常に神を認めて歩みましょう

「常に神を認めて歩みましょう」  元旦礼拝 宣教     2019年1月1日

箴言 3章5〜6節              牧師 河野信一郎

新年、明けましておめでとうございます。2019年の元日の朝を共に過ごし、元旦礼拝をご一緒におささげできる幸いを神様に感謝いたします。

2018年を表す漢字として「災」という漢字が昨年末に選ばれました。台風や地震といった大きな自然災害がひと際多かったことが選ばれた理由となっていますが、今日から始まります2019年は、どのような一年となるのでしょうか。特別な事として、4月30日には今の天皇の退位され、翌日の5月1日に皇太子の天皇即位があります。また、消費税率が10月1日から10%に引き上げられる予定です。それらのことによって私たちの生活も多少なりに変化がともなうことでしょう。私たちにとって2019年がどのような一年になるのか、私たちにははっきりとは分かりません。明日の命もわからない訳で、いま生きている、存在している、生かされているということ、それは確かなことで感謝なことです。私たちが信じていることの真実としてもう一つ確かなことは、神様がおられるということです。そしてこの新しい一年も、神様が、救い主イエス様が、そして神の霊である御聖霊が私たちといつも共に歩んでくださり、私たちを守り導き、そして祝福の上に祝福を与えてくださるという確約が、恵みとして私たちに与えられていることです。その約束がこの地上で実現したのがイエス・キリストのご誕生であり、それを喜び祝うのがクリスマスであります。「あなたと共にいる」と約束してくださる神様が私たちの心に、私たちのそばにいてくださるということは何にも代え難い励まし、慰め、力です。

私たちは、今日から始まりました2019年という365日間を、52週間を、12ヶ月間を、どのように歩んでまいりましょうか。どのように生きましょうか。他の人が引いてくれた線路の上を毎日ひたすら、無我夢中で走り、とにかくこのレールを脱線しないように頑張るだけで、自分にはこれといった計画や願いはないという方もおられるかもしれませんが、それでも、それぞれには意気込みといいましょうか、やりたいこと、願っていること、計画していることがあるのではないかと思います。この一年、平穏無事な一年であってほしいと願っていると思いますが、そのためには私たち一人一人が心に刻まなければならないことがあると聖書は私たちに語ります。

2019年の元旦に私たちに与えられている神様のみ言葉は、先ほど読みました箴言3章の5節と6節で、この部分に今朝はフォーカスしたいのですが、1節から読んで見ましょうか。前のスクリーンには出ませんが、お手元に聖書があれば、旧約聖書の993ページを開いてご一緒に読んでください。箴言の3章には、父である神様が、信仰によって生まれた子どもと見なしてくださる私たちを諭す言葉が記されています。

「わが子よ、わたしの教えを忘れるな。わたしの戒めを心に納めよ。そうすれば、命の年月(としつき)、生涯の日々は増し、平和が与えられるであろう。慈しみとまことがあなたを離れないようにせよ。それらを首に結び、心の中の板に書き記すがよい。そうすれば、神と人の目に好意を得、成功するであろう。心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」7節にも大切なことが記されていますね。「自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」とあります。

今朝、皆さんと特に聞きたいのは、5節と6節です。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」と神様は私たちにエールを送ります。これは私たちに対する神様の強い思いであり、願いでありますが、聞き方によっては「押し付け」、束縛する「命令」に聞こえるかもしれません。しかしながら、そのように実際にするかしないかは、私たちの自由な意思に任せられています。ですから、心を尽くして主なる神様に信頼しなくても良いわけですし、自分の分別、つまり知識だけを頼りに、自分の思い通りに生きても良いわけです。また、いつも神様を覚えて歩まなくても良いわけです。しかしながら、年頭から皆さんを脅かすつもりは毛頭ありませんが、私たちを創られた神様を抜きにして自分勝手に生きると、とっても大変なこと、厄介なことになります。

まず日常的なストレスで心は疲れ果て、人間関係で傷つき、弱り果て、心に平和はありません。そうなると心と体に大きな負担がのしかかりますので、先ほど読みました聖書箇所に沿って言いますと、生涯の日々は苦難や苦労でいっぱいになり、そのために命の年月は短くなります。

聖書は人生のマニュアル・取扱説明書だとも言われますが、聖書には神様に創られた私たち一人一人がなぜ存在し、なんのために生き、何をすべきなのかという目的と使命が記されていて、それぞれに与えられているポテンシャルをフルに発揮できるノウハウが、どのように希望を抱いて平和に生きるのか、またトラブルに巻き込まれたらどのようにそれを回避、あるいは修復するのかが記されています。

自由であること、選べることは本当に素晴らしいことですが、同時に、自由を与えられているという「自覚」と自由に生きる「責任」が伴い、それを忘れると人生は不幸な人生へと暴走してしまいます。

世界の大部分、また日本社会は競争社会です。みんな、他の誰かが作ったルールや基準、物差しや天秤で計られ、勝手に優劣がつけられ、右と左、上と下、勝ち組と負け組などに分けられたりします。そういう社会の中で、人の目が、人の声がどうしても気になります。そのような中で、自分の本当のポテンシャルも知り得ないまま、私たちの多くは、無駄な背比べをし、そのせめぎ合いの中でもがき苦しみ、大切な命を削ります。しかし、そのようなことをするために、無駄な痛みや苦しみを負うために神様は私たちを創られ、生かしてくださっている訳ではありません。神様は、私たちを愛するために、愛の対象として創られました。ですから主なる神様は言われるのです。「わが子よ、心を尽くしてわたしに信頼し、自分の知識や勘に、つまり人間の力に頼らず、常にわたしを覚えてあなたの道を歩け」と。「あなたの歩むべき道は、わたしが教えるから、わたしに信頼し、わたしの言葉に聞き従いなさい」と。「そうすれば、わたしはあなたの人生の道筋をまっすぐにしよう」と約束してくださいます。この約束は、約束のオファーをくださる神様とそのオファーを受ける私たちで成立します。それを受けるか、受けないかも、私たちの自由な意思に任せられています。

さて、「常に主を覚えて」と新共同訳聖書ではそのように訳されていますが、この「覚える」というヘブル語は様々な言葉で訳されています。リビングバイブルでは「神を第一にしなさい」と訳され、12月に発刊されたばかりの聖書協会共同訳では「主を知りなさい」と訳され、アメリカンスタンダード聖書では「サブミット」、つまり「主に服従しなさい」と訳されています。しかし、わたしは口語訳と新改訳聖書で訳されている「認める」という言葉がふさわしいのではないかと導かれました。「覚える」という言葉よりも重みがあり、しかし「第一」とか「服従」という言葉よりも圧力を感じないで、自分の心で選びとってゆくと言いましょうか、自分で決めてゆく自由がある言葉かなぁと感じたからです。

常に神様を認めるということは、どういうことでしょうか。第一に神様の存在を認めるということであり、第二に全ての事柄には神様のご意思、ご計画、目的があるということを認めることではないでしょうか。ですから、わたしたちの日々の生活には「たまたま」とか「偶然」ということはなく、全てが神様のご配慮とお取り計らいの中で進行している、導かれていると認めることではないでしょうか。そのように神様を認めると、他の人や社会が押し付ける価値観や物差しで自分を測ることもなくなり、他の人と自分を比べたりすることもなくなりますので、今まであった肩の力を緩め、もっと気持ちが軽く、もっと自由に生きられ、平安と喜び、感謝する心を持って歩むことができるのではないか、神様の恵みを十分に味わうことができると思います。

神様を常に、日々の生活の中で認めて歩んでゆくということを共に楽しんでみませんか。