大いなる喜びに満たされて

「大いなる喜びに満たされて」 五月第二主日礼拝 宣教 2022年5月8日

 詩編 34編2〜8節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今朝も礼拝堂に集っておられる皆さん、そしてオンラインでこの礼拝に出席されている皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできること、主に心から感謝です。ご自身やご家族に体調を崩されているために欠席されている方々を覚えて祈りましょう。

さて、今朝の宣教は、先週の歩みの中で発見したこと、強く感じて考えさせられたこと、そして詩編34編の2節から8節に示されたことを分かち合わせていただこうと思います。

最初は、他でもない、愛してやまない教会のキジバトの巣作りのその後です。先週は巣作りの過程で地面に落ちてしまった小枝から示されたことをお話ししましたが、鳩のつがいが取り組んでいる彼らの巣を下から眺めていると、一つの嬉しい発見がありました。写真を数枚用意しましたので、写真でご説明したいと思います。

鳩のつがいは、みかんの木の太い枝が「コの時」になり、そこに一本の細い枝が斜めに入っている場所に巣作りをしようと小枝を置き始めたようです。ちょっとハシゴを使って近くから見てみました。巣の上から撮った写真はこちらです。かなりの数の小枝が敷き詰められています。すごいなぁと思いました。さて、嬉しい発見と云うのは、この巣を下から支えようと一本の細い若枝が太い枝から生えてきたという感動的な事実を知ったことです。(詳しくはユーチューブでどうぞ)

この写真では見えにくいと思いますが、ここに直径3ミリほどの緑の細い枝が生えています。この枝がこの巣の左側部分を支えているのです。この枝は枯れた枝ではなく、細くてもみかんの木から生え出た「生きた枝」です。私は、この生きた枝は神様が備えてくださった神様の支え・サポートであると思います。巣を作るために小枝をくちばしにくわえて何度も繰り返し運ぶ鳩のつがいの姿をご覧になった神様が、そのひたむきさ、諦めない精神力、忍耐力、粘り強さ、コツコツと巣作りをする姿勢に助けを送ってくださったのだと思います。

神様は、鳩の頑張りように目を留め、絶妙なサポートを与えてくださるように、わたしたちにも目を止めてくださいます。もし、わたしたちがひたむきにコツコツと頑張っているならば、神様はわたしたち一人一人のひたむきさ、頑張りよう、忍耐力、コツコツと前進する姿をご覧になって、神様には忠実に、人々には誠実に、自分の対しても正直に生きる人を必ず顧みてくださり、絶妙な方法で、最善な時に優しく力強く支えてくださるはずです。

しかし、自分の力と知恵だけに信頼し、これからも自分の好きなように生きてゆく人、誰の力も借りないと傲慢に意気がる人に対しては、神様は「とげ」をお与えになります。実は、みかんの木の枝には鋭いトゲがあって、それを知らずに枝を握りしめるならば、その鋭いトゲが手に刺さり、激痛を感じます。もし鳩のつがいが傲慢になったら、神様は枯れた小枝で作った巣に、巣を取り囲む大中小の枝から鋭いトゲが生えさせ、その巣で子育てできないようにするでしょう。わたしたちは、日々コツコツと、いつも実直に、謙遜に生きること、神様の愛に生かされていることを常に感じながら、喜び、感謝しながら生きることが大切です。

さて、先週の歩みの中で考えさせられたことがあり、今朝の礼拝への招きの言葉としてローマの信徒への手紙12章の15節から17節を選びました。「喜ぶ者と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人たちと交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけさない」という言葉です。皆さんもよくご存知の聖句だと思います。

さて今日は、母の日です。自分を産んで、愛を注いで育ててくれた母親を尊敬している人たちにとっては、心からの感謝を表す日です。しかし、すべての人が素晴らしい母親を持てたわけではなく、幼少期からネグレクトされたがゆえに母親を恨んだり、憎んだりしている人も実際におられます。また、愛するお母さんを亡くされて深い悲しみの中におられる方もいれば、今年もお母さんに「ありがとう」と直接言える人もいます。戦火のウクライナでは子どもをかばって死なれたお母さんもいれば、戦争がない国では母の日に家族と一緒に食事に行って楽しい時間を過ごすお母さんもいます。母の日、父の日、こどもの日、敬老の日、孫の日、日本にも感謝を表す日があります。しかし、喜びと感謝だけでは収まらない、複雑な思いを抱く人たちが、この日本社会の中にも、世界にも実際に存在するのです。

