悔い改めて神に立ち返る道

「悔い改めて神に立ち返る道」 二月第四主日礼拝 宣教 2024年2月25日

 エゼキエル書 18章21〜32節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。昨晩、今朝の天気予報を見ましたら、雨時々雪のマークがついていましたので、皆さんが教会に無事に帰って来られるか心配しましたが、このようにご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて本当に感謝です。主をほめたたえます。今朝は、三つの感謝と喜びを短くお伝えして、メッセージに入ってゆきたいと思います。

 まず、去る2月17日に大久保教会を会場に「青少年の集い」が開かれました。「君たちはどう礼拝するか」というテーマで、S教会のKM牧師による講演と賛美集会があり、大久保教会からも参加しました。東京と神奈川にある12教会から32名の参加があり、良い出会いと学びと賛美の時となり、大久保教会が用いられたことを主に感謝いたしました。

 次に、写真のように、教会のみかんの木がなんと67個もの実を結び、子どもたちが青年の方々と一緒に収穫してくれました。高いところにあったのは、植木屋さんが全部とってくれましたが、このような大量の収穫は、わたしが25年前に大久保教会の牧師になってから初めてです。大久保教会がたくさんの実を結ぶ教会になることの前兆、神様の約束のようにも思えました。神様に喜ばれる実を結ぶ教会となるためには痛い剪定や木の根本に肥料を与える事などの必要がありますが、神様に喜んでいただけるならば何でもしたいと思います。

 2週間前に東北支援献金のアピールをメッセージの冒頭でいたしましたが、優しくて寛大な方々が大久保教会にたくさんおられることを実感いたしました。献金箱に多額の献金が入っていました。愛とご協力をありがとうございます。アメリカの教会の姉妹からも献金が寄せられ、わたしの周りには寛容な人たちが大勢おられるなぁ、そんな愛の家族が与えられていて感謝だなぁと胸が喜びでいっぱいになりました。3月10日の「3.11を覚える礼拝」までの間、東北の3つの教会のことをもう少しお祈りください。イエス様は、「受けるよりも、与えるほうが幸いです」とおっしゃいましたが、大久保教会が今後も神様からいただいている恵みを分かち合い続ける教会、愛と祈りをもって人々に仕え続ける教会になることを願い、ひたすら祈ります。そのように感謝と喜びをもって主の恵みを分かち合うと、もっと多くの恵みが神様から注がれます。それが更なる恵みの分かち合いになってゆくはずです。

 さて、ここまでで三つの感謝・喜びを分かち合わせていただきましたが、昨日2月24日はロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから丸2年が過ぎ、3年目に入った日です。ウクライナの高官がAテレビのインタビューを受けているのを先日見ましたが、「苦しい戦争が続けば続くほど、国民の不満、失望、疲労、憂鬱さが大きくなり得ます」と発言していました。ウクライナ兵は、「ロシアに負けるのも地獄、停戦になるのも地獄。勝利しかない」と言っていました。647万人超えの人々が国外避難民として祖国から離れて暮らし、1万人以上の市民が犠牲となり、兵士も7万人以上が戦死しているとのことです。EUや米国からの支援もどうなるか分からない中で、ロシアはイランや北朝鮮から武器を調達しています。ロシアの属国になりたくないウクライナは戦い続け、ロシアはウクライナを属国にしようと強行姿勢です。戦争が長引けば、今後もたくさんの命が権力者・独裁者・傲慢な人々の犠牲となることでしょう。そのような現状を神様が最も悲しんでおられるはずです。

 一体、どれだけの数の人々がこの無意味な侵略の犠牲になれば良いのでしょうか。世界を見渡しても国家間の対立、緊張が高まっています。世界の各国は、国内外に数えきれないほど多くの問題を抱えています。他国のことよりも自国のことを大切にしよう、自分たちの生活を豊かにすることを優先的に選び取ろうという声が高まっています。パレスチナの地で繰り返されていることも、アフガニスタンやシリアでの紛争も終わりが見えません。世界中の人々の命と生活が軽んじられていると強く感じます。命の尊厳が守られていません。

