「愛の神にとどまる人の確信」 七月第三主日礼拝 宣教 2025年7月20日
ヨハネの手紙一 4章7〜21節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も、皆さんとご一緒に礼拝を神様におささげすることができて感謝です。今週は、暑い日々が続くようですが、大久保教会の創立60周年記念礼拝をおささげする27日は曇りで、最高気温も32度という予報です。記念の礼拝ですので、26日まで体力を温存していただき、27日の朝にはこの礼拝堂へお集まりいただきたいと切に願います。
記念礼拝は、過去を振り返るというよりも、教会の未来に向けて主に信頼する礼拝、主の力強い導きに従って歩む決心の時となることを信じます。賛美をもって主に喜びと感謝をささげると共に、わたしたちの教会が今後も神様の祝福に与り続け、世の光、地の塩として地域に生きる人々に、神様の愛を必要としている方々に誠実に仕えて歩む教会としてあり続けるために、F先生を通して語られる神様からの御言葉に耳を傾ける時といたしましょう。
さて、7月は、「つながる、宿る、とどまる」という意味のある「Abide」という言葉にフォーカスして、イエス様を救い主と信じてつながり続けることの大切さをヨハネによる福音書15章から、神様の近くで永遠に宿り続ける人はどのような人かを詩編15編から聴きましたが、今朝は愛の神であられる神様にとどまり続けるために、わたしたちは常に何を大切にしたら良いのかを第一ヨハネの手紙の4章から聴いてゆきたいと願っています。日々の生活の中で神様の御心を知り、何を大切にすべきかがはっきり分かると、確信をもってイエス様につながり続けることができるということをご一緒に聴いてゆきたいと思います。
しかしその前に、このヨハネの手紙の背景をお話したいと思います。イエス様の弟子ヨハネは、彼が福音を伝えてイエス様を救い主と信じた人々が集う「家の教会」へ手紙を送りました。その理由は、その「家の教会」のクリスチャンたちが信仰上の大きな危険にさらされていたからです。イエス様の教えではない間違った福音を偽教師たちが教会内で教え、教会内に分裂が生じ、クリスチャン同士が信頼し合えない、愛し合えなくなり、教会を離れてしまった人たちが教会から遠のいたり、信仰を捨てようとしていたからです。そのようなクリスチャンたちを神様からいただいたイエス・キリストを救い主と信じる信仰に踏みとどまらすために、イエス様につながり続けるように励ますためにこの手紙は書かれました。
このヨハネの第一の手紙には、二つの大きな宣言がなされています。一つは、教会に入り込んでクリスチャンたちを惑わす人たちによってもたらされた大きな「闇」、苦しみ・苦悩の中にあっても、「神は光である」(1:5-3:10)という宣言です。イエス・キリストという光を与えることによって、神様はわたしたちとつながり続けてくださるということを伝えて励まします。闇の中にいると、何が真実で何が嘘か分かりません。ですから、混乱し、神様が悲しまれることを行なってしまいます。そういう闇の中でもがき苦しんでいるわたしたちのただ中にイエス・キリストという光を与え、救いへ招いてくださるのが神様です。ヨハネは、光の中を歩むとは、イエス様の言葉を守ること、聞き従って生きることと言います。
さて、もう一つの大きな宣言は、そのような霊的な混乱の中にあっても「神は愛である」(3:11-5:17)という宣言であって、どのような苦しみを通らされても、この神様の愛に踏みとどまり続けなさいという励ましです。「神の愛に踏みとどまる」とは、偽教師たちが否定したイエス様の十字架の死と復活を信じ続け、この信仰に踏みとどまるということです。その理由は、神様のわたしたちへの愛がイエス様の十字架の死と復活が表されているからです。
さて、今朝は先ほどお読みした4章7節から21節に聴きますが、この4章には「愛」という言葉が30回も用いられています。そしてその30回のうちの29回がこの7節から21節で用いられています。ギリシャ語には「愛」を表す言葉が4つあります。一つは異性に対する愛情を表す「エロース」という言葉。二つ目は友情とか友愛を表す「フィリア」です。三つ目は親が子を愛することを表す「ストルゲー」という言葉です。しかし、この4章には、この「エロース、フィリア、ストルゲー」という言葉は一回も出てきません。
この4章に出てくる「愛」という言葉はすべてわたしたち人間に対する神様の愛を示す「アガペー」という言葉が用いられています。この「アガペー」という愛は、神様から出た愛です。神様からすべての人に対して注がれる一方的で豊かな愛です。すべての人は、神様によって造られ、愛され、生かされ、神様を賛美する者として存在しているのですが、罪ゆえに、わたしたちは自分を「価値のない者」と思い込んだり、傲慢さゆえに他の人を「価値のない者」と見下したり、差別したり、裁いたり、押さえ込もうとしてしまっているのです。
