善い実を結ぶために

「善い実を結ぶために」 七月第四主日礼拝 宣教 2023年7月23日

 テサロニケの信徒への手紙二 2章13〜17節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。暑い日々が続きますが、今朝も皆さんと共に礼拝者としてこの礼拝堂に呼び集められていることを主に感謝いたします。オンラインで出席くださっている皆さんも心から歓迎いたします。6月8日頃から関東で始まった梅雨も、平年よりも三日遅い昨日22日に、ようやく明けたということです。もう少し雨が欲しいと欲が出ましたが、秋田をはじめとする東北地方、またその前には九州地方でも大雨による甚大な被害が出ていますから、それは間違っていると感じ、悔い改めました。被災地と被災された方々を覚え、またこれからの季節、台風から守られるように祈りながら過ごしたいと思います。10日ほど前から教会の周りでも蝉が鳴き出し、猛暑日が続いています。このような天候は8月末まで続くようですので、熱中症対策など健康には気を付けながらお過ごしいただきたいと思います。

 さて、今朝はメッセージの前に分かち合いたいことが二つあります。今年は「コヘレトの言葉」(伝道の書)をシリーズで聴いてゆくことを以前お伝えしましたが、いよいよ8月から12回の予定で始めます。来週30日のメッセージは、そのオーバービューと申しましょうか、コヘレトの言葉を概観し、どのような視点から読んでゆくべきかをお話しします。旧約聖書の中でも理解するのが難しい独特な書物と考えられています。それは、この書物には「空しい」という言葉が繰り返し出てくるからでしょう。しかし、この「空しい」という言葉の意味を間違った観点から捉えようとし、理解しようとしてきたかもしれません。また、この「空しい」という言葉が独り歩きしすぎて、人生を悲観的に見ている書物だという偏った考え方を持つ人もおられるかもしれません。しかし「聖書は神様からのラブレターである」という観点からこの書物を読んでゆきますと、面白い発見があると思います。ぜひご一緒に聴いて、御心を探し求めてゆきたいと思います。この学びのためにお祈りに覚えてください。

 さて、次に一枚の写真を見ていただきたいと思います。二週間ほど前、教会の前の落ち葉を箒で掃いていた時に見つけたみかんの実です。10円ほどの大きさの実から、もっと小さな実が道路に落ちていました。今年は例年よりも花がたくさん咲きましたので、多くの実を結ぶかなぁと期待していたのですが、大きく成長する前に落ちてしまったようです。今朝は、つい二日前に同じように地面に落ちていた実を持ってきました。こんなに小さく、青い実です。せっかく実をつけたのにかわいそうだなぁと思いましたが、地面に落ちた実を拾い上げ、上を見上げると、なんと卓球球やテニスボールぐらいの実がたくさん付いていました。

 わたしたちの人生にも、日々の営みの中にも実を結ばないで地面に落ちることがたくさんあります。しかし、すでに地面に落ちた物をどうすることもわたしたちにはできません。わたしたちは、悲しんで地面を見つめ続けるのではなく、常に上を向いて、神様を見上げて、主の御業、主が実を結び、その実を成長させようとしている御業に集中してゆく必要があります。信仰の目をいつも主に向けることが喜びと平安と希望をいただく鍵です。わたしは、地面に落ちた実を手のうちにつつみ込みながら、枝につなげられている実たちをお守りくださいと神様に短くお祈りしました。道側のほうにかなり多く実を結んでいますので、この礼拝からのお帰りがけの際に、緑色のみかんの実を探して祝福されてください。

 さて、今朝は「善い実を結ぶために」と題して、テサロニケの信徒への手紙2章13節から17節の部分を通して、神様の語りかけに聴いてゆきたいと願っています。今朝のメッセージのポイントは、どのような心構えをわたしたち一人ひとりが絶えず持つことが善い実を結ぶことにつながるのか、つまり、神様も喜び、周囲の人々・隣人も喜び、自分も喜びで満たされる、誰もがウイン・ウインの状態で生きられるかを聖書から聴いてゆきたいと思います。

