平和の挨拶を交わし合う群れ

「平和の挨拶を交わし合う群れ」 八月第二主日礼拝 宣教 2019年8月11日

ローマの信徒への手紙16章1〜16節             牧師 河野信一郎

今朝の礼拝は、「平和を覚える礼拝」です。先週と今週は、「戦争」、あるいは「平和」について思いや考えをめぐらせる方も多くおられると思いますが、ある小学生が2年前に「こうしたら戦争がなくなるんじゃない」という提案をしたということです。「誰かのお誕生日だけは絶対に戦争をしないっていう決まりを作ればいいと思う。そうしたら、毎日誰かのお誕生日だから、戦争はなくなると思います」という提案であったそうです。皆さんは、どのようにお感じになられるでしょうか。本当に素敵な提案だと思います。

戦争は掛け替えのない「命」を奪います。日本も過去にたくさんの掛け替えのない命を奪ったし、掛け替えのない命を奪われてきました。そのことを認め、悔い改め、尊い命を奪い合う戦争をしないということをこの年も再決心し、その約束を果たせるように最大限の努力を惜しまないようにする。でも、まず平和の源である主なる神様に平和の君イエス様のみ名によって祈り、そして主の言葉に聞き従って行くことを今朝も信仰をもって選びとってゆきたいと願います。まずその最初として、神様を愛し、自分を愛するように隣人を愛し、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合ってゆく、この3つの愛に生きてゆくことを心に決めたいと思います。

さて、今朝は、宣教に入る前に、一つ分かち合わせていただきたいと思います。

皆さんのお手元にあります去る8月6日の広島の原爆の日の式典で二人の小学生によって発信された「平和への誓い」の言葉です。この日の朝、わたしはインターネットのライブ発信を見ていて、立派に暗唱する彼らの言葉を聞いて、心が動かされましたので、広島市役所のホームページから引用させていただきました。今朝は、全文を読むことはいたしませんが、下から二段落目の言葉だけを読みたいと思います。

「『ありがとう。』や『ごめんね。』の言葉で認め合い、許し合うこと、寄り添い、助け合うこと、相手を知り、違いを理解しようと努力すること。自分の周りを平和にすることは、私たち子どもにもできることです。」とあります。広島には「おかえり。」と声をかけてくれる地域の人がたくさんいると子どもたちは言ってもいます。「こんにちは。さようなら。おかえり。ただいま。ありがとう。ごめんね。うん、いいよ。」一緒に平和な世界を作ってゆくためには、「声がけ」、「挨拶」、「言葉」が必要であること。しかし、それにもまして、主イエスさまの言葉を神の言葉として日々聴いてゆくこと、言葉通りに生きてゆくことが、わたしたちには必要なのではないでしょうか。「こんにちは。さようなら。おかえり。ただいま。ありがとう。ごめんね。うん、いいよ。」これが最もシンプル、かつ大切で有効な平和の挨拶ではないでしょうか。

さて今朝もローマの信徒への手紙から神様の語りかけを聴いてゆきたいと思いますが、最後の16章を今朝と第四の主日礼拝の中で聴いてゆき、1年4か月にわたる長いシリーズを終えたいと思います。このシリーズでは、わたしたちが礼拝をささげている神様、イエス様はどのようなお方であるのか、そしてイエス・キリストを通して神様に救われた者としてどのように生きてゆくべきか、どのように主の恵みに応えて行くべきかをご一緒に聴いて参りました。この手紙の最後の章はパウロ先生の挨拶の言葉と最後の励ましの言葉が綴られていますが、今朝は16章1節から16節から、2つのことをお話ししたいと思います。

この箇所には、実に26人の個人名と、2家族と3つの「家の教会」が挙げられて、それらにくれぐれもよろしくと伝えて欲しいというパウロ先生の挨拶が記されているのですが、最も驚くべきことは、パウロ先生はローマを訪れたことがなく、以前コリントで福音宣教を共にしたプリスカとアキラ、またフェベやマリアたち以外の、ここで名前を挙げた多くの兄弟姉妹たちのほとんどと実際に会ったことがないということです。しかし、この箇所に記されている重要な言葉で、皆さんと最初に覚えたいことは、2節、3節、8節、そして13節に記されている言葉です。2節「主に結ばれている者らしく彼女を迎え入れ」。3節「キリスト・イエスに結ばれてわたしの協力者となっている」。8節「主に結ばれている愛する〇〇によろしく」。13節「主に結ばれている選ばれた者〇〇」とあります。

