「恵みを与えようとあなたを待つ神」 十一月第二主日礼拝 宣教 2024年11月10日
イザヤ書 30章18〜26節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげすることができて主に感謝です。ここ最近、朝晩だいぶ寒くなってきましたので、我が家ではストーブを出しました。しかし、今週は21・22度の暖かい日もあるようです。体調管理が難しいこの頃ですし、最近は風邪やインフルエンザが流行っているようですから、どうぞお大事にお過ごしください。皆さんのご健康が守られますようにお祈りいたしますし、お互いのために覚えてお祈りしましょう。
短いアナウンスメントです。今日は、各ご家庭と教会に与えられている子どもたちを祝福するためにお祈りする機会が与えられています。子どもたちが神様に日々守られて、健やかに成長してゆくように、祝福を共にお祈りいたしましょう。さて、NS宣教師のご両親が再来日され、お父様のAS牧師が17日の朝の礼拝でメッセージをしてくださいます。息子のN宣教師が通訳をされます。どうぞ覚えてご出席ください。
さて、先週から新しいシリーズ「わたしたちを待たれる神」というテーマのメッセージ始めました。確かに、クリスマスは、神様がお送りくださった救い主イエス・キリストの御降誕を喜び祝う時であり、その誕生を待ち望む期間として「アドベント・待降節」という4週間の期間があります。しかし、今年は、わたしたちが救い主の誕生を待つということよりも、神様がわたしたちを待っておられるということ強調したお話をさせていただく計画です。
このコンセプトをどのように分かりやすくお話ししたら皆さんにストレートに伝わるかなぁと考えていましたら、「相思相愛」という言葉が浮かんできました。ちょっと思い出したくない記憶かもしれませんが、皆さんは、これまでの人生の中で、「片思い」を経験されたことがあるでしょうか。誰かを一方的に好きになるのですが、その思いが届かなくて切なくなったり、心が締め付けられるような感じになったこと。そういう経験ってないでしょうか。
今日は、わたしの家族だけでなく、わたしの妹や姪もいますので、こういうことを話したら、後で「えー、片思いしたことあるの〜!聞かせて〜!」と言われそうなので、本当は嫌なのですが、高校生の時に片思いをしたことがあります。また、これを言うと、後で妻に何と言われるか分かりませんが、妻と出会うもっともっと前の話です。若い時は、まだスリムでしたので、片思いをされた記憶もあります。ですから、「片思い」については、切ない気持ちを少しは語れるわけです。
では、皆さんはどうでしょうか。甘酸っぱいと言いましょうか、切ないと言いましょうか、心が破れてしまうかのような片思いを経験された記憶はないでしょうか。もちろん、現在進行形で片思いを体験中の方もおられるかもしれません。片思いをする人の切なる思い、願い、祈りは、好きない人と相思相愛になることではないでしょうか。
実は、神様も同じなのです。神様は、わたしたちと相思相愛になりたいのです。神様はわたしたちを造られ、愛を注いでくださり、わたしたちが生きてゆくために必要なすべてを与え続けてくださっています。神様は、わたしたちが神様の存在に気付き、神様の愛を受け取って、神様と相思相愛になることを望んでおられるのです。けれども、わたしたちの多くは、神様の愛に気付かず、神様を愛することも、神様を見ようとも、話そうともしない。しかし神様は、わたしたちが神様の愛に気付き、振り向いて、神様を愛し、神様にすべてをより頼んで生きてくれることをずっと、ひたすら、諦めないで待っておられるのです。
そのようなことを聞いて、ある人は、「えー、キリスト教の神ってストーカー? 気持ち悪い!」って言って、驚き怪しんだり、宗教とは距離をいっそう取ろう、関わらない方が無難と思うかもしれませんが、それは残念なことだと思います。何故ならば、本当の愛を、神様の愛をその人は知らないからです。子どもメッセージの中で話しましたように、わたしたちはどんなに神様に愛され、み翼の陰に守られて、生かされている真実を知らないからです。
では、神様は何故わたしたちを諦められないのでしょうか。それは、わたしたちが向かってはいけない方向に進んでいるからです。強いていうならば、神様を無視して生きる人たちは、奈落の底に落ちる崖っぷちに向かって突き進んでいるからです。イメージ的には前のスクリーンの写真のような感じです。若いうちから、神様により頼むのではなく、人よりも多い富、社会的地位、幸せを求めて、自分の心を満たそうと頑張っているからです。
さて、今朝のメッセージは、イザヤ書30章の18節から26節をテキストに聞いてゆくのですが、本来は30章1節から読み進めてゆくのが良いのです。しかし、今朝は18節の言葉に集中したくて、18節からにしましたので、お帰りになられたら、1節からお読みになることをお勧めいたします。今朝は、預言者イザヤの時代背景を簡単にお話ししますが、イスラエルという一つの国が分裂して、北王国イスラエルと南王国ユダになりました。
