平和:信仰、忍耐、祈り、そして神の愛

「平和:信仰、忍耐、祈り、そして神の愛」八月第一主日礼拝 宣教 2025年8月3日

 ヤコブの手紙 1章2〜6a節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。暑い日々が続く中、今朝もこのように皆さんと礼拝をおささげすることができて感謝です。去る27日の礼拝は、教会創立60周年記念礼拝としておささげすることができて感謝でした。過去10年間の歩みの中で、共に歩んでくださった方々をお招きし、連盟や連合の方々をお招きしての大々的なイベントにはしませんでしたが、とても和やかな、喜びと感謝、笑顔いっぱいの礼拝と交わりを持つことができたと嬉しく思っています。勿論、この大久保教会で56年間も忠実に主と教会に仕えてくださったKご夫妻とご一緒にお祝いできなかったことは寂しい気持ちにさせられましたが、記念礼拝をオンラインで参加くださったと数日後に娘さんからお聞きして、大変嬉しく思い、主に感謝しました。

 

大久保教会にとって、今年の残された大きなイベントはクリスマスですが、毎週日曜日の礼拝を大切にすることが重要であり、またこの教会からイエス様の福音を発信してゆくことが教会の使命です。神様とイエス様からこの教会がわたしたちに与えられ、使命が託されていることを大切にし、共にこの教会を建て上げてゆきましょう。それが主の御心です。

 

さて、メッセージの前に案内を一つさせていただきたいと思いますが、9月から11月にかけて、エレミヤ書から神様の語りかけを聴くシリーズを開始いたします。昨年はお休みしましたが、これまでもネヘミヤ書、ヨナ書、コヘレトの言葉を12回のシリーズで聴いてきました。エレミヤ書は52章ありますので12回でまとめるのは難しいかもしれません。13回、14回になるかもしれません。しかし、現代を生きる、いえ、現代を生かされているわたしたちにとって重要なことがエレミヤ書には記されていますので、ご一緒に聴いて参りたいと思います。この8月はその準備期間になりますので、お祈りに覚えていただければ幸いです。

 

さて、先月は、「つながる、宿る、とどまる」という意味のある「Abide」という言葉にフォーカスして、イエス様につながり続けることの大切さ、神様の傍に宿り続ける人とはどのような人であるのか、神様の愛にとどまり続けるためには何を大切にしたら良いかを聖書からご一緒に聴きましたが、この8月は「忍耐」という言葉に注目し、その言葉が記されている聖書箇所から神様の御心を探し求めて行きたいと願っています。

 

確かに、日本では、8月は平和を覚える月となっています。戦後80年を迎える節目の夏でもあります。今年1月に広島の原爆ドームと平和記念公園を訪れる機会が与えられましたが、その場所に立たされると、2度と戦争を繰り返してはならないという強い思いにさせられるのですが、マスメディアやS N Sから絶え間なく流れてくるのは戦争の悲惨な現状であったり、戦争の忍び寄る足音が聞こえてくる訳です。分断を煽るようなコンテンツが溢れています。それに過剰に反応し、心が穏やかになれない、そういう社会になっていて、その中にわたしたちも置かれているわけです。平和を心から願いつつも、その心はまったく平安ではない。日々の暮らしの中もそうです。人間関係が非常に複雑化して、対人関係で大きなストレスを抱えながら生きてゆかなければなりません。

 

この前も道を歩いていたら若い男性と50代の男性が本当に些細なことで口論が始まり、若い人が喧嘩を煽る光景を目の当たりにしましたが、お酒の所為なのか、猛暑の所為なのか、フラストレーションが溜まっているからなのか、よく分かりませんが、忍耐できない人、すぐにキレる人、とても攻撃的になっている人が本当に多い世の中です。他者の事などまったく考えない人が増え、対人関係で摩擦が頻繁に起こっています。多くの場合、被害者になることがあります。そのような困難な世の中で、わたしたちはどのように生きてゆくべきでしょうか。苦難・試練の中をどのように生きることが神様の切なる願いでしょうか。

 

そのような中で、平和について考えるのであれば、やはり、まずイエス様を通して神様から与えられている信仰をもって自分自身を見つめ直し、それから世の中を見てゆく必要があると感じます。平和に関するわたしたちの理想と現実に大きな乖離・ギャップ・矛盾・不一致が確かにありますが、まず自分と神様との関係は平和であるかを確かめる必要があります。その関係性があって初めてわたしたちは平和を神様に求めることができるのです。関係性が壊れているのに、平和を求めることなどできるはずはありません。

 

また、平和を神様に求めてゆくためには、神様への信頼、服従、祈り、そして何より忍耐が必要です。平和を実現するのはわたしたち人間の思いや努力ではなく、神様の愛がこの全地を覆い尽くす必要があります。しかし、その実現を忍耐して待つことが人類に果たしてできるのか。それがわたしたち人類の大きな課題であり、直近の問題であると思います。

 