 そういう中で、わたしたちは2月14日から受難節を過ごしています。世界中のキリスト教会では、イエス・キリストの十字架への道に想いを馳せる、そう共通認識をもって過ごす期間です。しかし、わたしたちは、「十字架への道」ということを自分のこととしてどれだけ真剣に受け止めているでしょうか。わたしたちに罪の赦しと救い、新しい命を与えるために、イエス・キリストがわたしたちに代わって十字架の道を、贖いの死へと進まれます。

 それなのに、わたしたちはイエス様の犠牲を軽く無視をして、自分の欲望を満たそうとしてしまいます。そのために誰かのものを貪ったり、誰かの大切なものを無慈悲にも奪ったり、身勝手な言動で誰かの心を平気で傷つけ殺しています。イエス様がわたしたちのために苦しみの道を歩んでいるのに、わたしたちは自分の名声、成功、快楽、欲望をひたすら求めています。しかし、もしかしたら、わたしたちは、「心から主に従いたい」という思いと「自分自身の欲望にも従いたい」という思いの狭間で苦しみ悶えているのではないでしょうか。

 さて、今年のレント・受難節にどのような御言葉の取り継ぎをすべきかいろいろ思い巡り、祈り求めましたが、やはり神様の愛、イエス様の愛を語ろうと思わされ、3月24日までの4つのメッセージを準備しました。来週は第一ペトロの手紙の2章から、その他はヨハネ福音書13章から御言葉の分かち合いをさせていただきたいと準備していますが、今朝は旧約聖書のエゼキエル書の18章が導かれました。今のわたしたちに必要なのは、各自が悔い改めて神様に立ち返ることに尽きると感じます。誰かの罪や間違いを指摘して悔い改めなさいという資格や効力はわたしたちにはありません。わたしたちにできるのは、神様に対して犯す自分の罪や間違いを認め、悔い改めて神様に立ち返るだけ、日々その繰り返しです。

 さて、預言者エゼキエルと預言者エレミヤという二人は、イスラエルの歴史の中で同時期に神様にお仕えした預言者で、彼らは「個人主義の預言者」と呼ばれることがあります。それ以外の預言者たちは「イスラエル」、あるいは「ユダ」という国、国民に対して神の言葉を語り、国全体としての悔い改めを促しましたが、エゼキエルとエレミヤは神に対する各自の責任、一人ひとりの責任を問います。例えば、エゼキエル書18章2節以降を読んでゆきますと、親の罪の代償をその子どもが負わなければならないと考えられていた当時の考えを否定し、親は自分の罪の代償を払うべきで、子どもには責任はない、その反対も言えて、子が犯した罪の代償を支払う責任はその子の親にはなく、罪を犯した子どもが償うべきと言うのです。バビロニア帝国との戦いに負けて捕囚の民となる責任は親や先祖にあって、自分にはないと不平不満を言う民に対して、あなたたちも神に対して罪を犯し続けているからだとエゼキエルたちは言うのです。神様は18章3節で、「わたしは生きている」と言われますが、その意味は「あなたがた一人ひとりの心の内にあることも、その心から出てくる言動も、すべてわたしは見て、聞いて、知っています」と神様が言っておられ、その直後に、「罪を犯した者は必ず死ぬ」と言って、わたしたちの振る舞いにしっかり釘をさすのです。

 英語では罪をsinと言います。このsinはラテン語由来の言葉で、「的を外す」という意味です。ダーツというゲームがありますが、放ったダーツが的を外すとすべてsinと呼ばれます。聖書に記されている「的」とは、神様の御心です。ですので、わたしたちの思いや考え、言動が神様の御心から外れていれば、それはすべて「罪」なのです。欲望は罪なのです。ですから、快楽や欲望を常に求めて生きるのは、すべて罪に生きることなのです。

