御心に適う人たちに与えられる平和

「御心に適う人たちに与えられる平和」 クリスマス礼拝 宣教 2023年12月24日

 ルカによる福音書 2章8〜20節     牧師 河野信一郎

 皆さん、メリークリスマス!クリスマス、おめでとうございます。西暦2023年のイエス・キリストのご降誕を皆さんとご一緒にお祝いできる幸いを神様に感謝いたします。この日を楽しみに、心待ちにしてこられた方々も多いと思います。教会では2週間前に清掃の時間があったのですが、クリスマスを前に、皆さんいつもより心を弾ませながらお掃除に取り組んでおられました。笑顔で掃除されている様子を見て、とても嬉しく感じました。昨夜は妻が今日の祝会のために教会のオーブンでアップルケーキを焼いたのですが、そのシナモンとナツメグとバニラの甘い匂いが一階ホールに充満して、食べたくて気絶しそうになりました。

 今日は、このクリスマス礼拝の後に4年ぶりの祝会があります。久しぶりにみんなで食事をしたり、ゲームをしたりして楽しいひと時を過ごしましょう。それが終わると少し片付けをして、16時からイブ礼拝をささげます。明日も幼稚園、学校、大学、お仕事がある方がほとんどですので、少し早めにイブ礼拝をおささげします。このクリスマス礼拝でもクリスマスキャロルを5曲歌いますが、もし賛美し足りないという方は、ぜひイブ礼拝にも続けてご出席ください。古い讃美歌の歌詞で10曲賛美します。夕方まで教会に残るのは体力的に難しいという方々は、ユーチューブでも配信しますので、オンラインでご出席ください。

 さて、今年のクリスマス、どのようなテーマで神様の愛を分かち合おうかと10月ぐらいから思い巡らしていましたら、今朝の礼拝への招きの言葉として読みましたルカによる福音書1章46節から48節にあるマリアの讃歌の最初の部分が心に飛び込んできました。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉です。特に、主なる神様が「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったから」という、「目を留めてくださった」という言葉にいたく感動いたしました。神様は、わたしたち一人一人に目を留めてくださるのです。何故でしょうか。それは、わたしたちが神様にとって尊い存在だからです。

 皆さんは、ご自分のことを「高価で尊い存在」と思って生きているでしょうか。その反対に、皆さんはご自身を「身分の低い者」、あるいは「はしため」と捉えているでしょうか。たぶん無いと思います。それぞれ、日本や海外で中学・高校までの義務教育を受けられ、それ以上の教育を受けられているのではないかと思います。その教育が終了した後、社会人となって一生懸命に仕事をされたり、家庭を守ってきたり、実直な生活を送られてきたでしょう。また、イエス様に出会い、信仰生活・教会生活を送られてきた中で、謙遜という思いがあっても、自分のことを「身分の低い者」と思ったことはないと思います。

 しかし、これまでの人生の中、様々な試練や困難にも乗り越えて来られたり、色々な差別やハラスメントなどの不当な扱いを受けて来られたかもしれません。人に騙されたり、奴隷かのように利用されたり、裏切られて来たかもしれません。挫折感や敗北感を何度も味わう中で、自分の無力さ・無能さに失望したり、境遇を呪ったり、誰かを羨んだり、妬んだり、憎しみを覚えたり、そして自分に愛想が尽きそうなったかもしれません。

 そういうことを考えている中で迫ってきた言葉は、コリントの信徒への手紙1章26節から29節でした。「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」とあります。

 ここで重要なのは、「だれ一人、神の前で誇ることがないため」ということです。つまり、神という絶対的存在を畏れつつ、いつも謙遜に生きるということです。常に謙って謙遜に生きることがいつも誠実に生きることにつながり、それが人間同士の関係性の向上につながり、平和につながってゆきます。今、世界中を見渡しても平和がないのは、ほとんどの人が神様という存在を畏れずに、自分の必要・欲望を満たすために自分勝手に生きているからです。自分の必要を満たすために、わたしたちは誰かを働かせているのです。

 最近、「社会に必要な仕事をしているエッセンシャルワーカーの給料はなぜ低いのか」というコラムを読む機会がありました。社会的機能が順調に稼働してゆくために働く人たち、医療従事者、介護福祉士や保育士、バスや電車の運転手、郵便物・宅急便の配達員、ごみ収集員、スーパーやコンビニの店員などがエッセンシャルワーカーとされていますが、その人たちがその仕事に見合うだけの評価が得られていない、給料が安く待遇が悪いのは何故なのか、その社会的メカニズムを分かりやすく解説したコラムでした。その内容をここでお話ししますとクリスマスのメッセージにならなくなりますので割愛しますが、そのメカニズムを日本のすべての政治家が理解できると日本社会はもっと暮らしやすくなると感じました。

 いつの時代にも、社会の中で必要な仕事をしているのに、社会からつま弾きにされて小さくされている人たちがいます。いつの時代も、すべての存在が尊重されて行かなければならないのに、社会からその存在が忘れられている人たち、顧みられない人たち、蔑ろにされている人たちがいます。なぜそのような事が起こるのでしょうか。人々の心にお互いを受け入れ合う余裕、ゆとりがないからでしょう。お金を稼いで楽に暮らすことだけ考えているから。

