恵みを振り返って、前を向く

「恵みを振り返って、前を向く」 七月第一主日礼拝 宣教 2024年7月7日

 使徒言行録 22章6〜16節  創立59周年を覚える礼拝   牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝の礼拝は、大久保教会が東京・新宿の地に建てられてから59年目を迎えることを主に感謝し、今後の歩みを主に信頼して歩んでゆく決心を共にする時です。東京という世界的にも大都市のど真ん中にある教会として、特有の課題が色々ありますし、今後も様々な課題に直面することでしょう。しかし、もしわたしたちが、愛と憐れみの神に信頼し、絶えず御心を求めて祈り、主の御言葉に忠実に聞き従い続けるならば、この教会は大丈夫です。わたしたちが、これからもこの大久保教会を通して、神様とイエス様を愛し、隣人を愛し、キリストの福音を人々に伝えてゆく決心をするならば、神様はわたしたちの教会を守り続け、祝福し、主のみ旨を行う群れとして用い続けてくださると信じます。

 

もし、わたしたちの教会が神様のご計画の中に在り続けるならば、必ず守られるはずです。時が経過する中で、わたしたちが一人ずつ居なくなったとしても、この教会の主がイエス様であるならば、あるのは祝福のみ、怖いものなどありません。わたしたちにいま必要なのは、この教会で主に仕えるというコミットメント・決意を固めることです。

 

どのような決意をすることが御心でしょうか。子どもたちは、教会学校で「五つの約束」を神様と交わします。1)聖書を読む。2)お祈りをする。3)教会学校に出席する。4)献金をささげる。5)お友だちを誘う。わたしたち大人も、基本的に同じ約束を守れば良いのです。すなわち、御言葉を日々読んで、霊的な養いを主から受け続ける。イエス・キリストの御名によって神様に祈り続ける。礼拝と諸集会に出席することを大切にし続ける。神様からの恵みへの感謝を献金という形でささげ続ける。家族や友人を礼拝や教会の交わりに誘い続ける。わたしたちがこのシンプルな五つのことを守るだけで、まずわたしたちが祝福され、次に教会が祝福され、その祝福がさらに祝福されて家庭や地域へと広がります。

 

先日、知人のS N S投稿を見ていましたら、他の方から「私は教会へ行っても、満たされない事の方が多いです」というコメントが寄せられているのを見つけました。皆さんが誰かからそのようなコメントを受け取られたら、どのようにコメントバックされるでしょうか。わたしの知り合いは、「そうですか、残念です」と返していましたが、わたしも非常に残念に感じました。「教会へ行っても満たされない」とはどういうことなのでしょうか。信仰とは何なのか。教会とはいったい何か。礼拝とは何なのか。賛美とは、主の日とは、共に礼拝をおささげするということはどういうことなのか。「満たされる」とはどういうことなのか。満たされないから、教会に行かなくなるのか。様々なことを深く考えさせられます。

 

そういうことを考える中で、わたしたちが決して忘れてはならない信仰の基礎・土台があります。それは、すべての始まりは、神様であるということです。すべての始まりは、わたしたちではないということです。わたしたち人間が始めた唯一のこと、それは神様の御心を無視し、神様に逆らって罪を犯したということだけです。もし、わたしたちが信仰生活の出発点を自分自身にしてしまうと最も大切なことを見逃してしまいます。それでは、その最も大切なこととは何かということになります。

 

リック・ワォレン牧師が次のような説教をしました。「皆さん、あなたの人生の使命、第一の目的は、神を愛することではありません。第一の目的は、まずあなたが神の愛を受け取り、神に愛されていることを喜ぶことです。神の愛を受け取り、喜びに満たされない限り、あなたは神を愛することも、隣人を愛することも、自分を愛することもできません。救い主イエス・キリストを通して愛の源である神につながらなければ、わたしたちは神も、人も、そして第一義的に、自分を愛することはできないのです。」と。これは真実だと思います。

 

皆さんは、今日、神様に満たされたいと願って、ここにおられるでしょうか。では、皆さんはどのようなもので満たされたいと願っておられるでしょうか。そして、もし皆さんの期待通りのもので満たされなければ、教会に来た意味がなかった、礼拝に出席した意味がなかったと思われ、虚しい気持ちでお帰りになるのでしょうか。しかし、わたしたちが追求し、本当に問わなければならないのは、神様は何をもってわたしたちを満たしたい、祝福したいと思っておられるのかという神様の御心です。わたしたちが神様に何を望むのかではなく、神様がわたしたちに何を望んでおられるのか。わたしがどのように生きたいかではなく、わたしを造られた神様はわたしにどのように生きてほしいと願われているのかと問うことです。

 

