4章に記されている神様のみ言葉に耳を傾けて参りたいと思いますが、先週は3章からエルサレムの城壁再建・修復工事に携わった人々の多くがそれぞれ配置された場所で熱心に働いたということと、工事の概要を聞き、励まされました。しかし、すべてのことがうまくいったわけではありません。工事を始める前、また工事期間中、そして完成後も、イスラエルの内外問わずに様々なチャレンジを受けるのです。そのチャレンジというのは、外側からの嘲弄から始まり、工事の妨害、敵の攻撃の危険などです。内側からのチャレンジとは、民の中に不正があったり、そのために不満や恐れが沸き起こってきます。外側からの攻撃に備える。内側にあっても普段から心を配ることの大切さを今回学びます。
さて、今回の聖書箇所ですが、お手持ちの聖書によって、章の分け方が異なります。新共同訳聖書は、3章は33節から38節まで続きますが、口語訳と新改訳聖書ではこの3章33節が4章1節となっています。つまり聖書訳によって6節のずれがあるということです。ですので、今回の宣教も、お手持ちの聖書によっては聞きづらくなるかもしれませんが、新共同訳では4章1節から、口語訳、新改訳、英語訳などは4章7節からとなりますのでご注意ください。また、何故33節から38節、1節から6節を割愛するのかと申しますと、基本的に今回わたしたちが聞く内容と同じようなことが繰り返されているからです。では、読んでゆきましょう。
1節と2節。「サンバトラとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドトの市民は、エルサレムの城壁の再建が進み、破損の修復が始まったと聞いて、大いに怒った。彼らは皆で共謀してエルサレムに攻め上り、混乱に陥れようとした」とあります。サンバトラという人が怒り、激しく憤慨し、嘲笑ったと33節にもあるのですが、彼がなぜ憤慨したのかというと、彼のその土地での影響力、支配力が失われるからです。神様に信頼しない人は、自分の地位や富という「力」にしがみつくことに必死になり、邪魔する者たちを排除しようとします。
「サンバトラとトビヤ、それにアラブ人、アンモン人、アシュドトの市民が皆で共謀して」とありますが、サンバトラとトビヤはエルサレムの北側のサマリヤ地方、アラブ人とはエルサレムの南側、アンモン人とは東側、アシュドトの市民とはエルサレムの西側を意味します。つまり、エルサレムは四方から敵に囲まれるという危険にさらされます。わたしたちも八方ふさがりを経験する時、最初に何をするでしょうか。3節をご覧ください。「わたしたちはわたしたちの神に祈り、昼夜彼ら(敵)に対し、彼らから身を守るために警戒した」とあります。わたしたちもコロナやそこから延長される課題や問題などで身動きが取れなくなる時、まず神様に祈ることが大切・必要で、「わたしに祈り求めさない、叫びなさい」と招かれています。
しかし、日々のチャレンジというのは外側からだけでなく、内側からもあります。4節をご覧ください。「しかし、ユダもこう言うのだった。『もっこを担ぐ力は弱り、土くれの山はまだ大きい。城壁の再建などわたしたちにはできません』」と言う声が内側からも起こります。また、6節には「彼らの近くに住むユダの人々、(つまり敵とイスラエルの境・境界線の地域に住むユダヤ人たち)がやって来て、十度も(つまり事あるごとに、頻繁に)わたしたちに、『あなたたちが戻ると、あらゆるところからわたしたちは攻められます』と言った」と苦情が寄せられます。この内側からのチャレンジについて来週の宣教で詳しく見ていきます。
さて、人生の中でチャレンジに直面する時に大切、かつ必要なのは、最初から神様に頼り、助けを祈り求めると言う事です。まず自分でやるだけのことはやって、それでもダメなら最後は神頼みという順番は間違っています。最初から神様を信じ、信頼し、委ねるのです。委ねるとは、祈って、あとは神様にお任せして、自分は何もしないということではありません。神様に信頼しつつ、自分がすべき事は行い、負うべき責任はしっかり負うという事です。
7節をご覧ください。神様に祈ったネヘミヤは「すぐに城壁外の低い所、むき出しになった所に、各家族の戦闘員を、剣と槍と弓を持たせて配置した」とありますが、ネヘミヤは自分たちの最も弱い部分、最初に攻撃されやすい箇所を把握しつつ、自分たちが負うべき責任をみんなで一緒に負います。新約の時代においてわたしたちが持つべき武器は、エフェソの信徒への手紙6章14節以降(新約p359)に記されていますが、「真理を帯として腰にしめ、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物とし、信仰の盾をとり、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」と励まされ、わたしたちの霊的戦いに必要なものは全て神様が与えてくださるのです。ですので、日々の歩みの中で必要なのは、神様を信じて、常に神様と一緒に歩む事です。自分の力ではなく、神様の愛の力、主イエス様の復活の力、聖霊の励ましを受けて生きるという事です。主イエス様はいつも共にいてくださいます。そう約束し、その約束を日々果たしてくださっています。
ネヘミヤは8節でこのように民を励まします。「わたしは見回して立ち、貴族や役人やその他の戦闘員に言った。『敵を恐るな。偉大にして畏るべき主の御名を唱えて、兄弟のために、息子のため、娘のため、妻のため、家のために戦え』」と。「主の御名を唱えて」とは主なる神様に信頼しながらという意味です。皆さんにも日々大変なことがあるでしょう。人間関係、育児、介護、仕事、病気や怪我、孤独があるでしょう。しかし、み言葉に今朝も励まされ、主に信頼しながら、内外からのチャレンジに向き合い、逃げないで戦いましょう。主が共にいて戦ってくださるので敵は退きます。主なる神様が勝利と祝福を与えてくださいます。