恐ろしいほどまでの御心を畏れる

「恐ろしいほどまでの御心を畏れる」 九月第二主日礼拝 宣教 2022年9月11日

 ヨナ書 1章11〜16節     牧師 河野信一郎

おはようございます。今朝もご一緒に賛美と礼拝をおささげできて感謝です。嬉しいご報告とお願いです。昨日の執事会において、来週18日の主日礼拝から対面式の礼拝を再開することを決めました。しかしながら、感染第7波が収束した訳ではありません。新規感染者数が減少しているのは確かですが、東京都のここ一ヶ月の重症者数と死亡者数はまったく減少していませんので、礼拝堂での礼拝へ戻られる方々は、これまで同様、感染防止の徹底をお願いしたいと思います。また、まだお戻りになるのが困難な方々は、神様の時を祈りつつ、もうしばらくお待ちいただき、オンラインで礼拝にご出席くださいますようお願い致します。

さて、英国の女王エリザベス二世が、8日に96年の地上での生涯を終えられて召されました。国内外問わず、年齢が70歳以下の人々にとって、イギリスの国王と言えば、エリザベス二世となると思います。「世界で最も有名な女性」と称賛されています。これはわたしの印象ですが、女王はとてもチャーミングな笑顔をお持ちの方でありました。その笑顔は、女王のご性質、優しいお心をよく表すものであったと思いますが、その笑顔の裏には人知れないご苦悩もあられたと思います。君主在位70年の「7」は聖書では完全数でありますから、神様から託された女王としての使命を一生涯かけて全うされたと捉えることができます。25歳で国王として即位された当初から、「死ぬまで女王として奉仕する」という固いご決意をもたれ、その重責を担ってこられたのですから、女王の誠実な奉仕に感謝と敬意を表すべきでしょう。

エリザベス女王は、言葉数の少ない方であったと言われています。しかしその静かな女王がお話しされる時、誰もが静まってそのお言葉に耳を傾けて聴いたと言われています。もし女王に耳を傾けて聴くならば、わたしたちは、女王をこの地上に生かし、用いられた神様のお言葉、語りかけに、なおさらまでに耳を傾けて真剣に御心を聴くべきではないでしょうか。

さて、わたしたちは、シリーズでヨナ書を聴いています。とても考えさせられるヨナ書です。色々なイマジネーションをかき立てられる物語です。読んでゆく中で、色々なことを様々な角度から考えさせられますので、読み進めてゆくスピードがかなり遅くなります。もう少しテンポよく進めてほしいという方もおられるかも知れませんが、新幹線の車窓から見える眺めとローカル線の車窓から見える景色はまったく違います。遠くに見える富士山に感動するのも良いですが、ピンクやオレンジ色の秋桜を眺めるのも心の活力になると思います。

わたしの幼なじみに、小さい頃から電車が大好きで、電車に乗る時は必ず先頭車両に乗って、運転手さんの操縦を見たり、前面に広がる風景を楽しむ人がいて、今では休日などに息子さんと一緒に電車に乗りに行きますが、わたしたちが特急や新幹線に乗っても、彼一人だけローカル線で目的地に来るような人です。でも、とっても優しい人です。なぜ優しいのか。車窓から見える風景、大小関係なく、神様の御手のみ業をゆっくりじっくり見ているからだと思います。時間に追われる忙しい毎日を過ごすわたしたちですが、神様のみ言葉を聴く時は、もっとじっくり、もっと時間をかけて聴くことが必要だと思います。スピードと効率だけを求めては、大切なことを聞き逃す危険があります。心に余裕を持ち、穏やかで心優しくなるためには、愛と憐れみの源、優しさの源である神様の言葉に聴く必要があります。ですので、あと2ヶ月半ほど、ヨナ書の宣教にゆっくり、じっくりお付き合いいただければと思います。

今朝は、先ほど読ませていただきましたヨナ書の1章11節から16節に聴いてゆきたいと思いますが、主題を「恐ろしいほどまでの御心を畏れる」としました。ずいぶん長いタイトルですが、今朝の箇所から「おそろしさ」には二種類あることを聴きたいと思います。実は、先週のタイトル「ヨナよ、平気で嘘をつくな」を継承し、「ヨナよ、そこまで堕ちるな」というアイデアもありましたがやめました。これからじっくりお話ししてゆきますが、ヨナという預言者は、実に類い稀な頑固者です。神様の愛と憐れみが様々な角度から注がれても、決して自分の間違いを認めず、我を貫く人です。彼の言動を読み込んでゆく中で、「なぜそこまで堕ちてゆくのか」と不思議になる程に堕ちてゆきます。しかし、それに輪をかけたかのように、もっと驚くべき凄いことは、そのような強情なヨナを決して見捨てないで、彼を用いようとされる神様がおられるという真実です。双方の意地の張り合いかと思えもしますが、そうではなく、神様には御心があるからです。愛の神様に救いのご計画があるのです。ヨナを諦めない、見捨てないということは、神様はヨナを愛しておられるということです。