 イエス様がお生まれになられる直前のことです。ベツレヘムに到着したマリアとヨセフは空いている宿を探すことができず、マリアは馬小屋でイエス様を出産しました。聖書には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」とありますが、これは当時の人々に救い主を迎える心の準備がなく、心に余裕がなかったことを暗示している言葉です。では、わたしたちはどうでしょうか。今日、救い主を心に迎える準備があるでしょうか。心に余裕があるでしょうか。お金の事ばかり、自分の幸せの事ばかり考えていないでしょうか。

 さて、ルカ福音書2章8節を読みますと「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」とあります。羊飼いたちは、現代社会でいう最も仕事をしたくない「3K」の労働者、「きつい、汚い、危険」な仕事を負っている人たちでした。飼っていた羊は自分たちのものではなく、お金のある人たちから預かっていたもので、神殿で犠牲をして捧げられる羊の世話をし、野獣から守る危険な仕事でした。つまり、彼らはユダヤ社会の中で重要な仕事を担うエッセンシャルワーカーたちであった訳です。

 しかし、律法を守れない生活環境の中で、宗教的にも汚れた者とされ、住民登録も必要とされないような酷い扱いを受け、社会の中では存在しないかのように無視された人々であったと考えられます。しかし、そのような人々に神様の目は留まり、救い主の誕生を最初に喜び祝う者として顧みられてゆきます。神様は、顧みられない人たちを顧みる神なのです。そのような人々の救いのために救い主はお生まれになられた、それがクリスマス物語なのです。

 9節に「すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた」とあります。闇の中で、彼らには焚き火の灯と月星の光しかなかったでしょうが、その彼らに何の前触れもなく天使が近づき、神様の栄光が彼らの周りを照らします。「主の栄光が周りを照らした」という言葉は、これから神様からの特別な啓示であるということです。心臓が止まるほど驚き、恐怖を覚えたと思いますが、もっと驚いたのは天使が発した言葉です。

 10節から12節にあります。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。この「民全体」という言葉は、厳密に言いますと「イエスを救い主として受け入れる心を持つ人全体」ということになります。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」とあります。昨日ではなく、明日でもなく、あなたがたのために、あなたのために救い主が「今日」お生まれになられたという宣言です。「今日」というのはもう待つ必要はないということです。今日、救い主を信じる時、恐れや不安から解放され、神様から平安と喜びが与えられるのです。

 12節に「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」とあります。乳飲み子が、神様からの救いのしるしだと普通はそう捉えません。しかし羊飼いたちは自分たちしるしが与えられたことを喜びました。何故なら、彼らはしるしを与えられるような扱いを受けていなかったからです。

 13節と14節に「すると突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。『いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。』」とあります。神の御子、救い主の誕生は、天においても、地においても、大きな喜びであり、神様を賛美する以外に喜びを表せないということです。しかし、福音書を記録したルカが本当に伝えたかったことは、「イエスを救い主として受け入れる心を持つ人」に神様の平和があり、救い主を信じる人たちが地上で一人でも多く生まれる度に天では大きな喜びがあるということです。

 さて天使たちが去った後、羊飼いたちがどのような行動をとったでしょうか。15節と16節に「羊飼いたちは、『さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか』と話し合った。そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」とあります。彼らのリアクションは「主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と言って、自分たちで自分たちの救い主を捜し求めたということです。「急いで行って」とあるように、すぐに行動に移したということです。

 彼らはどのように羊の番の係を調整したのでしょうか。仕事を放棄すれば仕事をうしないます。小さな町であっても赤ちゃんをベツレヘム中で探し当てるのも大変であったでしょう。しかし、すべてを賭けても探し出す価値のあるお方、自分たちの救い主であると彼らは感じたのでしょう。リスクを負い、時間をかけ、労苦を重ね、救い主を探し求め、ついに「マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」のです。

 懸命に捜し出して救い主に出会うことができた時の感動と喜びは、さぞかし大きかったでしょう。彼らの次のリアクションは、17節の「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた」ということ、救い主の誕生を人々に知らせたということで、ある訳では「言い広めた」と訳されています。それ程までに救い主に出会えたことは、救い主が乳飲み子であっても、大きな感動であったということが分かります。

 羊飼いたちの言葉を聞いた人々のリアクションが18節に記されていて、「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った」とあります。なぜ不思議に思ったのでしょうか。理由は、救い主誕生の真の意味が分からなかったからしょう。意味や目的が分からないと、わたしたちは真実であっても受け止めることも、信じることも、喜ぶこともできません。ですから、わたしたち教会の使命はその意味と目的を人々に知らせること、言い広めることなのです。

 20節に「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った」ということが記されています。彼らは、幼い救い主に出会うことで神様が自分たちのことを大切に思ってくださっているということをはっきり知ることができ、信仰が与えられ、大きな喜びに満たされ、神を賛美する者とされました。同じ恵みが、今日わたしたち一人一人にも与えられていることを喜び、感謝し、賛美しましょう。メリークリスマス!