「復活の主イエスを信じ続ける」3.11を覚える礼拝・三月第二主日宣教 2022年3月13日
コリントの信徒への手紙Ⅰ 15章12〜22,32b〜34節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。冒頭でもご案内しましたように、今朝の礼拝は、「3.11を覚える礼拝」としておささげし、11年前の東日本大震災で大切な家族やコミュニティを失われた人々の痛み、苦しみ、悲しみを覚え、また岩手、宮城、福島の3県に建てられている諸教会を覚えて祈ります。具体的なことは礼拝第二部で分かち合う予定ですが、第一部に出席される皆さんにも是非聞いて知っていただきたいことですので、宣教への導入としてお聞きいただければ幸いです。
先週金曜日は、東日本大震災から丸11年が過ぎた特別な日でありました。例年ならば、3月11日に最も近い主の日の朝の礼拝を「3.11を覚える礼拝」としておささげし、東北の被災地に建てられている諸教会を覚えて祈り、支援の献金をおささげしていますが、まん延防止が延長になりましたので、致し方なく記念日直後の主日である今朝の礼拝を「3.11を覚える礼拝」とすることになりました。しかしすべては神様のご配慮の中にあり、御手の中で進められていることですので、主に信頼して、主の憐れみと助けを祈り求めてゆきたいと思います。
さて、去る11日は、2時46分にこの礼拝堂で独りお祈りをささげ、夜にはホーリネス淀橋教会で開かれた復興支援超教派一致祈祷会に出席しました。仙台・石巻周辺で福音を通して被災された方々の心の復興活動をされているAGN教会のK牧師から現地特別レポートをお聞きし、40名近い出席者と一緒に祈りをささげました。「超教派」というだけあって、ホーリネス、日キ、インマヌエル教団、救世軍、その他諸々の教団教派の方々が一同に集いましたが、バプテスト連盟からはわたし一人であったと思います。
K先生は、11年前の震災直後から石巻の牡鹿半島の北側にある複数の漁村の復興支援、被災された方々に寄り添い続けておられる教会の牧師さんで、これまでの被災者の方々との出会いやご自身の大病を通して神様から受けた大きな恵みをたくさん分かち合ってくださいましたが、震災から11歳も年を重ねられた高齢者の方々のために教会がやるべきことはまだたくさんある、首都圏からの祈りとサポートが必要であるということを訴えておられました。
そのような現地レポートを聞いている中で、私は11年前の震災直後に炊き出しボランティアに行ったことを思い返しました。連盟は牡鹿半島の南側の荻浜と給分浜という津波で倒壊した漁村の支援を続け、私はその避難所の炊き出しに2度参加しました。午前12時過ぎに浦和教会に炊き出しボランティア1名とドライバー2名が集合、浦和教会の方々が準備くださった料理が入った寸胴鍋や色々な食材をバンに詰めるだけ詰め込み、お祈りをして1時過ぎに浦和を出発、真っ暗な闇を突き進むかのように東北自動車道をひたすら北上、11時には現地に到着していなければなりませんでしたが、石巻市内に入ったら大渋滞、避難場所とされていた小学校到着が12時過ぎになってしまい、大変申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
仙台周辺のバプテスト教会からのボランティアの方々と一緒に昼食の炊き出しをし、その後の私ともう一人のドライバーは体育館の裏の地べたに寝っ転がり仮眠をとり、それから夕食の炊き出しをして、一通りの片付けが終わって、さあバンに乗り込む時、見送ってくださったご年配のお母さんたちが「ありがとうね。わたしたちのことを忘れんでね」と言って手を振ってくださいました。その後にもう一度炊き出しでうかがった時に、「また来てくれたんね」と笑顔で迎えてくださった方々、お名前も知らないあの方々は今もお元気かなぁと思います。
震災後の神様の不思議な導きと出会いの中で、わたしたちは岩手のM教会、宮城のO教会、福島のK教会を覚えて祈るようになりました。甚大な被害を受けた東北3県には8つの連盟のバプテスト教会がありますが、そのうち牧師が交代したのは7教会です。わたしたちが覚えている3つの教会も例外ではなく、被災時の牧師がお辞めになるか、天に召されるかで牧師が代わった教会です。財政的にも厳しい状態が続いている諸教会です。そのような諸教会を覚え続け、祈りと献金の支援を続けてゆく必要がまだまだあるのです。
