宣教「悩みの日にわたしを呼べ」 大久保教会副牧師 石垣茂夫 2020/07/19
招詞:詩編50:15 (口語訳聖書p791)
聖書:テサロニケの信徒への手紙二2章13~17節(新共同訳聖書p381)
テサロニケ教会の問題
この朝は、お読みしましたテサロニケ第二の手紙から導かれたいと願っています。
伝道者パウロは、ギリシャのフィリピに次いで、地域で最大の都市テサロニケ、そのユダヤ人の会堂でキリストの福音を告げました。その集会に集ったユダヤ人をはじめ、ギリシャ人たちも改宗し、教会の形成に向けて目覚ましい成長を遂げて行きました。ただ、福音の広がる勢いがあまりにも早く強かったために、妬(ねた)みを買ったのでしょうか、福音を受け入れた者たちは、それぞれの同胞から仲間はずれにされ、激しく暴力的に攻撃される事態となりました。たまらず、パウロ一行は町から退去せざるを得なくなりました。この様子は使徒言行録17章に詳しく書かれています。
パウロたち指導者が去った後も、町の多くのユダヤ人たちは、「大工のヨセフの子が救い主になるはずはない」、「十字架で死ぬようなメシアは本物ではない」として受けいれず、教会に加わったユダヤ人を責めたてました。教会のギリシャ人信徒たちはといえば、これまでは「ローマ皇帝を神」として崇めて来たのですし、様々な偶像を拝む習慣がありありましたので、それらを捨てたことへの迫害を受けることになりました。
そうした外からの迫害にめげず、小規模なその集会は成長を遂げていましたが、新たな問題が発生していました。それは集会の内部で起きてきた「主イエスの再臨はいつなのか」という問題でした。
これは、2000年の間、「キリストの日」を待っている、現代の私たちに取りましても、変わらず大事な問題なのです。
テサロニケで「再臨の信仰」が起きた原因の一つは、パウロ自身が度々集会で「主イエスの再臨は近い、盗人のように来る」(第一:5章)と、言っていたことによるものです。これを聞いて信仰生活を送っていた信徒の中には、「主の日、再臨」はいつなのか、遅いではないかと焦(あせ)り、疑いを持つ人たちが起きていました。
もう一つは、「主の日は既に来てしまったと言う者がいた」(第二:2:2)ということです。そうした人たちは「怠惰な生活」(3:6-7)をしていると批判されています。
熱心な信徒から見ると「怠けている」と見られたのでしょう。この「怠け者の信仰者」について調べてみたとき、これはただの「怠け者」ではないと思うようになりました。
現代の私たちに当てはめると、「これまでの土着の信仰や習慣から離れることが出来ず、キリストの信仰一筋になれない人たち」という表現になると思います。そうした苦悩を持つ人々が増えていったと想像されます。
今朝は、この問題を私たちに繋がることとして導かれたいと願っています。
二つの信仰の狭間(はざま)で
私は、後者の「信仰と信仰との間で苦しむ人々」について思いめぐらしている中で、ある牧師が出会った、一人の夫人との経験談を知りました。
『この夫人は大変有名なお寺の娘さんでしたが、クリスチャンの青年と出会い、親兄弟の猛反対を受ける中で、家とは断絶して、家庭を持ち、二児の母となりました。子どもが幼稚園に通い始めた32歳になったとき、癌を患い、症状が判明した時には余命数か月と宣告されました。
彼女は、自分が育ってきた仏教の教えは真実だと、これまで確信して生きて来ました。同時に、夫の信仰・キリスト教への理解を常に示し、教会の礼拝にも度々訪れていたのですが、ついに洗礼を受けないまま、病に犯されて末期を迎えました。
病の中、仏教とキリスト教、二つの信仰の間で苦悶し続けたある日、彼女は夫の教会の牧師との面談を希望しました。その日牧師から「人は、永遠の命の中にあり、全ての人は救われる」、「あなたが仏教で得た救いも、私は信じている」と聞いた時に、彼女は大変安堵したのでした。
いよいよ葬儀の事を決めなくてはならなくなったとき、彼女はこう願い出ました。葬儀は教会で、司式は牧師にお願いしたい。だだ、結婚以来断絶していた、実家の僧侶である父と兄に、教会で読経してもらいたいと願ったのでした。彼女は自分の信念にこだわりながらも、その葬儀を通して、何よりも、僧侶である自分の父と、クリスチャンの夫をつなぐことを願っていたました。そしてその思いを貫き、実際の葬儀はそのようにして教会で行われ、彼女はその生を終えました。』そのような経験談でした。
誰もが、このような経験が出来るとは思えないのですが、どちらも捨てられないという夫人の苦しみが伝わって来ました。同時にこの選択を迫られ、キリストの愛と赦し中に委ねて葬儀を行うしかなかった、牧師と教会の深い苦しみを思いました。このことを「宗教的に不徹底だ」と責めることは出来るでしょうか。皆さまはどのように思われるでしょうか。
パウロにとって、熱心過ぎる人も、不徹底な人たちも、どちらもパウロのテサロニケ宣教の最初の稔(みのり)です。テサロニケ教会での収穫として得た大切な一人一人を、パウロは排除することはしなかったのです。
こうした人たちを含めて、パウロはいつも「主に愛されている兄弟たち」と呼んでいきました。
13節 しかし、主に愛されている兄弟たち、あなたがたのことについて、わたしたちはいつも神に感謝せずにはいられません。なぜなら、あなたがたを聖なる者とする“霊”の力と、真理に対するあなたがたの信仰とによって、神はあなたがたを、救われるべき者の初穂としてお選びになったからです。
ここに「初穂」(はつほ)という言葉があります。