ここで重要なのは、「主イエスさまによってわたしたち一人一人は主に結ばれ、またイエスさまを通して互いに結ばれている神の家族の一員である」ということです。罪を犯して、神様から切り離され、苦しみと迷いの連続の生活を送っていたわたしたちを神様は憐れみ、イエスさまをお遣わしくださり、イエス様はわたしたちを神様に再びつなげるために、まずご自分とわたしたちを平和の挨拶でつなげてくださり、わたしたちの罪を帳消しにしてくださるために十字架において命を与えて贖いの死を遂げてくださった。このイエス様の愛の業によってわたしたちは主に結ばれ、神の子とされる恵みに与ることができました。「主に結ばれている」というのは、わたしたちがイエス様を救い主と信じてつながったということよりも、

「イエス・キリストがわたしたちにつながってくださっている」という福音、良き知らせなのです。わたしたちに大切なのは、このように結ばれていることを当たり前のように考えないで、日々の恵みとして喜び、感謝し、この恵みに応えて生きてゆくことです。

皆さんの中に、まだ主イエス様に結ばれていないという方がおられるかもしれません。あるいは、イエス様を信じ、イエス様とはつながっているけれども、神の家族、信仰共同体である教会につながっていないという方もおられるかもしれません。今朝、この機会にぜひイエス様に結ばれて、神の家族の一員となっていただきたいと心から願い、祈ります。

もう一つご一緒に覚えたいことは、ここに挙げられている26人の個人名と、2家族と3つの「家の教会」の人たちに共通することは、それぞれが神様には忠実に、そしてパウロ先生をはじめ他の兄弟姉妹たちに対して誠実に仕える人たちであったということです。

パウロ先生は1節から2節でフェベという一人の姉妹をローマ教会の人々に紹介し、彼女が仕事でそちらに行くから、受け入れて、助けが必要なときは助けて欲しいと依頼しています。このフェベトいう姉妹は、ケンクレアイ教会の奉仕者で、ある訳では「執事」となっていて、パウロ先生をはじめ多くの人たちの援助者であったと記されています。

3節から4節に出て来るプリスカとアキラは、もともとローマに住んでいましたが、皇帝クラウディウスによるクリスチャン追放令によってコリントに避難してきた夫婦で、このコリントでパウロ先生と出会い、その働きを支え、エフェソまで共に福音を伝えた夫婦で、追放令が解かれた後にローマに戻って家の教会を導いていたようです。

6節にあるマリアはローマの教会の兄弟姉妹たちのために苦労しながらも尽くした人であり、7節にあるアンドロニコとユニアスを信仰の先輩であり使徒としての先輩であると言っています。その他にも非常に苦労しながらも、主に精一杯、忠実に仕えていった人々の名前が12節に記されています。

13節に「ルフォスとその母親によろしく」とありますが、イエス様の代わりにカルバリの丘まで十字架を担いだクレネ人シモンの妻と息子であると考えられています。ローマ兵士によって無理やりイエス様の十字架を担がされた人が、十字架につけられたイエス様を救い主と信じ、キリストに結ばれる人となり、その妻と息子たち家族が主イエスに結ばれるようになった。苦しみや痛みの中、どうしてこのようなことが私の身に起こるのか見当がつかないという中にわたしたちが置かれても、神様には大いなるご計画と祝福があるということ、万事を益としてくださる神がおられるということを信じ、委ねて従って行きたいと強く思います。

その他にもたくさんの名前が記され、その一人一人によろしくとの言葉があります。「よろしく」というパウロ先生の言葉の中に、その一人一人の存在を認め、喜び、感謝し、信頼しているパウロ先生の兄弟愛があります。「主イエス・キリストにあってわたしたちは神の家族なんだ、感謝だね、嬉しいね、最高だね!」って言っている、そんなパウロ先生の思いが伝わってきます。

大久保教会は、小さな教会ですが、とっても素敵な人たちが集められている教会だといつも主に感謝しています。その素敵なわたしたちがさらに素敵にされてゆき、神様に喜ばれる礼拝をささげ、実を結ぶ教会とされて行くために必要なのが、もっとお互いの存在を認め合い、喜び合い、感謝し合い、信頼し合って、愛し合って、互いのために祈り合い、支え合い、仕え合うことではないでしょうか。それが「あなたがたは聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい」ということではないかと導かれます。主に結ばれていることを共に喜び、感謝すること、そこからキリストのからだなる教会が力強く建て上げられて行くということを神様はパウロ先生が書き送った言葉から励ましをわたしたちに与えてくださっているのではないかと思わされます。

わたしたちの顔、日頃の疲れや悩みでうつむいていないでしょうか。この夏の暑さ、本当に大変で、教会に来るだけでも一苦労の方もおられると思います。でも、主イエス様がそのようなわたしたちのそばにいつもいてくださり、わたしたちを愛し、守り導いてくださっています。ですから、うつむいた顔を上げて、主イエス様を見上げ、この愛をいつも受け取り、慰められ、励まされ、力づけられて主を賛美し、希望をもって平和の挨拶を交わしましょう。