さて、神様の派遣命令を完全に無視し、行けと示された方角とは正反対の方角へ向かうため、ヨナは外国船に乗り込み、神様から遠く離れようとします。しかし、今朝の前奏曲と招きの言葉の詩編139編7節以降にありますように、神様から離れることは決してできないのです。「どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう」と詩人は言いますが、神がおられない場所は存在しないのです。神様は天にも、陰府にもおられ、ヨナを、そしてわたしたちを、御手をもって導き、とらえていてくださる。人生の闇の中でも、主はわたしたちを見つめ、光をもって照らしてくださるのです。

主なる神は、海に向かって大風が放たれる事を通して、ヨナに自分の間違いを気づかせ、軌道修正をさせ、御許に戻そうとされます。大風のために海は大荒れになり、ヨナの乗った船は今にも砕け散る状況に置かれ、乗客も、船乗りたちも恐怖に陥り、それぞれ信じている神々に祈って助けを求めます。しかし、神様から逃れることができたと思い込んで安心していたヨナはどうでしょう。大嵐に揺れる船の底で、船乗りたちが乗客と船を守ろうと懸命に働き、それぞれが信じている神々に心血注いで助けを祈り求める最中でも、彼は熟睡しています。

船長から「こんな危機的な状況の中でよく眠っていられるな!あなたの信じている神に祈って助けを求めよ!」と強く促されても、彼は動じません。神様に祈りません。実に頑なです。もしかしたら、ヨナは、このまま船が沈んでしまい、死んでしまっても良い、そちらの方が敵国アッシリアのニネベへ行って宣教するよりも絶対に良いと考えていたかも知れません。

先週聴きましたが、人々は「さあ、くじを引こう。誰のせいで、我々にこの災難がふりかかったのか、はっきりさせよう」と提案し、くじを引いたところ、ヨナに当たります。この部分の詳細は割愛しますが、もしお忘れになられたり、お聴きになっておられない方は、教会ホームページに宣教が掲載されていますので、お読みいただければ、「くじ」は聖書的であり、くじの結果「当たり外れ」にも神様の御心が示されるという真実を知ることができます。

さて、直面している災難を引き起こした張本人がヨナであると知るや否や、人々はヨナに詰め寄り、なぜこのような災難が自分たちにふりかかり、苦しんでいるのかと理由を尋ねます。ヨナは、正直に、自分が神の御前から逃げている逃亡者であることを告白します。その事実を知った人々の心境を想像してみてください。彼らは「なんという事をしたのだ」と言い、怖れの極みを味わいます。皆さんも誰かのせいで絶望を味わった事が過去にあるでしょうか。

大きな怖れ、それは目の前の荒れ狂った嵐の勢いと自分たちの不遇な死に対する怖れです。わたしたちは、目の前に立ちはだかるどうしようもない力、自然の力に無力さを感じて恐れます。「恐れ」というのは、いつもわたしたちの目の前や身近にあります。さて、ヨナは「わたしは海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」と言いつつも、まったく悔い改めませんので、海は荒れる一方です。船に大波が打ちつけます。なんという強情さでしょうか。

この嵐を引き起こした原因を持つ本人が開き直って、ふんずり返って、神に助けを求めません。祈る事を拒絶します。しかし、神をなだめられ、嵐を静められるのはヨナしかいないと人々は確信したのでしょう。「あなたをどうしたら、神の怒りが収まり、海が静まるだろうか」と尋ねます。それに対してヨナは「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい。そうすれば、海は穏やかになる。わたしのせいで、この大嵐があなたたちを見舞ったことは、わたしが知っている。」と答え、解決方法を提示します。「この嵐の原因はわたしにある事は自分がよく知っている。だから、わたしを縛り上げて海に投げなさい。そうすれば、海は穏やかになるはずだ。」とのヨナの言葉をわたしたちはどのように理解したら良いでしょうか。