 そのように導かれたことの発端は、先週の教会学校で聴きました創世記1章と2章に記されている天地創造の出来事でした。創世記1章と2章には、神の天地万物の創造の業がそれぞれ視点を変えたところから記されています。神が人を創造された目的は、神が創造された地上の物を良く管理させることでした。1章では、ご自分のイメージに似せて創造された男と女に神は「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と命じました。2章では、神は男と女をエデンの園に住まわせ、そこを耕し、その土地を守るように命じます。神が人に命じたことは、神の祝福の中で、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」ということでした。

 英語では、「Be fruitful and multiply」となります。善い実をたくさん結びなさいということ、それを神は人に命じ、期待されたのです。しかし、人は神に対して罪を犯し、祝福の外に置かれました。誰もが喜ぶ善い実を結ぶことを止めてしまい、自分たちの欲を満たすためだけの実を結ぶようになりました。そのために地は罪で満ちました。神はそのような地に大雨を降らせ、ノアとその家族以外の人間を滅ぼしました。創世記8章17節ですが、ノアとその家族が箱舟から出る時に、神はノアに「すべて肉なるもののうちからあなたのもとに来たすべての動物、鳥も家畜も地を這うものも一緒に連れ出し、地に群がり、地上で子を産み、増えるようにしなさい」とお命じになられました。9章1節と7節でも、神はノアとその息子たちに「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と命じています。

 この後、この「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という命令が、神から与えられる「繁栄」という言葉に置き換わります。これから挙げる聖句はすべて創世記からですが、17章6節と20節では、神はアブラハムに対して、「わたしはあなたをますます繁栄させる。大いに子供を増やし繁栄させる」と約束しておられます。26章22節では、イサクに対しても繁栄させると言われます。28章3節では、イサクが息子ヤコブのために、「どうか全能の神がお前を祝福して繁栄させ、お前を増やして多くの民の群れとしてくださるように」と祝福の祈りをしています。35章11節では、神がヤコブに対して、「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こる。わたしはアブラハムとイサクに与えた土地をあなたとその子孫に与える」と約束しています。この時にヤコブは、「イスラエル」という名前が神から与えられます。他には41章52節ではヨセフが二人目の息子が与えられた時に、「神は、悩みの地で、わたしの子孫を増やしてくださった」と感謝しています。48章4節にもヤコブがヨセフの子たちを祝福する言葉の中に「繁栄」があります。

 神の御心は明確です。神のご加護と祝福の中で、神を愛し、互いを愛する民が増え、この地が神の愛で満たされることです。神に祝福されている人々が善い実をたくさん結ぶこと、結び続けることが神の願いであり、わたしたちに期待されているところであります。しかし、わたしたちは同じ間違いを繰り返します。自分の為だけの、自分の喜びのための実を結ぼうとし、神様が期待される善い実を結ぶことをしません。そのために地上は罪で満たされ、悪がはびこり、悲しみや痛みや絶望で覆われ、命が消え失せてゆきます。罪にまみれた中で生きることを自ら選び、祝福の源である神との関係性が断ち切られた状態に生きているのですから、善い実を結ぶことができなくて当然です。しかし、神はこの当然を断固として受け入れられません。何故ならば、この当然は、神の御心、神が計画された地の祝福という事から大きくかけ離れているからです。神様の目の前で、たくさんの人々が善い実を結ばずに地に落ちているからです。わたしたちの結ぶ実が、神の喜びとなっていないからです。

 この罪と死の問題、善い実を結ばないという問題を解決するために、神はご自分のひとり子をこの地上にお遣わしになられ、わたしたちの罪をきよめ、罪と死から解放し、再び神につなげるために十字架につけられました。神の子イエス・キリストを犠牲とする罪の贖いがどうしても必要であったからです。この贖い主を神は死から甦らせ、死に勝利した復活の主とされました。このイエス・キリストを救い主と信じる信仰によって、神の愛と憐れみによって、恵みのうちに救われ、再び神につなげられた者となり、善い実を結ぶ使命が与えられています。そのような中で、キリストの教会は成長し、全世界へ福音を携えて出てゆくようになります。主イエスが弟子たちにお命じになられた大宣教命令、使命であるからです。