先週、ある方からメールがあって、教会の中にお父様やお母様を最近亡くされた方がおられて、自分の親が今も生かされていることの感謝を表したいけれども、そういうことは「はばかれる」とありました。

また、出産を控えている若い女性が、お腹の子どもが元気に成長しているのをSNSで分かち合うことも「憚られる、遠慮がちになる」と記しておられました。自分には喜びと感謝しかないけれど、受け止める人によっては羨んだり、苦しんだり、悲しんだり、妬んだりするかもしれない。そういう配慮を怠らない人たちがおられます。自分のことしか考えない人は、そんなことさえ微塵も感じないでしょう。しかし、周りの人のことを思いやれる優しい人はどうしても遠慮がちになってしまう。それってどうなのでしょうか。

嬉しいことも、感謝なことも、悲しいことも、祈って欲しいことも、みんな心の中に隠してしまう。みんな、遠慮しながら、苦しい思いをしながら、迷いながら、日々を生きておられるのだということを再び痛感させられました。しかし同時に、教会って、そんな場所で本当に良いのかなぁ、教会の中では「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにしなさい」と励まされているのに、教会の中でも遠慮しながらバラバラに生きてゆかなければいけない、それって御言葉にちゃんと聴き従っていない事だよなぁと感じました。

人生には、喜ばしきことも、悲しみに満ちることも、ほぼ同時に向かって来ることがあります。生と死が同時に迫ってくることがあります。良いことと悪いことが交互に来ることがあります。いつも良い日々とは限りませんし、いつも悪い日々とも限りません。大概の場合、すべてわたしたちの心次第、つまり心の持ちようによって向き合い方が変わるのです。

アメリカで元気に暮らしている私の母が大好きな詩人に星野富弘さんという車椅子生活をされながら素敵な画と詩を書かれるクリスチャン作家がおられますが、数多くある彼の詩の中にこういう詩があります。「喜びが集ったよりも、悲しみが集った方が幸せに近いような気がする。強いものが集ったよりも、弱いものが集った方が、真実に近いような気がする。幸せが集ったよりも、不幸せが集った方が愛に近いような気がする。」という詩です。

教会は、多くの弱さや欠け、過去に大きな失敗を経験し、傷を負った人たちが神様の愛と憐れみによって集められる隠れ家です。神様の大いなる愛によって赦され、癒され、救われ、新しくされる恵みの家です。喜びも、悲しみも、みんなが遠慮なく分かち合い、一緒に喜び、一緒に泣き、一緒に祈り、一緒に礼拝する空間。教会は神様の愛を体験する場所です。もしそう出来ないなら、その教会は神様のみ心に生きるよりも、人間の思いを優先させて歩んでいる人々の集まり、高ぶり、うぬぼれた人々が集まる場所だと思います。わたしは、大久保教会がそのような喜びも悲しみも遠慮なく分かち合い、祈れる自由な教会になってゆくことを祈りながら牧師の仕事をコツコツと続けたいと思います。皆さんもご一緒に歩みましょう。

さて、先週は教会の年間聖句である詩編34編の9節から10節に聴きましたが、今朝は同じ34編の2節から8節に聴きたいと思います。そして22日の朝は同じく34編の12節から15節に聴き、29日の朝は34編の16節から23節に聴きたいと願っています。この詩編に神様からいただく恵みを深く味わう秘訣があると思うからです。

先週もこの詩編の背景をお話ししましたが、この詩を謳ったダビデという人は、その時、彼の人生の中で最も辛くて苦しい時期、暗い闇の中を歩まされていました。イスラエルの平和のために心血注いで戦ってきたのに、厳しい戦いに勝利すればするほどイスラエルの王サウルに激しく嫉妬され、命を付け狙われる羽目になっていました。そして身の安全を確保するために国外に逃亡しなければならなくなりました。人一倍勇敢に戦い、正直に生き、忠実に仕えようとしているのに、ハラスメントを受けたり、命を奪われようとしている。なんとも理不尽な扱いでしょうか。正直者が馬鹿を見るというのは、こういうことだと思います。