何故ならば、この11年の間、がれきが撤去され、頑丈そうな大防波堤が沿岸に設置され、インフラが整えられているように見えても、人々の心の復興はまだまだ途上にあり、もっともっと時間がかかるからです。孤独な方々がおられ、絶望して自らの命を取られる人もおられます。福島県の浜通りの方々、未だに収束のない原発事故によって故郷を追われた方々がまだたくさんおられ、大地は今も大きな苦しみを背負わされ、風評被害に苦しみもがいておられます。何より風化が進み、忘れ去られようとしています。
そういう大きな痛みと苦しみと悲しみを背負わされた方々を覚え続けること、祈り続けること、支え続けることがわたしたち首都圏に生きる者たちの責任であり、大きな痛みの小さな一片を担う義務ではないでしょうか。国や県の行政や誰かではなく、自分にできることを神様に祈り求めてみましょう。
さて、今朝は「復活の主イエスを信じ続ける」という主題でコリントの信徒への第一の手紙15章12節から22節を中心に宣教をさせていただきたいと思いますが、気持ちにゆとりがない所為でしょうか、去年のイースター礼拝の時にも今日と同じ箇所をマタイによる福音書28章のイエス様のご復活の記事とカップリングして宣教していたことをすっかり忘れていました。重なる部分があって、「あれっ、以前聞いたような」とお感じなられるかもしれませんが、違った角度から神様の愛を分かち合わせていただき、励ましを共に受けたいと願っています。
さて、宣教の原稿を書き進めてゆく中でパソコンに「せんきょう」と打ち込みますと、教えを宣べ伝えるの「宣教」ではなく、戦いの様子を意味する「戦況」という漢字が出てきてしまいます。この戦いの様子を伝える「戦況」という文字がパソコン画面に出る度に、厳しい戦いが続くウクライナの人々のことを思わされ、テレビで観た幼い子どもたちやその母親たち、高齢の女性たちが泣き叫ぶシーンや、助けを求める姿が思い出され、心が締め付けられて息ができなくなります。氷点下の中の国外脱出、ミサイルがどこからともなく次々に飛んできて愛する町が破壊され、ウクライナの美しい町並みや大地が破壊されてゆく無残で残酷な音を聞きながら逃げ惑うのは、さぞかし困難で絶望的と思えることであろうと思います。
一方的に仕掛けられた戦争が1日も早く停戦するように、ウクライナに平和が1日も早く訪れ、復興が始められるように、わたしたちは懸命に憐れみの神様に祈らなければなりませんが、1970年ほど前のギリシャのコリント教会内でも神学的論争と言いましょうか、厳しい信仰の戦いがあり、教会は大きく揺さぶられ、信徒たちは教会の分裂の危機に直面していました。その危機の原因がコリントの第一の手紙の15章12節にあります。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか!」という使徒パウロの叫びが記されています。
つまり、コリントの教会の中に、キリストのからだなる教会の中に、「死者の復活など決してない」と復活を信じない人たちが実際にいたということです。そのような人々に惑わされている人たちが実際にいたのです。これは教会の大きな柱を、教会の根幹を揺るがす大問題です。何故ならば、復活を否定するということは、まことに復活されたイエス様を否定することであり、イエス様を甦らせられた神様の御業を否定することであり、人類に対する神様の深い愛・憐れみを否定することになるからです。つまり、神様を否定することになるのです。
パウロは13節と14節で、「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」と言います。つまり、キリストの復活が真実でないならば、パウロをはじめ、使徒たちがずっと宣べ伝えてきたイエス・キリストの福音はぜんぶ嘘となり、主の復活を信じて歩んできたすべてのクリスチャンは皆、無駄で、虚しい日々を送ってきたことになります。
15節には、キリストの復活がなかったら、「わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死人が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです」とあります。つまり、もし主イエス様の復活がなかったのであれば、これまでのすべてのクリスチャンは、わたしたちは、教会は人々を惑わす詐欺師の団体と呼ばれ、訴えられても仕方ない存在になってしまうのです。
