「御旨を果たす者の喜び」 九月第四主日礼拝 宣教 2024年9月22日
詩編 103編17〜22節 牧師 河野信一郎
おはようございます。9月第四主日の朝です。今朝もこの礼拝堂に礼拝者として戻され、神様とイエス様に賛美をおささげできる恵みを主に感謝いたします。
今日は「秋分の日」ということですが、暑さがまだ治まらないですね。秋らしい日々が来ることを待ち望んでいますが、能登半島の被災地を含む石川県に大雨が降り注いで洪水が起こっていることをニュースで聞いて心が痛みます。元旦の大地震から今日で265日目です。震災から8ヶ月21日経過しても手付かずの場所もあるとのことです。今週27日の夜に、ウエスリアン・ホーリネス教団の淀橋教会で復興支援チャリティーコンサートがあり、GMさんも出演して現地リポートをされますので、お時間のある方は、ぜひご参加ください。
もう一つお祈りのリクエストですが、新大久保駅近くにありますTJ教会、日本語で「地球村教会」と呼ぶそうですが、来る29日の主日の午後に、その教会の青年たちと一緒にこの礼拝堂で賛美礼拝をささげ、その後に交流会を一階ホールで持つ計画です。先週の日曜日に、初めて青年たちの礼拝に出席しましたが、元気に賛美をささげ、御言葉に真剣に耳を傾ける青年たちでいっぱいでした。礼拝後には10の小グループに分かれて、礼拝の中で語られたメッセージを各自がどのように受け止め、どのように実践するように導かれたかを分かち合います。
わたしは、日本語を話す4人のグループに参加しましたが、とても良い分かち合いがされました。その中の一人がとても良い証しをされましたので、近いうちに大久保教会の朝の礼拝で証しをしてもらえるように、只今H牧師と交渉中です。彼が証ししてくれることが実現することを主に期待しています。29日の賛美礼拝では、わたしがメッセージを担当します。テーマは決まっており、準備を進めていますが、とにかく初めての企画ですので、賛美礼拝が良き出会いと交わりになるように、祝福を主にお祈りください。
さて、今朝は詩編103編から「御旨を果たす者の喜び」と題して、わたしたちの真の喜びとは何か、神様はわたしたちに何を望んでおられるのかということをご一緒に聴いて行きたいと願っています。英語では、神様の御心を「Will」という一つの言葉で表しますが、日本語では、御心、御旨、願いというように、たくさんの言葉を用いますので、日本語を習得されている方々には大変であると思いますが、御心とは神様がわたしたち一人ひとりに求めておられることです。神様は、わたしたちに日々どのように生きてほしいのでしょうか。
6月から9月まで、「神様の御心を求めて生きる」というテーマで、新約聖書と旧約聖書の色々な箇所から神様の御心を尋ね求めて来ましたが、究極的には、神の御子イエス・キリストを通してでなければ、神様の御心を知ることはできないということを聴いてきました。そして、イエス様の言葉に忠実に聞き従っていく中で、わたしたちは初めて御心を行うことができるという真実を学ぶことができてきたと思いますが、どうでしょうか。神様が皆さん一人ひとりの上に持っておられる御心を理解できるようになられたでしょうか。
ローマの信徒への手紙10章17節に、「実に、信仰は聞くことにより、しかし、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」とありますように、イエス様の言葉に聞き続ける中で、わたしたちは神様の御心、神様の願いを知ることができるようになり、御心のままに生きることができるようになります。一瞬にして御心が分かるのではなく、日々イエス様の言葉に聞き従う中で、徐々に変えられてゆく中で分かるようになるということです。
神様を信じることを、何か神の命令だけに従うロボットのように捉えてしまい、人生を無駄に過ごしてしまうようなナンセンスで、もったいないことだと感じ、自分の思い通り、願い通りに生きることが最も幸せな人生だと思われる方も確かにおられます。しかし、そのような道は、いつか終わりを迎える虚しい道です。人生を振り返る中で、悔いしか残らない歩みになると思います。しかし、イエス様の言葉に聴き従って歩む道は、神様からいただく永遠の祝福、永遠の命につながる喜びの道です。賛美に満ち溢れた歩みだと言えるでしょう。
それでは具体的に、どのように生きることが神様の御心なのでしょうか。それは詩編103編の1節と22節にある「わたしの魂よ、主をたたえよ」ということです。このように一つの言葉で詩全体を囲むことを「インクルージオ」と呼びますが、この詩編103編は、主なる神様をたたえながら日々生きることが、わたしたちに求めておられる神様の御心であると教え、またなぜ主なる神様をほめたたえるのかという理由、動機づけを与えてくれます。