神様は、わたしたちを罪と死から救うためにイエス・キリストという御子をお与えくださいました。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得て生きるためでした。イエス様は、わたしたちの罪を贖い、わたしたちを神の子とするために、その命を十字架上で捨てて、その命をくださいました。これ以上の愛がいったいどこにあるでしょうか。この神様とイエス様の愛を受け取り、救われ、生きなさいとわたしたちは常に招かれています。この愛と命を受け取っているならば、それはもうすでに豊かに満たされているということです。そのように満たされているわたしたちのなすべきこと、それは神様を愛し、礼拝をおささげし、賛美をささげ、祈りをささげ、献金をささげ、この愛をわたしたちの周りにいる人々と分かち合うことではないでしょうか。それ以外に何があるでしょうか。

 

今朝の礼拝への前奏曲として、Eさんがサックスで特別賛美をささげてくださいました。自分のルーツがあるスウェーデンの讃美歌、「輝く日を仰ぐとき」です。本当に感動しました。「あの小さかったEちゃんが!」と感無量でした。その後、礼拝への招きの言葉が読まれ、大久保教会のオリジナル賛美歌、2012年度の年間賛美であった「主があなたに求められるから」が歌われました。招きの言葉も2012年の年間聖句です。

 

読みます。「イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。」とあります。皆さん、これがわたしたちに対する神様の御心です。この御心に素直に従って生きるために、神様の愛、イエス・キリストを信じ、このイエス様の言葉に聞き従う必要があるのです。イエス様に従って歩めば、もうすでに満たされていることを実感し、喜びと感謝の気持ちに満たされ、平安と希望が与えられます。

 

もし皆さんの心の中に、満たされたいという思いがあるならば、あなたにはイエス・キリストが必要です。イエス様と出会って、神様の愛で包まれることが必要です。もしあなたがクリスチャンで、それでも心の中が満たされていなければ、信仰の原点に戻られることを強くお勧めいたします。つまり、イエス様に出会う前の自分はどのような人生を歩んでいたのか、イエス様に出会い、イエス様を救い主と信じるようになったきっかけは何であったのか、誰がイエス様へと導いてくれたのかなどを振り返ることが信仰の回復になるはずです。

 

使徒パウロは、事あるごとに、自分の人生を振り返ります。使徒言行録の9章には、キリスト教会を迫害していたパウロがダマスコへの道の途中で復活のイエス・キリストに出会い、回心し、キリストの福音を伝える使徒とされていったことが記されていますが、今回の22章1節から16節、そして26章12節から18節で、パウロは自分がイエス・キリストに出会う前の自分はどのような生き方をしていたのか、どのようにイエス様に出会って回心するように至ったのか、そしてどのように使徒とされたのかを語ります。

 

わたしは、何かが原因で人生に、信仰生活・教会生活に行き詰まったら、自分の人生を振り返る必要があると思います。信仰の原点に立ち返るというべきでしょうか。それはわたしたち一人ひとり、教会も同じだと思います。イエス様に出会う前の自分はどのような生き方をしていたのか。イエス様を信じるようになったきっかけは何であったのか。神様の愛をイエス様から受け取ってどのような変化が与えられたのか。それから今日まで、どのように主がわたしを導いてくださり、すべての必要を満たしてくださったのかを思い返すことが信仰のリフレッシュ、心のリフレッシュ、喜びと感謝のリチャージになると思います。

 

使徒パウロは、救い主イエス様に出会うまで、神様の御心とは真逆の生活をしていました。彼はイエス様に出会うまで「サウロ」でした。しかし、ある時、「真昼ごろ、突然、天から強い光がサウロの周りを照らします。そしてイエス様の「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声が聞こえます。「主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスである」という答えがありました。彼は目が見えなくなったので、人たちに手引きされてダマスコに行きます。ずっと不安の状態であったでしょう。しかし、彼のもとに神はアナニアという人を遣わし、こう宣言させます。13節、「兄弟サウル、元どおり見えるようになりなさい。」と、そうするとすぐさま見えるようになりました。アナニアは続けてこう言います。14節から16節、「わたしたちの先祖の神が、あなたをお選びになった。それは、御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは、見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです。今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい。その方の名を唱え、洗礼を受けて罪を洗い清めなさい」と。

 

今朝、この御言葉から何を受け取れば良いのでしょうか。まず、神様はわたしたち一人ひとりにご計画があるということです。そのために、イエス様はわたしたちの名前を呼んでくださる。イエス様へと導く人を備えてくださる。そしてサウロをパウロに変えられたように、わたしたちを神様がイエス様の言葉と聖霊によって新しく作り変え、イエス・キリストの「証人」となる使命、人生の目的を与えてくださるということです。

 

過去を振り返るのであれば、神様の恵みだけを振り返るべきであって、過去の罪の状態にいた頃を恋しがるべきではありません。過去を振り返って、神様の愛と憐れみ、イエス様の十字架と復活、数多くの恵みに感謝する。そして前を向いて主のために生きるのです。それが自分のために生きることであり、神様の御心なのです。聖霊が今朝わたしたちに、「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい」と言われます。この聖霊に励まされて、聖霊が導いてくださる道を共に歩ませていただきましょう。