後に北のイスラエルはアッシリア帝国との戦いに負けて捕囚の民となってゆきますが、アッシリア帝国は、南のユダも支配下に入れようと迫ってきます。神様は、南ユダが神様に助けを求めることを期待しましたが、南ユダは神様により頼むのではなく、エジプトへ下ってゆき、同盟を結び、ファラオの保護を受け、そして自分たちの力だけでアッシリア帝国に抵抗しようとしました。そのために大きな苦しみを負うことになりました。
神様は、預言者イザヤを通して、南ユダに対してこのように言われるのです。15節ですが、「まことに、イスラエルの聖なる方、わが主なる神は、こう言われた。『お前たちは、(わたしに)立ち帰って、静かにしているならば救われる。(神であるわたしに)安らかに信頼していることにこそ力がある』と。しかし、お前たちはそれを望まなかった」とあります。南ユダは判断を間違ってしまったのです。そのために苦しむことになります。
しかし、18節に何とあるでしょうか。「それゆえ、主は恵みを与えようとして あなたたちを待ち それゆえ、主は憐れみを与えようとして 立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。」とあります。ここに「それゆえ」という言葉が2回出てきますが、「それでも」という言葉の方が良いように思えます。
つまり、神様はわたしたちにこのように言われるのです。「あなたたちは間違いを犯し、わたしにより頼むことをせず、自分たちの力にだけ頼っているために苦労ばっかり、苦悩の連続だけれども、それでもわたしはあなたを愛している。わたしは恵みを与えようとしてあなたたちを待っている。あなたたちに憐れみを与えようと立ち上がって待っている。わたしは正義の神、わたしを待ち望む者はみな、幸いを得られる。わたしはあなたを愛している。あなたもわたしの愛に気付き、わたしの愛を求めなさい。わたしを愛しなさい」と。つまり、「わたしと相思相愛になりましょう」と神様はわたしたちを招いておられるのです。
わたしたちは、それでも、「嫌だ、神には従わない、愛さないし、神の愛など望まない」と自分の力だけを頼りにし、自分の望む、自分が理想とする幸いを得ようと頑張り続けるでしょうか。働き続けるでしょうか。この不正の蔓延る社会の中で、自分の力と知恵と頑張りようだけで戦い抜くつもりでしょうか。若いうちは、倒れるまで頑張れるでしょう。しかし、若さや体力はいつまでも続くわけではありません。自分の弱さを知る時が必ず来るのです。
その時に初めて神様に助けを求めますか。それも有りかもしれません。しかし、最も賢いのは、若いうちから拠り所を持つことです。神様を信じて、神様により頼むことです。つまり、若いうちから神様の愛を受け取り、神様の愛の中で生かされていることを喜ぶことです。それが、神様が与えてくださる究極の「相思相愛」、それが生きる力になるのです。
神様と相思相愛になったら、どんな素晴らしいことがあるでしょうか。どのような恵みを日々受けながら生きることができるでしょうか。19節をご覧ください。「まことに、あなたは、もはや泣くことはない。主はあなたの呼ぶ声に答えて、必ず恵みを与えられる。主がそれを聞いて、直ちに答えてくださる」とあります。20節には、「あなたを導かれる方は もはや隠れておられることなく あなたの目は常に あなたを導かれる方を見る」とあります。
21節には、「あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け 右に行け、左に行け」と。」あります。神様の言葉であるイエス・キリストがわたしたちの心に力強く語りかけて励ましてくださり、聖霊がわたしたちを力強く導いてくださるのです。22節には、今まで持っていた偶像、つまり今まで頼りにしてきたお金や自分の力やキャリアを神様に委ねて生きることができるということが言われています。
23節と24節には、こうあります。「主は、あなたが地に蒔く種に雨を与えられる。地の産み出す穀物は豊かに実る。その日にはあなたの家畜は広い牧場で草をはみ、地を耕す牛やろばは、ふるいや箕でえり分け、発酵させた飼葉を食べる。」主なる神様を愛して、すべてを委ねてゆく時、わたしたちの心が作り変えられ、今までのようにプレッシャーやストレスを感じたり、人の目なども気にならなくなるだけでなく、心が変えられると行動も変わってゆきますので、豊かな実をたくさん結ぶようになりますので、人生がこれまで以上に豊かになる、祝福されるということが約束されています。
25節と26節は、難しい言葉が並びますが、簡単にリフレイズしますと、神様が愛をもってあなたの心をすべての苦しみ・しがらみから完全に解放し、癒すということです。あなたの乾き切った心を神様の愛で潤し、飢えている心を神様の愛の言葉で満たすという約束です。
わたしたち一人ひとりに恵みと憐れみを、救いと平安と希望を与えようと、神様はわたしたちが心を開いて神様の愛を受け入れることをひたすら待っておられるのです。神様の愛はわたしたちの目の前にありますから、もう待つ必要はないのです。神様の愛を今日受け入れて、感謝する時、神様の愛によって、わたしたちは幸いな人とされるのです。信じ、神様の愛を受けましょう。