宣教『帰って来たトマス・復活の主イエスへの信仰』 大久保バプテスト教会 副牧師 石垣茂夫 2023/04/16
聖書:ヨハネによる福音書20章19~29節(P210)
招詞:ペトロの手紙一1章8~9節(P428)
「はじめに」
わたしたちは先週の主日に、イースター礼拝を守りました。そして今朝は、主イエスの復活から八日目の朝を迎えています。お読みいただいたヨハネ福音書のトマスの個所は、世界の多くの教会で、主イエス復活後の最初の礼拝、この今朝の礼拝で読まれる個所です。
主の弟子トマスについて、日本の教会では、日本で作られ、古くからよく歌われて来た讃美歌「ああ主のひとみ」(新生486)があります。その歌詞に、「疑うたがい惑まどうトマスにも」という言葉があります。この歌詞に強く影響されて、十二使徒のひとりトマスについては、「疑うたがい惑まどうトマス」という印象をお持ちの方があると思います。
一方でトマスには、インドを目指して伝道したという、勇ましい言い伝えがあります。
これは、インド出身のダニエルさんに確認したのですが、インド南部に、チェンナイ(Chennai)という町があります。少し前まではマドラス(Madras)と呼ばれていたその港町には、使徒トマスの殉教を記念したトーマス・マウント・教会(St.Thomas Mount Church)という、大きな教会があります。
二千年前、十二使徒の一人トマスはインドにまで伝道し、ここで殉教したと言われます。その情熱の証しとして教会が建てられ、現在もその働きが続いているという事でした。
今朝は、そのようなトマスのことを覚えつつ、わたしたち自身の「復活の主イエスへの信仰」を導かれたいと願っています。
「十二弟子の一人トマス」
四つの福音書にはすべて、主イエスの十二弟子の一人である、トマスの名前があります。しかしその福音書の中で、トマスの言葉や行動が記されていますのは、ヨハネ福音書のみです(11:6~,14:5~,20:25,20:28)。
お読みいただいた今朝の聖書の19節から24節には、主イエスの十字架の三日後、復活の朝に、弟子たちがひっそりと、一部屋に身を寄せていたのですが、なぜか「トマスだけがいなかった」と書かれています(20:24)。トマスはどこに行ったのでしょうか。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。
20:24 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
「その日」、「復活の主」は、「あなたがたに平和があるように」と言って現れました(20:21,22,26)。
「その日」とは、「主イエス復活の日」のことです。十字架の死から三日目のことです。
ヨハネ福音書20章によりますと、「復活の主イエス」は、その日二度、弟子たちの前に現れました。
一度目は、先週の礼拝で、河野先生が扱った個所です。
「復活の主イエス」は、最初に、弟子たちと共にいた婦人、マグダラのマリアに現れました。マリアは朝早く、昨日きのうできなかった葬ほうむりの準備を終わらせようと、主イエスが葬られている墓に向かいました。しかしその墓は空であり、遺体はありませんでした(20:1~10)。マリアが戸惑って立ち止まっていると、復活の主イエスが近づいて来て彼女に声をかけてこられました(20:11~18)。これが一度目です。
「その日」、この先に、何が起こるか分からないという不安を抱えた弟子たちは、一つの部屋にひっそりと、鍵をかけて集まっていました。そこに復活の主イエスが「あなたがたに平和があるように」と言って現れ、弟子たちの真ん中にお立ちになりました。この挨拶は、ただの挨拶ではないのです。「あなたがたには、このわたしがいる。わたしが勝ち取った平和がある」という力強い言葉なのです。
あなたがたには「わたしが共にいる。わたしが勝ち取った平和がある」と言われたのです。
そして十字架の傷跡きずあとを御見せになりました。これが、復活の主イエスが現われなさった「その日」の、二度目の出来事です。
「その日」、部屋には、ユダを除く十一人の弟子たちがいるはずでしたが、なぜかトマスだけがいなかったのです。
トマスは仲間から「ディディモ」というニックネームで呼ばれていました。「ディディモ」とは「双子」のことです。確かにトマスは、双子のうちの一人であったかもしれませんが、トマスの性格が、ニックネームになったとも言われています。熱情的な性格のトマス。自分が納得しなくては信じない、疑い深いトマス。そうした、幾つかの性格を併あわせ持つ、個性的な人物であったことで「ディディモ」と呼ばれたとも言われています。
「帰って来たトマス」
トマスは、主イエスが復活し、弟子たちの中にお立ちになった「その日」、どこに行っていたのでしょうか。そしていつ帰って来たのでしょうか。いつの間にか帰ってきて、弟子たちの中に座り、話し込んでいます。
20:25 そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、
トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。
他の弟子たちはトマスに、「わたしたちは主を見た」(20:25)と、繰り返して話しました。
口々に「君がいなかったあのとき、わたしたちは、復活の主イエスにお会いした」と証言しても、「自分で見て触ってみなければ、決して信じない」と、受け入れないのです。
一度姿を隠したトマス、復活の主を信じないと言うトマスですが、心のどこかでトマスは、「復活の主イエスを信じたい」、そのような思いを持っていたのでしょう。いつの間にか、仲間の中に帰って来ていたのです。
