心を動かすのは神

「心を動かすのは神」 七月第四主日礼拝宣教 2021年7月25日

 エズラ記 1章1〜6節      牧師 河野信一郎

 おはようございます。早いもので7月も最後の主日となり、最後の週を土曜日まで過ごしてまいります。緊急事態宣言の中、皆さんもステイホームで大変であると思いますが、今朝もご一緒にオンラインで礼拝をおささげできる幸い、恵みを神様に心から感謝いたします。

さて、先週の主日礼拝では、配信がうまくいかずに20分遅れのスタートとなり、皆さんには大変ご心配をおかけいたしました。礼拝のライブ配信が滞るということは、配信を担当するチームにとって最も避けたいことです。今回のトラブルは礼拝20分前ぐらいから11時20分までの40分間、配信のためあらゆることを試みた「激闘」の時間を過ごし、心は大きく揺さぶられ、何度も諦める寸前まで行きましたが、神様の深い憐れみの中、20分遅れで開始することができ、賛美と祈りをささげ、石垣副牧師を通してみ言葉に聞くことができ感謝でした。

開始前から配信を心待ちにされておられた方々はなかなか開始しないので気が気でなかったと思いますが、オンラインで礼拝できることは実は当たり前のことではなく、神様のお取り計らい、恵みであると強く感じられた方々も先週は多かったのではないかと私は思っております。礼拝の直後、配信を担当した奉仕者は疲れを正直覚えていましたが、「礼拝の恵みに感謝します。背後からも皆さんが祈っているので、きっと配信できると思っていました。ご奉仕くださったみなさんに感謝します」というショートメールなどが寄せられ、そのような励ましを読むと、「教会の皆さんは本当に優しい人たちだなぁ」と感動し、涙腺が緩むのです。

確かに多額のお金を支払うコンサートのライブ配信や番組であれば、すぐに苦情の電話やメールが押し寄せてきてもおかしくないのですが、礼拝は神様から恵みを「受ける」ものではなく、わたしたちの心を神様に「お献げする」時と場なので、おささげできなければ神様に申し訳ないと感じ、わたしたちの心は痛む状態になると思います。ですから、オンラインではありますが、今朝もわたしたち一人ひとりが「礼拝者」として神様の御前に招かれ、礼拝をおささげできる幸いを受け取っていることをご一緒に感謝・感動したいと思います。

さて、自分の犯した凡ミスとそれによって受けた大きな代償で落ち込む先週の私でしたが、そういう落ち込んだ気持ちで教会のみかんの木を見上げましたら、まだ小さいですけれども青いみかんの実が三つ付いているのを発見して、一瞬で大きな喜びに心が満たされました。今年のみかんの木はどことなくいつもと違っていて、いつもより葉っぱは多く落ちるは、葉っぱもまだら模様があって元気がないように見えましたし、たくさんの細い枝が枯れてしまっている状態に見えましたので、今年は実を結ばないかもしれないと感じていましたが、神様は本当に良いお方です。目をよく凝らして見ると青い実が少なくとも3つ見つかりました。まだまだ小さく青い実ですが、非常に大きな希望の実であると感じます。大きく成長し、黄色く色づき、収穫できるまでにはあと半年は必要でしょう。しかし、その収穫の時を待てる忍耐力が希望として神様から与えられているように感じ、喜びに満たされます。

ですから、コロナパンデミックの中で教会に戻れないで苦しんでいる皆さんにも、主イエス様が与えてくださる希望をぜひ受け取っていただきたいと思います。神様に求めれば、イエス様を通して希望が与えられ、たとえ大変な日々が続いていて苦しくても、信じる力、忍耐する力、祈る力、待ち望む力、前進する力が与えられます。求める前から必要が満たされることも時折ありますので、いつも主なる神様に信頼し、信仰の目を凝らして祝福を見つけ、希望を受け取ってゆくこと、主を常に見上げて歩むことが大切であると思わされました。

さて、来たる8月1日の主日からネヘミヤ記に聴くシリーズが始まります。今朝はそのシリーズのプロローグ的な宣教になり、イスラエルの歴史や時代背景などを紹介しますので、いつもより多少難しく感じるかもしれません。ですので、教会ホームページにある原稿を後で読み返していただくか、ユーチューブのビデオをもう一度ご覧いただければと思います。