偽教師たちによって惑わされたクリスチャンたちの大半は、お互いを愛せなくなっていました。惑わされてしまったゆえに「神様の真実な愛」と「人間の偽りの愛」の識別ができなくなりました。しかし、そのような間違いを正そうとしてヨハネはこの手紙を書き送り、反キリストの霊ではなく、神様の霊・聖霊に従って歩みなさいと励まします。救い主イエス・キリストにつながり続け、聖霊に導かれる者は、神様に属する者であり、愛の神様につながれた者であるとはっきり示し、イエス様とその福音に踏みとどまるように励まします。
7節で、「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るものです」とヨハネは励まします。愛の源である神様から愛を受けて、互いに愛し合いなさいと励まします。わたしたちは、人間の愛だけでは愛し合えないからです。互いに愛し合える人たちは、神様の愛を知って、信じて、日々受け取っている人たちで、神様の愛で互いに愛し合う人たちです。
8節に「神は愛だからです」とありますが、ヨハネは「神は愛してくださる」とは言わず、「神は愛である」と神様の本質を示します。神様そのものが愛であるのです。続く9節と10節には、神様がわたしたちを過去と現在においてどのように愛してくださっているのかが記されています。すなわち、「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とあります。
「ここに愛がある」という「ここに」とはイエス様の十字架を指しています。このイエス様の犠牲の愛が愛し合うベースとなりますので、11節で「神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」とヨハネは励ますのですが、このイエス様の十字架は「わたしの救いのためである」という罪の悔い改めと救いへの感動・感謝が基礎にないと、神様の愛をフルに受けられず、わたしたち人間の有限な愛・不完全な愛だけで互いに愛し合うことになりますので、愛は空回りして痛み苦しむことになるのです。
12節は少し後回しにして、13節を先に読みましょう。ここに「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました」とありますが、わたしたちの不完全さを補うために聖霊がわたしたちの上に与えられます。この聖霊が、わたしたちの心を造り変え、神様がいつも共にいてくださること、愛の神様が愛してくださっている事を感じさせてくださり、イエス様を信じて、この救い主につながり続けることが重要であると励ましてくれるのです。
さて、12節です。目に見えない神様とその愛を人々に示す方法が三つあります。一つは2章6節になりますが、「神のうちにいつもいるという人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」とあります。つまり、イエス様が愛してくださったように、わたしたちも互いに愛し合うことが神様とその愛を人々に示します。
二つ目は4章12節にあるように、わたしたちが互いに愛し合う中で、愛の神様が共に生きて働いておられることを示すことが神様の願いです。三つ目の方法は14節と15節にあります。わたしたちが日々の生活の中でイエス様が救い主であることを公に言い表すことです。出会ってゆく人、目の前の人にクリスチャンであることを言うこと、これは教会の使命でもあります。16節にあるように、「わたしたちは、イエス・キリストを通して神様の愛を知り、信じ、その愛の中に生かされています。神は愛です。」と証しすることが御心です。
17節の前半に「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます」とあります。「こうして」とはこの手紙の中で伝えられてきた3つの大切な真実です。1)神様は、救い主イエス・キリストを通してわたしたち一人一人を愛してくださっていること、2)イエス様がわたしたちの罪を十字架上で贖ってくださり、わたしたちの罪は完全に赦されていること、3)目には見えないけれども聖霊がいつもわたしたちといつも共にいて守り導き、イエス様を証しする力を与えてくださるということです。
この三つの真実を信じる時、救いの確信が与えられ、すべての不安や恐れから解放されます。18節にあるように、神様が与えてくださる愛は死に勝利した愛ですから、その愛はすべての恐れや不安を締め出します。この世が与える厳しい現実問題を恐れたり、不安になるのではなく、神様の愛によってすべての不安や恐れを締め出し、平安のうちに生きてゆきましょう。その平安を与えてくださるのも愛の神様であり、救い主イエス・キリストなのです。
ヨハネは、人間の愛ではなく、神様の愛を受け取って、互いに愛し合いなさいと励まします。19節に「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とありますが、すべての愛、恵み、祝福は神様から与えられます。この愛に信頼して歩んでまいりましょう。愛の神様にとどまり続けましょう。神様はわたしたちと共に歩んでくださいます。イエス様がわたしたちを愛してくださったように愛し合い、イエス様が十字架上で示してくださった愛を分かち合って、この教会で共に前進してまいりましょう。