今月は平和月間でありますが、「忍耐」という言葉をキーワードに御言葉に聴いて参ります。「忍耐」の言い換えは、我慢、辛抱、隠忍、根気、不屈などがありますが、神様の御心である「忍耐」とは何であるかを数回に分けて聴いてゆきたいと思います。英語でも、endurance, patience, perseverance, steadfastnessなどが挙げられますが、英語の聖書ではsteadfastnessがよく用いられています。不動、微動だにしないという意味ですが、主なる神様に信頼しているから恐れる必要はない、不安を抱かない、根気よく神の時、救いの時を待つのみということになるのだと思いますが、これが非常に難しいのは皆さんも経験済みで、よくわきまえておられると思います。また、試練や苦難に遭いたくないと思うわけです。

 

しかし、罪に満ちた世界・世の中です。神様に造られ、生かされ、愛されていることを認めない人が多い中では、欲望のぶつかり合いで理不尽なこと、不条理なことが繰り返され、試練や苦難がわたしたちに襲いかかってくる。どうしたら良いのでしょうか。今朝は、ヤコブの手紙に聴いてゆきますが、この手紙は厳しい迫害を受けて住みなれたエルサレムを離れて地中海沿岸地域に逃れて行った人々、苦難にあるクリスチャンたちに書き送られたものです。異国の地で言葉では言い表せない苦労の連続であり、試練の連続であったと思います。

 

けれどもヤコブは、「わたしの兄弟姉妹たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」と最初に書き送ります。「大変な状況に今あっても、主なる神様に信頼し、忍耐して、救いの御業を体験できると主に期待しなさい」と励ますのです。3節では、「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています。」と書き送ります。

 

この「あなたがたは知っています」というのは、迫害を逃れて来た中で辛い試練を何度も通らされて来たということです。そのような中で、神様の憐れみに守られ、前進することができ、忍耐が育まれていったと言うのです。しかし何故そのような成長がわたしたちにも必要なのでしょうか。その答えが4節にあります。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります。」と。神様に信頼し、忍耐する者が、神様の目に完全な者と見なされ、神様のおられる御国へと招かれてゆくからです。

 

ですから、もし信仰、忍耐力、知恵が必要であれば、「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。祈りなさい。そうすれば、与えられます。いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」とヤコブはわたしたちを励ますのです。彼は5節で祈り求めるべきものは「知恵」であると言っていますが、この「知恵」とはどのような力でしょうか。ヤコブの手紙を読み進めてゆく中で示される知恵を分かち合いたいと思います。

 

まず1)神様の御心を正しく理解する力、2)何が主の御前に正しく、何が正しくないのかを識別できる力、3)目の前で起こっている物事の本質を見抜く洞察力、4)愛と祈りと忍耐から出てくる責任の伴った言葉を語る力、そして5)神様の御心を実際に行う力を指していると思います。この「知恵」を神様から受けるためには、「信仰」と「謙遜さ」と「愛」が必要で、それらを与えてくださる主なる神様に常に祈り求めよとヤコブは励ますのです。

 

お手元に聖書があれば、続く7節と8節をご覧ください。世界の中に平和がなかなか実現しないのは、神様を信じず、自分の思い通りに生きようとする傲慢な人が多いからです。神様の愛に生かされ、神様の平安の中に生かされている人が不安定な人々の中で生きるのですから大変でないはずがありません。神様の愛とイエス様の言葉と忍耐が必要なのです。

 

ヤコブは、主イエス様の山上の説教(マタイ5章〜7章)と箴言(1章〜9章)から大きな影響を受けていて、「神と隣人を愛する」というイエス様の教えを大切にしていることが続く2章から5章に色濃く出ています。イエス様の言葉をしっかり聴いて、ただ聴くだけでなく、その教えを実践しなさいと大いに励まします。イエス様を救い主と信じて従ってゆくためにわたしたちが常に心にとどめておくべき12の勧めを最後に紹介して終わりたいと思います。

 

1)2章1〜13節、人を分け隔てせず、心から愛する(マタイ5章46〜48節)、

2)2章14〜26節、本物の信仰は主イエスの言葉に聴き、従う・言葉を行うこと(マタイ7章21〜27節)、

3)3章1〜12節、舌を制して愛を語ることの大切さ(ルカ6章43〜45節)、

4)3章13〜18節、本物の知恵と偽りの知恵を識別する(マタイ5章3〜11節)、

5)4章1〜10節、二心の者から離れ、神に近づく大切さ(マタイ6章24節)、

6)4章11〜12節、人の悪口を言わない(マタイ12章36〜37節)、

7)4章13〜17節、傲慢にならない(マタイ6章28〜34節)、

8)5章1〜6節、富みを持つ危険性(マタイ6章19〜21節)、

9)5章7〜11節、忍耐と希望を持つ(マタイ24章13節)、

10)5章12節、常に真実を語る(マタイ5章37節)、

11)5章13〜18節、とにかく神様に祈る(マタイ21章21〜22)、

12)5章19〜20節、信仰から迷い出た人たちを愛と忍耐を持って連れ戻す(マタイ18章15節)。

 

問題は、わたしたちは一体いつまで耐え忍べば良いのかということです。5章7節と8節に、「兄弟姉妹たちよ。主が来られるときまで忍耐しなさい。農夫は、秋の雨と春の雨が降るまで忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです。あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」とあります。主イエス様の再臨の時まで神様の愛に生かされていることを喜び、困難を忍耐し、いつも祈り、イエス様と歩んでゆくことが神様との平和、そして隣人との平和、社会や世界の平和につながるのです。