今朝は、わたしたちの「心を動かすのは神」であるという主題で、エズラ記1章からみ言葉に聴きます。このエズラ記と来週から聴くネヘミヤ記は、本来は一つの書物で、同じ著者によってイスラエルのバビロン捕囚後のエレサレム神殿と城壁を再建する出来事が物語のように記されたと考えられていますので、エズラ記とネヘミヤ記から聞くのも良いのですが、そうなるととても長くなりますので、今回はネヘミヤ記だけに集中することにしました。

しかし、エズラ記にご興味のある方もおられると思いますので、手短に背景をお話しします。イスラエルの民は、目に見えない神様ではなく、自分たちの目に見える指導者・王を立ててほしいと強く要望し、民の中からサウルが王として選ばれ、その後ダビデ王、ソロモン王が国を治め、120年間繁栄しました。しかし、その後の王たちが神様に対して大きな罪を犯し、一つ国は北のイスラエルと南のユダと二つに分裂し、紀元前722年に北のイスラエル王国がまずアッシリア帝国に征服され、後に南のユダ王国がバビロニア帝国との戦いに負けて捕囚の民となります。神様に対して犯した罪とは、偶像の罪です。つまりアブラハム、イサク、ヤコブの神、イスラエルの神を捨て去り、周辺国の神々に乗り換えて仕えたという罪です。

首都エルサレムと神殿があった南ユダ王国は、バビロニア帝国との戦いに負け、紀元前597年から586年の間、二回にわたって王族を始め、祭司など主だった人々が捕囚の民としてバビロニアへ連行されて行きます。その後にエルサレム神殿と城壁は破壊されてしまいます。捕囚の民としてバビロニアへ連れて行かれた人々は、失意の底に沈み、苦しんだと想像します。神殿に仕えていた祭司や使用人たちは今までできていたことが出来なくなりました。

スピーカーに電流が流れ、音や音楽を出せなくなったらただの木の箱であるように、牧師が宣教できなくなったら、ただの人であります。わたしたちは、昨年から続くコロナパンデミックの中で、それ以前に当たり前のように出来ていた仕事や勉強や育児や旅行や様々なことが出来なくなるという経験をしてきています。多くのことをリモートでしなければならなくなり、この間に諦めたものも数多くあります。礼拝も、祈祷会も、教会学校も、食事や交わりも、伝道も、コロナ前に当たり前のようにしてきたことが出来なくなり、この日本だけでなく世界中のキリスト教会から信徒が離れていってしまっている状態です。

この大きな苦しみの中、どうして神様にさらに近付こうとしないで、信頼しないで、助けを求めないで、反対に神様から離れてしまうのでしょうか。それは苦しみと不自由さの中で、今までの快適さや刺激を失い、モーティベーション・動機づけを失う、あるいはモーティベーションが下がるからです。つまり、大きな痛みや苦しみの中で、生かされている真の意味、人生の目的を見失うからです。神様の憐れみの中で生かされていることを忘れ、何のために生きているのか、生かされているというわたしたちの使命、喜びと感謝を見失うからです。

わたしたちは、コロナパンデミックと4度の緊急事態宣言の中で、教会にも戻れたり戻れなかったり、一同に集って礼拝もおささげ出来たり出来なかったり、また祈りや証や交わりはずっとできずに19ヶ月過ごしています。モーティベーションが下がった方や教会に集う意味を見失った方もおられるかもしれませんが、そういう方はオンラインの礼拝にも出席されていないでありましょう。いつ新型コロナとその変異株の感染とその恐怖から解放されてすべての兄弟姉妹が、救いを求めている方々が教会に戻れることができるのか、自由に教会に集う時が来るのか、今はまだ分かりません。しかし、聖書はわたしたちに「救い主イエス・キリストを常に見上げ、このお方に信頼して歩みなさい。このお方があなたがたに希望を与えるから信じて従いなさい」と励ましのエールを送り続けます。聖書は神様の言葉ですから、神様の約束の言葉です。つまり救いと平安と希望を与えてくださるのは主なる神様なのです。

最初の捕囚から約60年後の539年に衰退したバビロニアはペルシアに征服され、翌年の538年に起こった出来事が、エズラ記1章1節から記されています。まず1節を読みましょう。「ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた」とあります。