今朝は、17節から22節に集中しますが、なぜ神様をほめたたえるのかという理由として、17節に、「主の慈しみは世々とこしえに、主を畏れる人の上にあり、恵みの御業は子らの子らにある」とあります。神様の慈しみ、その恵みは、神様を畏れる人たちとその子らにあるから、神様を主とほめたたえると詩人は詠うのです。神様を畏れない人とは、神様の存在を認めない人であり、自分が自分の人生の主人・主人公と捉えている人たちです。
さて、「主なる神様を畏れる」とは実際にどのようなことかを探してゆきたいと思いますが、18節に、主を畏れる人とは「主の契約を守る人」、「神様のご命令を心に留めて行う人」だと記されています。「主の契約を守る人」とは、神様と交わした約束を全力で守り、果たす人です。それでは神様と交わした約束・契約とは何かということですが、神様はわたしたちを永遠の祝福へと守り導いてくださり、わたしたちは神様に信頼し、神の御心を忠実に行い、絶えず誠実に日々歩むということです。わたしたち人間の側から言いますと、神様に愛されていることをいつも喜び、喜びと感謝をもって神様を愛すること、それが「魂を込めて主をたたえる」ということであると聞こえてきます。ただ神様の愛、慈しみを感謝して受け取り続けて生きること、それが神様をたたえる賛美、そして証し、告白になるのです。
「主なる神を畏れる」とは、19節ですが、神様にはすべてを治める主権(sovereignty)があって、わたしたちは神様の主権の中で、御手の中で生かされていることを喜び、憐れみ深く、恵みに富まれる神様の統治に信頼することです。神様は、わたしたちの命の主権者なのです。わたしたちではありません。8節に、「主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい」とあるとおりです。この神様に感謝することが「畏れる」ということではないでしょうか。神様を畏れずに、自分たちの主権を常に求めるので、戦争が終わらないのです。
さて、20節に、「主の語られる声に聞き、御言葉を成し遂げるものよ、主をたたえよ」とあります。これは、先ほどもお話ししました、救い主イエス・キリストの語られる御声に聞き、御言葉どおりに生きることが、主なる神様とイエス様をほめたたえることに直結すると教えているように聴こえてきますが、皆さんはどのように聴こえてきますでしょうか。主イエス様の言葉に聞き従い、御言葉どおりに生きる時に、新たな力が日毎に与えられ、「力ある勇士」とされ、愛と慈しみに富んだ力ある僕として、神様とイエス様に仕え、わたしたちの周りに置かれている人々に仕える者とされてゆき、用いられてゆくのです。
21節に、「主の万軍よ、主をたたえよ 御もとに仕え、御旨を果たすものよ」とあります。ここで大切なのは、主をほめたたえ、神様の御許で仕え、御旨を果たすことは一人の業ではなく、「主の万軍の業」、つまり今日でいう「教会の業」であると言うことです。一人で主をほめたたえることも大切ですが、神様の御心は、わたしたちが今朝のように礼拝堂に集まって、あるいは家庭に集まって、一緒に賛美と礼拝をおささげし、教会の業として主イエス様を救い主と共に告白してゆくこと、それがキリストの教会に対する神様の御旨、願いです。
しかし、やはり、神様からわたしたち一人ひとりに与えられた信仰と聖霊の力が合わさって結ぶ御霊の実、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制も重要だと信じます。わたしたち一人ひとりが、神様との親しい関係性が、深くて強いつながりがなければ、キリストのからだである教会も建て上げられることはありません。
ですので、2節から5節に記されていることをいつも心に覚え、主に感謝をささげ、主をほめたたえましょう。「主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。主はあなたの罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる。あなたに慈しみと憐れみの冠を授け、長らえる限り良いものに満ち足らせ 鷲のような若さを新たにしてくださる。」
22節に、「主に造られたものはすべて、主をたたえよ。主の統治されるところの、どこにあっても。」との励ましがあります。神様の御手の術によって造られ、命与えられ、罪赦され、主の御手の中で、主の恵みの中で日々生かされているわたしたちのなすべきこと、それは「主をたたえながら生きる」ということです。この新しい週も、「わたしの魂よ、主をたたえよ。聖なる御名をたたえよ」、という言葉に励まされて歩ませていただきましょう。