宣教要旨「復活の命に生かされて」 大久保教会副牧師 石垣茂夫201904/28
聖書:ルカによる福音書24章21~35節 招詞:マタイによる福音書18章19~20節
聖歌隊によって「主よ、ともに宿りませ」“Abide with Me”という題名の賛美が捧げられました。この讃美歌は「エマオ途上」の出来事に由来し、明治時代、今から130年ほど前に翻訳され、長く歌われてきました。新生讃美歌478番にも掲載されています。
作詞者ヘンリー・フランシス・ライト1847年とあります。ライトはイギリス国教会の司祭をしていましたが、病弱であり長く一線を退いていました。死期が近いことを悟ったとき、彼は告別説教をし、その夜にこの詩を作りました。「主よ、ともに宿りませ」(24:29) と繰り返す言葉が印象的な、人生の夕暮れを歌った詞です。死への不安や恐れの中に置かれていても、主イエスの死への勝利、主イエスの復活への信仰を歌いあげています。
日暮(ひく)れて 四方(よも)は暗(くら)く わが魂(たま)は いと寂(さび)し
寄(よ)る辺(べ)なき 身(み)の頼(たよ)る 主(しゅ)よ、共(とも)に宿(やど)りませ
『夕暮れになり、辺りは薄暗くなってきています。主イエスよ、私にはあなたしかおられません。主イエスよ、わたしと一緒にいて下さい』と歌っています。
先週、イースター礼拝を皆さんで守りましたが、わたしたちもこの朝、復活の主イエスにお会いできるよう、今日の御言葉から、ご一緒に導かれたいと願っています。
「エマオのできごと」
主イエスの弟子であった二人の弟子が、すっかり気落ちしてエマオへの道を歩いています。すると一人の旅人が近づいて来て一緒に歩き始めました。二人は自分たちが話していたことを、その旅人に伝えたのです。
『イエスと呼ばれたその方は十字架に架けられて死に、最早この世の人ではなくなってしまった。イエスという、あのお方に期待していたが、希望は砕かれてしまった。
あのイエスこそ救い主ではないかと抱いていた信仰も敗れ去ってしまった』二人の弟子は、旅の途中で出会った方が主イエスとは分からず、落胆してそのように語ったのでした。
すると不思議なことに、その旅人は、聖書に書かれていることを説明し始めたのです。思いもよらなかった長い時間を一緒にすごしていると、目的のエマオにきてしまった。そこで二人は旅人にこう呼び掛けました。
28節『まわりはもう、夕暮れになっています。今夜は一緒に泊って行かれませんか。』
その様に言葉をかけますと、主イエスは弟子たちの求めに応じて彼らの宿に入られた。
30節『一緒に食卓に着いた時、旅人はパンを手に取り、祝福してこれを裂いた。そしてパンを彼らに渡していると、彼らの目が開け、それがイエスだと分かった。』
パンを裂くその仕草は、これまでも、しばしば弟子たちのためになさった主イエスの仕草だったからでしょう。愚かで鈍い者たちと言われた弟子たちでしたが、このときばかりは、二人の弟子の目に、「この旅人は主イエスだ」とはっきりと分かりました。彼らの眠っている魂の目が開かれ、復活の主を認めることが出来たのです。
「すると、み姿が見えなくなった」(31b)
“なぜ見えなくなったのでしょうか” 復活の主イエスにとって、二人が『生きておられるわたしを認める』なら、それで十分だったからでしょう。そしてその瞬間から、二人は、大きな慰めと喜びとに満たされたのでした。「イエスは生きておられる」それで十分でした。
「復活のイエスと教会の基礎」
四つの福音書とパウロ書簡に記されています主イエスの復活物語を並べて読んでみまして気付くことがあります。聖書では、「復活の主イエス」は、信徒である弟子たちに限ってあらわれているということです。
それは、一般の人と言いますか、信仰を持っていない人、あるいは、信仰を求めていない人に「復活の主イエス」が現れることはないということになります。
しかも二人、あるいは三人、それ以上の人々の集まりに現れるのです。復活の主と出会いは、弟子たちが二人、三人、それ以上の集まりとなって共に祈り、共に交わりを持っている場所に最もしばしば現れたのです。主イエスの復活とは、そのような、信仰的な集団としての体験なのです。
招詞のマタイ18章20節の言葉を選ばせて頂きました。
『ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる。』
「その中にいる」とは、『弟子たちの間に、その交わりの中にいる』という意味です。
つまり、二人、三人またはそれ以上の人がイエスの名によって集まり、心を合わせている所には、イエスご自身もそこにお出でになるという事です。
主イエスの復活は、今なお、教会の中で繰り返される、わたしたちの信仰の体験です。
そのため、「エマオ途上」の出来事に、教会の原型があると云われています。終りに、そのことを確認してみましょう。
第一に二人または三人、またはそれ以上の人たちが、主に名によって集まり、神を崇め、祈りに心を合わせるとき、生けるキリストはそこに親しく臨んでくださいます。
第二の事。『 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った(24:32)。』聖書を開き、聖書に聞く礼拝とその説教で、そして
教会の交わりの中に、主イエスは現れ、悲しみを慰め、新しい希望と力とをお与えになります。第三に、「パンを裂く」という主イエスの姿に「主の晩餐式」の原型を見ることが出来ます。わたしたちの礼拝と交わりが、この三つの事から離れていくことがないように導かれて参りましょう。
復活の日の後には、間もなく聖霊降臨の日がやってきます。
聖霊は、復活の主イエスが、わたしたちの近くに、今も生きて働いておられることを知らせてくれます。今日の礼拝の中にも、復活の主は現臨しておられます。わたしたちの心を熱く燃やしてくださる主イエスは生きておられます。
「主イエスは生きておられる!」この事を信じ、喜びをもって新しい週の歩みに向かわせて頂きましょう。