命を付け狙われていたダビデは何度もサウルに復讐するチャンス、王の命を奪うチャンスはありましたが、いつも「主は生きておられる」と主なる神様を畏れ、サウルの命を暴力で奪うことはしませんでした。ダビデは自分の心が怒りや憎しみで満たされることを拒絶し続け、救いと平安を与えてくださる主なる神様に信頼し続けたのです。ダビデは自分の心がサウルに支配されることを拒み、神様に支配されることを求めたのです。聞くだけでは簡単のように聞こえますが、実際には不可能に近いと思えるほど困難なことです。

ダビデは、サウルに対する怒りや憎しみを持って生きるのではなく、恵みの源である神様に信頼して生きることを選び取り、いつも選び取れるように祈り求めながら生きました。彼の心は神様からいただく確信、喜び、感謝、賛美で満たされていました。彼が神様に心を開いて、明け渡して、神様の愛と憐れみ、慈しみを常に求めたから与えられたのです。

わたしたちの心は、いま何で満たされているでしょうか。神様以外の誰かに支配されていないでしょうか。誰かと向き合い、自分の願い通りにならない中で、何か不都合な出来事に直面する中で、怒りや憎しみ、不安や恐れで心は満たされていないでしょうか。あるいは、本当にどうでも良いことや目先のことに、一時的な感情に心が奪われていないでしょうか。そういう心を引きずって生きることは苦しいことです。心が爆発寸前です。しかし、そのようなわたしたちの側に神様が確かにおられるのです。そう感じることができないのは、心が閉じているから、神様の存在を認めないで、差し出されている愛を受け取らないからです。

八方塞がりの状態であったダビデは、怒りや不安で心を満たすよりも、神様の愛で、神様への信頼で満たすこと、その心を神様をほめたたえる賛美で満たすことを選び取りました。その選び取りの力も神様から与えられたものですが、ダビデは神様に心を明け渡し、その心に神様が愛を豊かに注がれ、大いなる喜びで満たします。その満たされた心からダビデは賛美をささげます。2節に「どのような時も、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」とありますが、「どのような時も」とは、嬉しい時や感謝な時、心が平穏な時だけでなく、悲しみや痛み、不安や恐れを抱く苦境に直面する時も、という意味です。

3節には、「わたしの魂は主を賛美する。貧しい人よ、それを聞いて喜び祝え」とありますが、ダビデが心の奥底から賛美する理由の一つに、同じような苦境に立たされている友や仲間、共に戦ってくれる部下や兵士を励ますため、主なる神様は生きておられるという真実を伝えるためであったことが分かります。4節には、「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」とバラバラになっているわたしたちを一つにしようと励ます言葉があります。わたしたちはバラバラのままではダメなのです。独りでは生きてゆけないのです。喜びも悲しみも共に分け合って生きてゆくこと、それが神様の御心なのです。

5節から8節にはいかなる時も神様に信頼して祈ることが大切であることが励まされています。「わたしは主を求め、主は答えてくださった。脅かすものから常に救い出してくださった。主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない。この貧しい人が呼び求める声を主は聞き、苦難から常に救ってくださった。主の使いはその周りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」とあります。ダビデはここで神様のしてくださったことを過去形で記していますが、それは主なる神様を畏れ、神様に従う者をこれからもずっと神様は必ず守り助けてくださるという確信があるので、そのように完成されたように記すのです。

喜びたくても喜べない遠慮の中、泣きたくても泣けない空気の中、叫びたくても自由に声を出せない社会の中で、それができるのがイエス・キリストの御名によって呼び集められた神の家族、神様の愛と赦しが満ちる家、祈りの家ではないでしょうか。神様が与えてくださる教会という神様の愛の囲いの中で共に生き、共に賛美をささげ、共に神様に仕えてゆくことを選び取りませんか。今朝、わたしたちは大いなる喜びで満たされなさいと招かれています。