 しかし、この時代、教会の勢いが急激に弱くなっています。クリスチャンの数も、その影響力も年々低下しています。その反対に、神を畏れない人が増加しています。教会がすごいスピードで消滅しています。なぜ消滅するのか。単純に、善い実を結んでいないからです。教会がバランスを失い、わたしたちの多くも信仰のバランス感覚を失っているからです。自分の事しか考えていないからです。愛するよりも愛されたい。与えるよりも受けたい。祈るよりも祈られたい。祝福するよりも祝福されたい。仕えるよりも仕えられたいと、大部分のうちで「受け身」になっていて、福音を携えて外に出て行かなくなったからです。

 そういうアンバランスな状態の教会、わたしたちに更なる誘惑や試練が襲いかかってきます。信仰を揺さぶる霊的な熱波や大雨による洪水が襲いかかってきます。大地が干上がるように信仰も乾きを覚え、大地が大雨を受け止めることができなくなって地すべりを起こるように、試練や誘惑にあって信仰を保つことができなくなり、喜びが崩壊してしまいます。救いの喜びがなくなってしまったら、どのように善い実を結ぶことができるでしょうか。喜びがなくなったら、善い実を結ぶことはできません。出来るはずはありません。わたしたちの中には、その力がないからです。しかし、わたしたちを喜びで満たしてくださることができる唯一の方が居られます。それが主なる神、救い主イエス・キリスト、そして聖霊です。

 使徒パウロがテサロニケの教会に手紙を書き送った背景には、この教会のクリスチャンたちが偽メシア、偽教師たちによって惑わされ、信仰が揺さぶられて弱っていたということがありました。そのような教会と信徒たちを励まし、信仰のバランスを維持させるために、この手紙は書き送られました。信徒たちの喜びの回復のため、イエス様を信じる人たちが善い実を結ぶことが再びできるように、使徒パウロは祈りつつ、愛と励ましの言葉を送ります。

 2章13節に「しかし、主に愛されている兄弟姉妹たち」とあります。大きな試練や誘惑の中にあっても、あなたたちは神様に愛されている存在ですよ、そのことを一緒に感謝しましょうと励ますのです。感謝せずにいられない理由を、「なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです」とパウロは言っています。

 あなたがたには真理を悟る聖霊の力が与えられ、真理へ向かって進む信仰が与えられているのですから感謝しようと励ますのです。聖霊も、信仰も神様から与えられる素晴らしい恵みです。その恵みがいつもわたしたちと共にあるので、わたしたちはいつも喜べるし、絶えず祈れるし、すべてのことに感謝できる豊かで強い信仰の歩みを続けることができるのです。

 14節に、「神は、このことのために、すなわち、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせるために、わたしたちの福音を通して、あなたがたを招かれたのです」とあります。わたしたちに救いが与えられ、信仰へと招かれたのはわたしたちの喜びのためだけでなく、神様とイエス様の喜びのためでもあり、主の栄光に預らせるためである、その御心を感謝して、今の苦しみを主に委ねましょうと励まされています。

 わたしたちが神様とイエス様に喜ばれる善い実を結ぶために常に心に持ち続ける気持ち、それは神様の恵みへの心からの感謝です。この恵みへの感謝が、心と精神と思いを尽くして神様と主イエス様を愛することにつながります。使徒パウロは15節で「兄弟姉妹たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい」と励まします。神の言葉、主イエスの言葉を聴き従う、その言葉どおりに神には忠実に、人に対しては誠実に生きる人は神様の望まれ、喜ばれる善い実を結ぶことができるということです。

 16節と17節、「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者、(善い実を結ぶ者)としてくださるように。」とあります。神を見上げながら、主と主の言葉に信頼し、いつも喜びながら、絶えず感謝しながら、すべての事には神様の御心・ご計画があると感謝して、主の愛に誠実に応えられるように主の助けを求めて参りましょう。