パウロにとっては、問題の人物が、教会の中でどのように見られようとも、神が救いにあずからせようと選んだひとりであり、テサロニケ教会の初穂(はつほ)であったのです。
私の知人の男性に「初穂」(はつお)さんという名前の方がいます。珍しい名前ですが、コリント一(16:15)の言葉から、両親が名付けたそうです
日本語の「初穂」(はつほ)とは、収穫の最初の稔(みのり)として、大切に扱い、神にささげる最初の収穫物のことです。パウロにとって、テサロニケ教会の一人一人は、皆、「初穂」のように、大切な存在であると強調した言葉です。
テサロニケの人たちはみな、パウロの言葉を聞いてキリストを知り、キリストの再臨という終末の時を知りました。しかし、終末はなかなか来なかったのです。パウロも、彼ら以上に悩んだことでしょう。
しかしこのような、悩みの中でこそ、そこから新しく旅立とうと、パウロはこの後で祈ったのでした。
15節以下は、パウロの奨めであり祈りです。
2:15 ですから、兄弟たち、しっかり立って、わたしたちが説教や手紙で伝えた教えを固く守り続けなさい。
2:16 わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、
2:17 どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。
私たちの今の状況も、まさに苦しみ呻く以外にないのかもしれません。ウイルス感染拡大に始まって世界中の人々が呻(うめ)いています。窮状を訴える人々の目に涙が滲(にじ)んでいるのを何度も見ています。
このような時にこそ、私たちと共に歩もうとしてくださる神を見上げて祈ろうではありませんか。
“悩みの日にわたしを呼べ”
“悩みの日にわたしを呼べ”という言葉が招詞としてわたしたちに与えられています。
二十世紀最大の神学者、スイスのカール・バルト(Karl Barth 1886-1968)という方が居られました。このバルトの説教集で“悩みの日にわたしを呼べ”というタイトルの説教集があると知りまして捜したのですが、翻訳はされていないようでした。その代わり、2018年、バルト召天50年を記念して出版された説教選集『しかし、勇気を出しなさい』という書物を見つけました。カール・バルトの生涯の中から代表的な説教12編を選んで掲載されています。
これを読んで感じたことは、難しいと思っていたバルトの文章が、晩年に行くに従って言葉が分かりやすくなっているということでした。特に、バーゼル刑務所での説教は、とても分かりやすい言葉の説教になっていました。
カール・バルトは、第一次世界大戦・ナチスの時代・第二次世界大戦を経験しています。教会から、戦争や原子爆弾開発に反対し、独裁者たちを批判し、多くの平和を求めるアピールを発信してきたことで、今なお多くの熱烈な支持者が居り、多くの逸話(いつわ)が残されています。
その中でよく知られている事ですが、晩年と言っても可なり長い年月、バルトは刑務所でしか説教をしなくなったのです。あるとき、刑務所で、継続して説教をしてほしいと依頼されたものの、最初は気が乗らず、一度だけと思って参加したのです。ところが、その礼拝にとても感動し、それ以後も引き受けるようになったそうです。 やがて教会で説教することを一切止めてしまい、これからはもう、刑務所でしか説教をしないと宣言してしまいました。
皆さまは、刑務所に入ったことはないと思うのですが、私は何回か刑務所に入ったことがあります。何かの罪を犯して入ったのではなく、キリスト教の集会のために刑務所に行ったのです。
60年以上前のことですが、わたしの十代のころは、日本の“キリスト教ブーム”の時代でした。毎年、刑務所からの要請で、クリスマス集会をしていました。教会からは30名ほどの教会員が同行して牧師の働きを応援しました。洗礼を受けたばかりのわたしも、少しドキドキしながら刑務所の門をくぐりました。
小菅刑務所をご存知と思います。昨年はカルロス・ゴーン(Carlos Ghosn)さんが居ました。現在は元法務大臣夫妻が入っています。当時の小菅刑務所には、300名ほどが入る講堂があり、そこが一杯になるほどの受刑者が集まりました。これは強制的な集会ではなく、希望者の集まりでした。わたしたちは壇上で聖歌隊賛美をしました。後半は、一緒に座ってクリスマスの讃美歌を歌い、伝道説教を聞きました。受刑者は皆同じ服を着て、非常に静粛に、しかも集中して説教を聞いていたのが印象に残っています。バルトも、そうした真剣な雰囲気を感じ取ったようです。刑に服している人たちを前にして、バルトはその真剣な態度に打たれ、晩年の長い期間、説教をするのはここだと決めたのでした。
招詞には、バルトも選んだ詩編50編15節をお読みいただきました。
この詩編の作者の思いは次のような事だとバルトは言っています。
あなたがたは確かに神殿では、形式的には立派に整えて礼拝をしている。
そして、平静な時には、神を信じると、皆が口にしている。
では何故、実際の苦難の日に、あなたがたは神を呼ぶことが無いのだろうか。
「私こそ神、あなたの神」なのに。
私たち神の民は、最終的には神に呼び出されて神の前に立ち、神の裁きの座に立たされるのです。それは罰するためではなく、神が、わたしたちと真実な関係を結びたいと願っていてくださるからです。
そのような神を伝えてくださった主イエス・キリストと父なる神に感謝しましょう。聖霊の導きをいただき、“悩みの日にわたしを呼べ”という言葉がありましたように、わたしたちは日々神の前に立ち、それぞれの苦しみの中で、心から祈り願いつつ歩ませて頂きましょう。[祈り]