御心を行う人に応えられる神

「御心を行う人に応えられる神」 九月第一主日礼拝 宣教 2024年9月4日

 ヨハネによる福音書 9章24〜34節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。2024年も今日から9月に入りました。今朝も皆さんと礼拝を神様におささげできる恵みを主に感謝いたします。先週は、台風10号に翻弄された1週間となってしまいましたが、どのような1週間を過ごされたでしょうか。今回の台風によって甚大な被害を受けた地域と被災された方々を覚えて、憐れみの主に助けを祈り求めましょう。

 

さて、今朝の礼拝には、アメリカ合衆国・ワシントン州T市にあるT第一バプテスト教会から派遣された伝道チームの方々が出席くださっています。大久保教会へようこそ!歓迎いたします。神様が与えてくださった新たな出会いに感謝です。今後も大雨などの影響で皆さんの計画が変更を余儀なくされるかもしれませんが、残された日本滞在期間が実り豊かな時となりますように、神様のお導きとお守り、そして祝福をお祈りいたします。

 

先週もご案内しましたが、9月は教会学校月間です。礼拝前の短い時間ですが、聖書の学びにご参加ください。9月は、創世記37章から50章に記されていますヨセフ物語を聴いてゆきます。イスラエルの救いのために働かれる神様の御心とご計画が記されているとても興味深い物語です。第一回目は先ほど終わりましたが、参加するチャンスはあと4回ありますので、ぜひご参加ください。礼拝でのメッセージは一方通行ですが、教会学校の学びは対話形式です。参加される方々の分かち合いから新たな視点や語りかけを聴くことができます。

 

さて、「御心を探し求めて生きる」というテーマで、ヨハネによる福音書を過去5週にわたって聴いてまいりましたが、今朝のメッセージが最終回になります。今朝は、「御心を行う人に応えられる神」という主題で、9章24節から34節を中心にイエス様の言葉に耳を傾けてまいりたいと願っていますが、「御心」という言葉が31節に出てきます。しかし、今までの学びでは、イエス様の口から「御心」という言葉が出ましたが、今回は、イエス様によって癒やされ、目が見えるようになった男性の口から「御心」という言葉が出たということです。

 

31節をご覧ください。彼は、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります」と言っています。今朝のメッセージのポイントは、「神をあがめ、神の御心を行う人の願いに答えてくださる」ということです。それはとても興味深いことだとわたしは思うのです。

 

その事実、真実を共に聞く前に、二つのことをお伝えします。一つは、今朝のメッセージの主要なポイントは先週聴きましたヨハネ7章に不思議な程までに強く関連しているということです。ですので、先週のメッセージを聞き逃された方は教会ホームページから読んでいただきたいと思います。もう一つは、今朝のメッセージのためには、9章全体を読んだ方が良いと考えます。しかし、礼拝の時間にも限りがありますので、ご自宅に戻られて9章全体をじっくり読んでいただきたいと思います。今朝は、ご一緒に9章全体を見渡して、その中から重要と思える部分をピックアップして、駆け足で聴いてゆきたいと思います。

 

まず1節から3節に、「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」とありますが、ここにイエス様の着目する点とわたしたちが着目する点には、大きな違いが根本的にあることに気付かされます。

 

わたしたちは、多くの場合、「このような苦しみに遭うのは、だれが罪を犯したからですか」といつも人に目を向けて、誰かに苦しみの責任を押し付けようとしますが、それは根本的に間違っています。わたしたちが苦しみに遭う時に目を注ぎ、助けを求めなければならないのは、愛と憐れみに富まれる神様です。イエス様は、わたしたちの間違い、目と心が向かう方向先を正すために、「神の業がこの人に現れるためである」と言われ、「あなたの目を神様に向けなさい」と言われます。

 

わたしは、イエス様がおっしゃる「神の業」とは、神様の御心、御力、ご配慮、ご計画、救いの業、憐れみではないかと思うのです。この神様の救いの御業を体験し、苦しみや不安や恐れから解放され、救われるためにわたしたちに必要なことは何であるのかと考えるのですが、この9章を読んでゆくと、たった一つしかないと強く感じるのです。それは、神様のお言葉どおりに生きるということです。神様のお言葉どおりに生きるとは、イエス・キリストの言葉に忠実に聞き従うということです。自己流にアレンジしないということです。

 

