宣教要旨「シャローム・神の平和」 

宣教要旨「シャローム・神の平和」        大久保教会副牧師 石垣茂夫

平和を覚える礼拝 2018/08/12

聖書:創世記14824 招詞:マタイ24414(中略)応答賛美:292「安かれわが心よ」

 

創世記1章から11章の主要なテーマは、人間の創造と、その人間が罪にまみれて行く姿です。それでも神は、忍耐強く、もう一度、自分と向き合って生きる人間を求めていきます。それが12章以下のアブラハム物語のテーマです。今朝は、ご自身からアブラハムに近付かれたように、わたしたちにも近付いて来られる神をご一緒に覚え、主イエスの父なる神こそ、わたしたちの主であることを知り、共に賛美したいと思います。

今日は、「平和を覚える礼拝」ですが、「戦争を覚える礼拝」でもあるなと思いました。

「アブラハムの戦争」 実はこのアブラハム物語に、聖書では初めて“戦争”という事態が生じています。聡明なアブラハムは、「寄留者」としての振る舞いを怠るような人物ではありません。周囲とは争わないように、誠実に、穏やかに生きていたことでしょう。しかしそうであっても、他人事では済まされない事態に巻き込まれることがありました。それが戦争でした。ある日、自分の親族、特に甥のロトが財産もろとも連れ去られるという事態が起きました(14:12)。その出来事を伝えてきたのが、戦争から逃れてきた一人の男でした。その男は「ヘブライ人・アブラハムのもとに来て知らせた」(14:13)と書いてあります。 この「ヘブライ人」という呼び方は、「よそ者」、「流れ者」と言う意味の、蔑(さげす)んだ呼び名です。そのためユダヤ人は、自分たちを「ヘブライ人」とは言わないそうです。その男は「あなたの甥のロトが、財産もろとも連れ去られた」と伝えてくれたのです。

するとアブラハムは「訓練を受けた奴隷318人を招集しダンまで追跡した」(14:13)。「アブラハムはすべての財産を取り返し、親族のロトとその財産、女たちやそのほかの人々も取り戻した」(14:16)。これが、アブラハムの戦争でした。なんといってもアブラハムは奴隷318人を引き連れて戦い、勝利したのでした。

不思議なことですが、実はわたしたちが手にしている聖書は、創世記から最後の黙示録まで、戦争の記述が続いているのです。この事を知りますと、わたしたちの世界に、戦争はなくならないのかと悲観的になってしまいます。

「何故、戦争が起きるのか」。そのようなことを考えることがあります。ある方は、それはいつの時代にも、国家と国家の間に起きた過去のできごとを、互いに忘れられないからだと言います。また、そのことを、互いに克服できないからだとも言われます。そのように、過去の事を克服するということは、人間の力や知恵では不可能な事なのかもしれません。

今でも、一度戦争が始まると、信仰者として苦しみつつ戦うことをしなくてはならない、そのような兵士がいます。戦士ではないアブラハムの心境も、恐らく戦いたくないという思いでしたでしょう。それでも、わずか318人の奴隷を伴って戦いの場に向かいました。アブラハムに勝てる自信などなかったと思います。周囲の同盟国といえども頼りにならない弱小な国ばかりでした。それでもアブラハムは戦い、勝利して帰ってきました。この事態は何を物語っているのでしょうか。それはアブラハムの勝利ではなく神の勝利であったということです。

「サレムの王メルキゼデクの祝福」 さて、アブラハムは戦争に勝利して戻りますが、出迎えた王の中に、突然のように、今まで全く名前の出て来なかった王が居て出迎え、アブラハムを祝福します。

『14:18 いと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクも、パンとぶどう酒を持って来た。14:20 敵をあなたの手に渡された/いと高き神がたたえられますように。』

「メルキゼデク」。このかたは新約聖書・ヘブライ人への手紙に頻繁に現れる大祭司の名前でもあります。この「神の平和・エルサレム」に住んでいるメルキゼデク王が、パンとぶどう酒を持って出迎えたと言うのです。「主の晩餐式」の準備をして出迎えてくださったのです。少し楽しくなってくる出来事です。

メルキゼデクは戦争に参加していた王ではありませんが、出迎えて祝福し、そしていつの間にか去っていかれました。救い主、イエス・キリストの出現を予め表わしていると言われるメルキゼデク王が早くもここに登場してきました。

ところでメルキゼデク王は、何をしに来たのでしょうか。わたしは、この王はアブラハムに、「戦争は終わった」と告げに来たのだと思いました。わたしたちは悲観的になり、「戦争はなくならない」と思ってしまうことはないでしょうか。「戦争は終わった」と告げる声を待つことなど忘れてしまい、悲観的になっていることはないでしょうか。

アブラハムの指揮官は神であり、勝利者は神でした。何よりもアブラハムがメルキゼデク王を見た時、そのことをはっきりと再確認できたことでしょう。このことは、その後のアブラハムの振る舞いに、明確に表れています。

ふりかえってみますと、アブラハムは、重要な節目(ふしめ)にはいつも礼拝をしていました。この箇所にそうした記述はありませんが、戦線への出発にあたっても、勝利して帰還した時も神への礼拝を忘れたことはなかったことでしょう。メルキゼデクに迎えられたアブラハムは、この時言い知れぬ神の臨在と平安に満たされたと思います。この王が、戦いの日々に、見えないところで私を支え、執り成しの祈りを祈り続けてくださったからこそ勝利したと、感謝の思いに溢れたことでしょう。

 

信仰の父アブラハムでさえ、切実に神の助けを求め、祈って戦ったのです。どうしてわたしたちの日々の歩みに、この礼拝がなくてよいという事があるでしょうか。今朝は、そのような思いに導かれました。

「平和を覚える礼拝」が毎年守られています。過去の過ちを心から悔い改めて祈りましょう。

私たちは「戦争が終わるように」、「神の平和」を与えてくださいと祈り、その祈りを主イエスによって神に届けていだきましょう。