復活の主に導かれて

「復活の主に導かれて」4月第三主日礼拝 宣教要旨  2016/04/17

ヨハネによる福音書21章1~14節   副牧師 石垣茂夫

イースター礼拝の朝、いつものように教会学校・成人科があり、数人の方で、この箇所を読み、それぞれ印象に残っていることなどを、分かち合った。今日の箇所の、初めと終わりをつなげると、このように読むことが出来る。「イエスは、また、弟子たちに姿を現わされた(1節))、これでもう三度目である(14節)」。皆さんがこう感じていた。『既に復活のキリストに出合っているのに、なぜか弟子たちはガリラヤ湖に来ている。主イエスが死んでしまったので、弟子たちは宣教をしていく元気をなくしてしまった。復活が信じられず、「もう故郷に帰って、元の漁師の生活に戻り、生計をたてなおそう」と思ったのではないか』。確かに、弟子たちは、何度も復活の主に出会っており、福音宣教に立つようにと命じられてもいた(20:21)。それなのに、なぜガリラヤへ帰ってしまったのか。復活された主イエスは、十字架の死の後、復活され、40日にわたって弟子たちの間に現れた(使徒1:3)。この40日の中に、ルカ24章の「エマオの途上」と、ヨハネ福音書の「ガリラや湖畔に現れた主イエス」がある。特にこの二つの記事から、共通する興味深いことを見出せる。一つは常に、主イエスの方から弟子たちに近付いて行かれること。次にいつも、すぐには主イエスだと気付かないこと、もう一つは必ず食事の場面があることである。それに「もう一つの不思議に思うこと」がある。復活の主と弟子たちの出会いの記事、「エマオへの途上」(ルカ)の二人の様子から、三年もの間、一緒に活動し,暮していた尊敬する人のことを、たった3日間、会わなかっただけで、忘れてしまうものなのだろうか、そして11キロも共に語り合って歩いたのになぜ分からなかったのか、という疑問である。

この事から考えさせられることは、「復活の主イエス」は、出会いの度に、違った姿をされていたのだと思われる。復活の主イエスは、一回見れば、次もそれと分かる形でお会いできるわけではない。まして復活の主イエスは、自分の頭で分かったり、学んで認識できるようなお方ではない。わたしたちには、「繰り返して、新しく、復活の主ご自身が近付いてくださる」、そのような恵みをいただきながら歩んでいる者なのだと、教えられる思いがした。

10日ほど前に、4日間九州の長崎に旅行をしてきた。500年前日本で最初にキリスト教が広まったところです。人々の間に信仰が驚くほどの速さで広まったために、危機感を持った権力者によって厳しい弾圧が始まり、キリシタンと呼ばれる多くのキリスト教徒が命を失った。殉教していった人たちのことで伝えられるところでは、自分が死を迎えるその時、皆、平安に満たされ笑顔であったという。歳の行かない少年まで「僕の十字架はどれですか」と尋ね、十字架の前に進んで行ったという。なぜそうできるのかと、ずっとそのことを問いながら旅をしていた。一つ導かれたことは、「共に礼拝をしていく中でキリシタンたちの信仰は育てられていった」ということであった。礼拝を続けることで「身体に染み込んだ信仰を持つことが出来た」と、わたしは感じた。キリストの弟子たちのように、疑いながら迷いながら、時には裏切ってしまうこがあっても、許されて従うときに、確かなものが身についていったとしか考えられなかった。キリスト教信仰を捨てなかったために、死罪になった人がたくさんいたが、信仰を捨てたり、隠して生き延びた人たちはもっと多かったと思われる。そのようにして250年耐えていったとき、信仰が復活していく時が巡ってきた。その時々に知恵を与えられ礼拝していった人々がいた。そのような事実を、長崎の町のあちらこちらで確かめることができた。