17節には、もっと悲惨なことが書かれています。すなわち、「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。つまり、わたしたちすべての人間の罪はいっさい贖われておらず、赦されておらず、今も罪の中にあるということになり、救われていないということになります。もしそうだとすると、「キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまった」ということになると18節にあります。
もうこの時点で耳を塞ぎたくなるのですが、使徒パウロは追い討ちをかけるように19節で「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者」となると言います。もしキリストの復活がなければ、みんな滅びゆく惨めな人生を送っていることになり、すべてが儚く、虚しく、惨めだ、絶望的だというのです。これは神様の御心の真逆の状態です。イエス・キリストが地上に来られた意味がなくなることです。
しかし、真実はそうではありません。この地上に救い主として遣わされた神の御子イエス・キリストは、わたしたち人間の罪、すべての人の罪を贖うために十字架に死んでくださいました。そして十字架の死の最後まで従順であったイエス様を神様が愛の御力をもって甦らせたのです。
20節から22節を読みます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」とあり、ここに「実際」とあります。つまり、イエス様の復活は、疑いのない真実であるということをパウロは宣言しているのです。
なぜ復活が真実であり、復活を信じる信仰が大切なのでしょうか。なぜ信じるのでしょうか。主イエス様の復活を信じない人は、復活の意味と目的を知らないので、復活を自分の事柄として、自分にとって重要なことと捉えることができないので、信じられないのです。
では、復活を信じることがなぜ重要なのでしょうか。その理由は、イエス様の十字架の贖いの死によってわたしたち人間の罪は完全に帳消しにされ、イエス様を信じることによって罪赦されますが、イエス様の十字架を信じるだけで、その先がないからです。
罪から解放され、罪の代価である死からも解放され、せっかく自由にされたのに、復活を信じないので、新しい命に生きることができずに、何をして生きてゆけば良いのか、どこに向かって歩んでいけば良いのか、何のために生きてゆけば良いのか分からない、実にモヤモヤした気持ち、虚しさを感じながら生きることになるからです。もう少し簡単にお話しできればと思います。
主イエス様の復活を信じると信じる人も死んでも復活します。復活するというのは、新しい命に生きるということです。神様がイエス様を通して新しい命、新しい目的、新しい生きがい、その新しい命を生きる力を与えてくださり、その命は永遠に続く命なのです。イエス様の十字架によって罪が取り除かれた者が復活によって新しい命が与えられ、その命は永遠に続く。それがイエス・キリストの福音なのです。復活のイエス様こそが新しい命の源、原点なのです。
パウロはローマ書4章25節で、「わたしたちの救いは、キリストの死と復活によって完成される」と言っています。ですので、イエス様の十字架の贖いは信じても、イエス様の復活は信じないということになりますと、新しい命に生きる恵みを受け取れないのです。
主イエス様の復活は、わたしたちの希望であり、生きる力なのです。29節に「バプテスマ」のことが取り上げられていますが、水に沈められることは罪を認め、イエス様と共に十字架に死ぬことを意味し、水の中から引き上げられるのは、イエス様と共に新しい命に生かされること、神様の愛と恵みを受けて生きることを意味しています。
信仰生活、教会生活を送る中で、わたしたちは様々なチャレンジを受けます。神様の愛から引き離そうとする力・サタンは容赦なくわたしたちの中に入り込み、人を使って論争を引き起こしたり、混乱や分断を生じさせたり、人に躓かせたりしようとします。しかし、人を見てはいけないのです。躓き、痛むだけです。
パウロは32節の後半から、「もし、死者の復活がないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります。しかし思い違いをしてはいけません。『悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする』のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるから」と注意喚起をしてくれています。
わたしたちに大切なのは、復活の主イエス様だけを信じ続け、従い続けること、主の復活を信じる人たちと共に生きて、祈り合い、励まし合ってゆくということです。