6節と7節を読みたいと思います。「イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、『シロアム―「遣わされた者」という意味―の池に行って洗いなさい』と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た」とあります。生まれつき目の不自由の男性がしたこと、それはイエス様の言葉に何も付け加えたり、省いたりしないで、イエス様に従い、命じられた通りに忠実に行ったということです。

 

彼は、イエス様がご自分の唾と土をこねて作った泥をまぶたに塗られたことなど知りません。どうやって目が見えるようになったのかも分かりません。唯一分かったのは、イエス様の言葉どおりに行ったら見えるようになったという驚くべき事実、救いの業に与ったということだけです。しかし、それが生まれてこのかた彼がずっと願い求めてきたことなのです。

 

不安や恐れや苦難の中にあるわたしたちに必要なのは、神様の愛だけです。神様の憐れみによって罪の苦しみから解放されて、恵みの中に生かされていることを喜んで、感謝して、神様を崇め、神様に賛美をささげ、恵みを分かち合ってゆくこと、イエス様を救い主と告白してゆくこと、それが日々の生活の中でわたしたちがなすべき神様の御心なのです。

 

8節と9節、今まで物乞いをしていた人が見えるようになって帰ってきた時、人々は「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言ったり、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいましたが、本人が「わたしがそうなのです」と告白したことが重要です。彼は、11節で「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」と真実を語ります。

 

14節に、「イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった」とあります。ここでも7章と同様に、ファリサイ派の人々はイエス様が安息日の規律を破ったということにだけ着目して、目くじらを立てるのですが、わたしたちが着目すべき点は、一人の人が安息日に癒やされ、救われたという真実、神様の愛、イエス様の救いの御業、御心です。

 

次にご一緒に着目したいのは、目が見えるようになった人の「心の変化」です。彼は、自分の目を開いて見えるようにしてくださったのはイエスという方であったことは知っていましたが、彼は実際にイエス様を見ていませんので、それ以上のことは分かりません。17節を見ますと、「人々は盲人であった人に再び言った。『目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。』彼は『あの方は預言者です』と言った」とあります。彼は最初、イエス様を預言者の一人だと思ったのです。

 

しかし、両親からは見放され、ファリサイ派の人々からの厳しい追求を受け、自分に視力を与えてくれた人のことを「あの者(イエス)は罪ある人間だ」と口汚く言われる中で、25節では「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言い、神様の憐れみが与えられていることを感謝する中で、32節と33節に飛びますが、「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」と言い表し、イエス様のことを「神のもとから来た方」であるとはっきりと言うのです。

 

この言葉にファリサイ派の人々は激高し、34節、「彼らは、『お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか』と言い返し、彼を外に追い出し」ます。22節に、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」とあり、コミュニティーから追い出されることを恐れた人々は自分の正直な思い・考えを口にできませんでした。追放されることを恐れて、正直な気持ちを胸にしまって、ずっと黙っていなければなりませんでした。わたしたちは、正しいことではない、御心ではないと分かっていても、傷つくことを恐れて、罪の圧力に負ける弱さがあります。

 

しかし、イエス様は違います。35節をご覧ください。「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた」とあります。イエス様は本当に素晴らしい牧師です。イエス様は追いやられたこの人を捜し出して、出会ってゆかれ、言葉をかけていかれるのです。「あなたは人の子を信じるか」と。「あなたは、あなたの救い主を信じるか」と招かれるのです。

 

36節から38節を読みたいと思います。「彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』彼が、『主よ、信じます』と言って、ひざまずいた」とあります。

 

「ひざまづく」とは、真の神の御前でささげる礼拝の真の姿勢です。自分の弱さを認め、神様へ信頼する姿、真にへりくだった者の姿勢です。イエス様を救い主と信じて、イエス様の言葉に服従して生きてゆくという決意、心を表す姿勢です。神様とイエス様を信じて、聖霊の助けを受けて礼拝をささげ、仕えてゆく、それがわたしたちに対する神様の御心です。

 

ファリサイ派の人々は、自分たちのことを「モーセの弟子」と呼びました。自分の努力で律法を、神の言葉を守ってゆくということです。しかし、イエス様は、「わたしの弟子となりなさい。わたしに聞き従いなさい」と招かれます。イエス様に信頼し、イエス様の言葉に聞き従う時に初めて、わたしたちは御言葉によって砕かれ、神様の御心を忠実に行う者と変えられてゆくのです。すべては、神様の愛と憐れみから始まり、恵みの中で与えられます。