この1節に凄いことが二つ記されています。一つは、「主はかつてエレミヤの口によって約束されたことを成就するため」ということです。預言者エレミヤを通して主なる神様が約束されたこと、つまりエレミヤ書25章11節と12節、また同じ29章の10節から14節に記されていること、つまりエルサレムへの帰還を成就させるために神様が動かれる、働かれるということです。主なる神様を捨て去り、偶像礼拝に走った者たちとその子孫たちを神様はずっと愛し続け、エルサレムへ戻そう、つまりご自分の許へ戻そうとされる神様がしておられるということです。つまり神様の愛は変わらないで、ずっとイスラエルの民たちをエルサレムへ返す計画を持っておられたということです。神様の愛って、凄いと思いませんか。

この愛が今日を生かされているわたしたちにも注がれているのです。主なる神様は、わたしたちを教会に戻す計画があります。そしてそのために神様が動かれるのです。ですから、わたしたちは将来に対して不安を感じたり、恐れを抱いたり、神様を疑う必要はないのです。信じること、信頼して従うことが求められているのです。エレミヤ書29章12節にこのように神様の言葉が記されています。「『あなたがたがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう』と主は言われる」とあります。暗闇の中を彷徨っていたわたしたちに出会うため、神様は先に動いてくださって、救い主イエス・キリスト、この世の光をお遣わしくださいました。この主イエス様がわたしたちの近くにいつも共におられます。ですから、わたしたちに必要なのは神様を愛し、神様をさらに求め、従ってゆくことです。

そういう意味を込めて、今朝の礼拝への招きの言葉として詩編138編1節から3節を選びました。ダビデ王の歌です。「わたしは心を尽くして感謝し、神の御前でほめ歌をうたいます。聖なる神殿に向かってひれ伏し、あなたの慈しみとまことのゆえに御名に感謝をささげます。その御名のすべてにまさってあなたは仰せを大いなるものとされました。呼び求めるわたしに答え、あなたは魂に力を与え、解き放ってくださいました。」 わたしたちの心を常に向け、ひれ伏す相手はイエス・キリストです。わたしたちに大切なのは、コロナの苦しみの中でも、心を尽くして神様を愛し、賛美と感謝をささげること、今それぞれ置かれた場所で心からの礼拝をささげるということです。そのように生きる人の心・魂に主が力を与え、苦しみから解き放ち、主イエス様と共に前進する力を、希望を与えてくださいます。

エズラ記1章1節でもう一つ凄いこと、それは神様はユダヤ人ではなく、異邦人であるペルシアの王キュロスの心を動かされ、イスラエルの民を捕囚から解放されます。そして2節から4節に記されていますが、神様はさらに解放された民の心を動かして、神殿再建というモーティベーション、帰る目的・使命を与えてエルサレムへ戻します。また、エルサレムで神殿を再建するためにバビロンの人々にも銀や金や家財、家畜などを献げさせます。

神様はわたしたちに予測不可能なご計画があり、わたしたちの想いを遥かに超える大きな力をもって救いの業を成し遂げられます。神様は本当に不思議なお方です。想像もつかない所から救いの手を差し伸べてくださり、必要なものを与えてくださいます。去年のコロナ危機の中、大久保教会の財政赤字はおよそ80万から90万円となる予測でしたが、教会員でない方々から、また海外の教会から多額の献金が寄せられ、赤字額は予測の半分以下になりました。神様がその方々の心を動かし、心動かされた方々が教会のために献げてくださいました。

主なる神様は、想像もつかない所から救いの手を差し伸べてくださり、必要なものを与えてくださいます。それが救い主イエス・キリストです。このイエス様がわたしたちの魂を励まし、信仰がなくならないようにしてくださいます。何故でしょうか。それは神様の不思議な時とご計画の中で、わたしたちが戻るべき所、帰るべき所に戻し、そこで主にある兄弟姉妹たちと信仰を合わせて教会を形成してゆき、そこで神様に礼拝と賛美と祈りをささげ、そこから神様の愛、イエス様の福音を発信してゆくためです。この大久保教会から始めるのです。

5節にこうあります。「神に心を動かされた者は皆、エルサレムの主の神殿を建てるために上って行こうとした。」 わたしたちは未だにコロナパンデミックと緊急事態宣言の中に置かれてはいますが、イエス様から目を離さずに日々と過ごし、神様がわたしたちを一つの所に戻してくださる約束と恵みを疑わずに信じて、その時を祈りの中で待ち続けましょう。もし落ち込んだら、「主よ、どうぞわたしの心を動かしてください!」と叫び、主の憐れみを求めましょう。主はその叫びに必ず応えてくださいます。