この件に関しては、神学者たちの中でも見解は分かれます。例えば、もはや神の前から逃れる事ができないと悟り、どうにでもなれと自暴自棄になったと考える人もいます。ある人は、ヨナはやっと悔い改め、危機を招いた責任を取るために、嵐を静めるために、自身を犠牲として捧げる他はないと思ったのではないかと考えます。しかし、わたしはこう考えます。彼は絶対に自分の意思を曲げない。生き延びてニネベに行くぐらいならば、ここで死んでやる。ニネベの人々が救われるぐらいならば、自分が死んでやる。そうすれば神はニネベの人々を救う事を諦めるだろう。そのためならば、死んでも構わないと思って人々に言ったのだとわたしは思いますが、皆さんはどのように思われるでしょうか。またお聞かせください。

さて、ヨナがどういう思いであったのかはさておき、13節を見ますと、「乗組員は船を漕いで陸に戻ろうとした」と記されています。彼らは、ヨナの命を助けようと必死の努力をするのです。すごいと思いませんか。苦しみの原因を作っている人を助けようと力を合わせる姿があります。人々の優しさがあります。しかし、彼らの願いとは裏腹に、「陸に戻そうとしたができなかった。海はますます荒れて、襲いかかってきた」とあります。彼らの努力が全部無駄になってしまいます。彼らも虚しさを感じていたかもしれません。皆さんの中には、神様は無慈悲だと思われる方もおられるかもしれませんね。しかし、根本的な問題がある所に希望はないのです。救いはないのです。ヨナが悔い改めていないので、神様に立ち返らないので、問題が解決せず、彼の頑なさのために、周りの多くの人々が大変苦しみ傷つくのです。

自分たちの努力が実を結ばないと察した乗組員たちは、「ついに、彼らは主に向かって叫んだ」と14節にあります。この「主」とは、自分たちが信仰してきた神々ではなく、ヨナの「信じている」、海と陸とを創造された天の神、主なる神様を表す「ヤーウエ」という言葉が用いられています。この主なる神を信じているはずのヨナが悔い改めず、祈らないでいるのに、その神を信じていない異教徒たちが、異邦人たちがヨナに代わって必死に祈るのです。

彼らは主なる神様に三つの祈りをしています。第一の祈りは、「ああ、主よ、この男の命のゆえに、(わたしたちを)滅ぼさないでください」というものです。一人の人間があなたに対して罪を犯したからといって、その人になんら関係のない人々を巻き添えにして滅ぼさないでくださいという祈りです。そのような気持ち、よく理解できます。

第二の祈りは「無実の者を殺したといって(わたしたちを)責めないでください」というものです。ヨナは決して無実ではないが、わたしたちが故意に彼を海に投げ入れたと思わず、その責任をわたしたちに負わせないでくださいという祈りで、それもよく理解できます。

第三の祈りは「主よ、すべてはあなたの御心のままなのですから」というものです。口語訳聖書では、「主よ、これはみ心に従って、なされた事だからです」と訳されていますが、ヨナを海に投げ込むのは、わたしたちが勝手に判断して、彼を犠牲としているのではありません。主よ、今からする事はあなたの御心と信じてこのように行いますから受け入れてくださいという祈りです。神様を「恐れ」おののきながら懸命に祈ったその祈り、よく理解できます。

わたしたちも、彼らと同じように祈る事があったでしょうし、祈りが今あると思います。そのような神様の憐れみを信じてひたすら祈ることしかできない祈りにも、神様は真実なるお方ですから、愛を持って答えてくださいます。わたしたちは疑うことなく、神様の愛と憐れみをひたすら信じて、求めて行く時に、神様の真実さを経験する事が許されます。

「彼らがヨナの手足を捕らえて海へほうり込むと、荒れ狂っていた海は静まった」と15節にあります。船乗りたちの祈りは神様に届き、死を覚悟するほどまでに荒れ狂っていた海が一気に静まり返ってしまったのです。彼らは心底驚いたことでしょう。

彼らはその時、自然現象である大嵐を「恐れる」者、目の前に見える力を「恐れる」者から、海と陸とを創造された天の神、目には見えないけれども偉大なる力をもたれる神様を「畏れる」者へと変えられてゆきます。そして、16節にあるように、「人々は大いに主を畏れ、いけにえをささげ、(神様に)誓いを立て」ます。恐ろしいほどまでの御心をもたれる大いなる神に従って生きてゆくという決心をし、神様に誓いを立てます。彼らが救われることも、神様の驚くべき御心であったのです。

主なる神様は、あなたにどのような御心をお持ちでしょうか。御心を知るためには、まず自我を捨て、悔い改め、心から祈り求め、神様の言葉に聴く、つまり救い主イエス・キリストの言葉に聞き従ってゆくしか方法はありません。わたしたちがどんなにあがいても、神様の御心がなるのです。ですから自分の力や知恵だけで、のたうち回らないで、頑張らないで、驚くべき御心をお持ちの神様に信頼してゆきましょう。それが御心であると信じます。