弟子たちは、不安と疑いが交じり合った思いで幾日かを過ごし、復活の日から八日経ったときのことです。まさに今日のことですが、彼らが集まっている部屋に、「復活の主イエス」が現れ、お立ちになりました。これで三度目です。今度は、あのときにいなかったトマスも一緒です。
20:26 さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
三度目は、実はまっすぐに、トマスを目指して現われなさったのです。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
トマスは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」と聞きました。
トマスは、復活の主イエスをしっかりと自分の目で見ました。さらに、わき腹に、その傷跡に手を当てなさいといわれました。果たしてトマスは、手を傷口に当てたでしょうか。聖書には『「わたしの主、わたしの神よ」と言った』とだけ書かれています。
「復活の主イエスへの信仰」
ドイツの神学者ボンフェッファーに、『ヨハネ20章の説教』という短い説教があります。この時のトマスについて、そこでこう言っています。
「トマスは、主イエスの復活を信じる思いをもって帰って来ていた。本当は復活の主イエスを信じたいとずっと思っていた。
『その思いを、今ここで逃してはならない』と思った。
この方を信じなければ、これまでの人生は空しくなるのだと知った。
トマスは主イエスを疑ったことを恥じて、『わたしの主、わたしの神よ』と告白した。
トマスは、主イエスの傷跡に手を触れることはなかった。
ただ、主イエスの前にひれ伏し、“わたしの不信仰を助けて下さい”そう言ったにちがいない。」。(説教全集・Ⅲ)
八日の後、この日この時こそ、トマスに「復活の主イエスへの信仰」が生まれた瞬間であったのです。トマスはそれまで、疑い、迷いに迷っていました。けれど、もう、ここで逃してはならないと決断できたのです。
わたしが信仰を得た、以前の教会に、わたしより二歳年下の兄弟がいました。一年前に召されましたが、その兄弟は若い頃から「反社会的勢力」と呼ばれる組織の組員になっていました。当時、彼は30歳くらいであったと思うのですが、ある時、教会の信徒が開業していた外科病院に、交通事故で入院してきました。その病院では、毎週火曜日に伝道集会を行っていました。入院中に何回か、伝道集会に出席しているうちに、次第に信仰に導かれていきました。
これは、晩年になって、直接本人から聞いたことですが、組織の組員になっていたものの、何とかしてそこから抜け出したいと、ずっと苦しんでいたというのです。けがで入院して導かれた信仰の、このチャンスを逃すなら、自分の人生には、次はないと思った。『ここで逃してはならない』と導かれ、洗礼を受ける決心をしたのでした。
退院後、恐る恐るでしたが組織のトップにそのことを話したとき、意外なことに、すぐに許され、組織を抜けることが出来たというのです。自分でも信じられない出来事だったと言っていました。
退院後、間もなくして洗礼を受け、教会員の方と結婚し、家庭を築いていきました。しかしその後の歩みは平坦ではありませんでした。何度も、元の道に戻りかけて行きましたが、牧師をはじめ、教会の皆さんが心を砕いて関わり、支えていきました。
その兄弟の最後の二年間は、重い病の中にありました。コロナ感染の時期となっていましたが、我が家に招いて食事を共にしたりもしました。やがて、「緩和かんわケア」という、末期の患者のための病棟に入りましたので、電話や文通を続けて交流し、励ますことが出来ました。重い病に侵されていましたが、昨年はじめ、平安の内に召されて行きました。
「何とかして、この迷い苦しみから抜け出したいと、ずっと思っていた。入院して導かれたこのチャンスを逃すなら、自分の人生に、次はないと思い、洗礼の決心をした。」。彼のその生き方に、トマスが重なりました。
今朝はトマスを通して、「復活のキリストへの信仰」について思いめぐらしてきました。「復活の信仰」については、人から聞かされ、何度説明されても分からないものだと思います。同じようなことですが、「聖霊について」、或いは「おとめマリアより生まれ」という事についても、何度となく話し合うことがあるのですが、時がたつと、そのときの議論は古びてしまいます。昨日は分かったと思っていたのに、今日はまた分からなくなった、といったことが繰り返して起こるのです。繰り返しますが。27節で主イエスは、こう言っておられます。
20:27 それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
信仰の確信は、一人一人が主イエスに出会い、一人一人が主イエスに導かれることなのであって、説明されたら分かる、という事ではないと思わされています。
復活の主イエスは、あなたに向かって、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」と、今、呼びかけています。
復活の主イエスは、いつも、わたしが疑い迷っているときに現れなさいます。
復活の主イエスは、いつも、ひとり一人を追い求め、疑い迷っている所を目指しておいでになり、その人の前に立たれるのです。
わたしは信じられない、わたしはだめだと思っているところを目指してお出で下さいます。
わたしたちもトマスのように、主イエスとは、思いがけない出会いをしてきました。その出会いを、ただ思いがけないこととして受け流してはならないのです。この出会いは、ここでつかまなくてはならないという瞬間でもあるのです。トマスはその瞬間に手を伸ばしたのです。
この朝、わたしたち一人一人が、復活の主に導かれて信仰を創り出していただきましょう。
そして、「わたしの主、わたしの神よ」と告白する者とされましょう。
【祈り】