 聖書には、これだけの罪を犯したらあなたは必ず死ぬとは記されていません。大きな罪を犯したから死ぬのではなく、どんなに小さな罪であっても、罪の大小に関わらず、罪を犯した限り、その人は必ず死ぬと言われるのです。しかし、どうぞ誤解をしないでください。神様は、誰の死をも望んでおられません。神様は、わたしたちをいずれ死ぬ存在として造られたのではありません。永遠に神様と共に生きる存在として造られたのです。ですから、神様はわたしたちが罪の中に生き続け、罪に埋もれて死ぬことを望んでおられません。神様は、誰の死も、止むを得ない、致し方ないと決して思われません。罪にある人が悔い改めて神様に立ち返ることをひたすら待ち続けておられるのです。その悔い改めも強要されず、わたしたちが自分の意思で悔い改めることを待たれるのです。

 エゼキエル書18章21節から23節を読みたいと思います。「21悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。22彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生きる。23わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。今まで神様に背を向けて生きてきた悪い人であっても、悔い改めて神様に立ち返って生きるならば、その人は神様の愛によって正しい人に造り変えられ、生きる者とされると神様は言われます。

 ここに「正義と恵みの業を行うなら」とありますが、18章6節から9節と15節から17節に正義と恵みの業とは何かが記されています。すなわち、主なる神以外のものを神とせず、隣人のものを貪ったり、奪ったり、抑圧せずに、社会の中で小さく弱くされている人々の必要を満たして心から仕えること、それが神様の掟に従って歩むことであり、正義に生きることであり、そのように生きる人は必ず生きると神様は忠実で誠実な僕に約束されるのです。

 それでは続く24節を読みましょう。「しかし、正しい人でも、その正しさから離れて不正を行い、悪人がするようなすべての忌まわしい事を行うなら、彼は生きることができようか。彼の行ったすべての正義は思い起こされることなく、彼の背信の行為と犯した過ちのゆえに彼は死ぬ。」とあります。今まで正しく生きて来た人がその正しい道を離れ、悪の道に歩むならば、それまでの正しさを神様は覚えずに、その咎のためにその人は死ぬと言うのです。

 そこに神様の不公平さがあると言う人はどれくらいおられるでしょうか。都合の良い律法主義者たちが口を揃えて「主の道は正しくない。主の判断は間違っている」と25節で文句を言うのです。それに対して神様は、25節後半から28節で「聞け、イスラエルの家よ。わたしの道が正しくないのか。正しくないのは、お前たちの道ではないのか。26正しい人がその正しさから離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正のゆえに死ぬのである。27しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。28彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」と言われ、宣言されます。29節も同じ言葉です。神様はいつも公平なお方です。色眼鏡でわたしたちをご覧になられません。その神様が「わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く」と言われるのです。

 しかし、主なる神様は、誰の死も望んでおられません。神様が望んでおられるのは、わたしたちが心から悔い改めて神様に立ち返って、神様の許で生きることです。30節の後半から32節にこうあります。「悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。31お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。32わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と言われ、悔い改めて、新しい命に生きる道に生きよ、愛を受け取って救いを得よとわたしたちを招いてくださるのです。

 悔い改めるとは、自分の無力さを神様の前で嘆くことではありません。神様の御前で、自分のこれまでの間違った生き方を認め、心から謝罪し、神様の愛と憐れみの力によって新しい者に変えられることです。その神様の愛をわたしたちにはっきり示すために、神様から救い主として遣わされた神の御子イエス・キリストが十字架の道を歩まれ、十字架上でその尊い命をわたしたちに与えてくださったのです。それは、イエス様を通してわたしたちが悔い改めへと導かれ、神様に立ち返って、神様の愛の中で永遠に生きる者とされるためです。