「憐れみと厳しさを併せもつ神」 3.11を覚える礼拝 宣教 2019年3月10日
ローマの信徒への手紙11章11〜24節 牧師 河野信一郎
東日本大震災で受けた悲しみ、痛み、苦しみを今も負って生きておられる方々のことを思うと、今朝の私の心は、それほど軽やかではありません。しかしそれでも、全知全能であり、全ての事柄の主権者であられる神様に委ねてゆく。それでも主なる神と賛美と祈りと礼拝をおささげしてゆく。そうすると、わたしたちの全ては主の御手の中にあることを信じて、与えられている命を感謝して、それを喜んで、そして大切に生きてゆくことができるのではないかと思いますし、それが神様の切なる願いではないかと思います。
明日3月11日は、東北の地に生き続ける人々、福島第一原発事故のために住み慣れた街を離れることを余儀なくされ、各地に離散して生き続けている人たちにとって、愛する人の「命日」です。「行ってらっしゃい」と別れを告げることも、「ありがとう」、「愛している、大好きだよ」とも言えずに、一瞬にして引き裂かれた家族や人の関係性、その裂かれた痛みを明日再び味わわなければない。そのような日を迎える方々になんと慰めを言って良いか分からない中で、しかしその方々のことを忘れないで生きることが、私たちにできる最低限のことだと思います。そのことを心に覚えつつ、特に今日と明日を過ごしてゆきたいと思います。
今朝もローマの信徒への手紙からご一緒に神様の言葉、語りかけを聴いてまいりたいと思いますが、その前に、今朝の礼拝への招きの言葉として読んでいただきました詩編147編1〜3節を読みたいと思います。「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか。主はエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」とあります。この言葉は、東北の人々にも、そしてわたしたちの中に痛み苦しんでいる人々に語られている言葉ではないでしょうか。
イスラエルの歴史を見ますと、近隣国との戦いに敗れ、エルサレムは何度も陥落し、神殿は崩壊し、イスラエルの民は捕囚の民となります。その大元の原因は、イスラエルの民が主なる神様から離れ、隣国の偶像の神々を礼拝したからです。その後、パウロ先生の時代の少し後ですが、西暦70年にローマ帝国によってエルサレムが完全に陥落しますと、それから1948年にパレスチナの地に帰還が始まるまで、約1900年もの間、彼らは国なき民、流浪の民となって世界中に離散し、第二次世界大戦時のナチス・ドイツによる大虐殺をはじめとする様々な迫害を受け続けます。1948年からパレスチナの地に帰還し、イスラエル共和国を建国したものの、パレスチナ人たちとの衝突事件、悲しむべき惨事はずっと繰り返されています。しかし、詩編の詩人は、「主なる神は必ずエルサレムを再建し、イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる」と宣言し、イスラエルの民に向かって主なる神はこのように約束してくださるから「神を信じ、神に賛美をささげよう」と呼びかけます。
8年前の2011年に、東北地方の太平洋側海底で起こったマグネチュード8.8の地震によって、その地震で引き起こされた10メートルから16メートルの津波、また火災などによって、これまでに1万5897人が亡くなり、2533人がいぜん行方不明となっています。福島第一原子力発電所の壊滅的な事故で全国に離散されている方々の数は、最近の報告はありません。引き裂かれた家族、失ったコミュニティの数は数え切れません。あれから8年経った今でも、私たちには慰めの言葉が見つかりません。しかし聖書には、「打ち砕かれた心の人々を癒し、その傷を包んでくださる神がおられる。離散した民、追いやられた人々を集められる神がおられる」と宣言しています。私たちは、この癒し主であり、愛と憐れみ豊かな神様を信じて、被災地に生きる人々、全国に離散している人たちのために執り成しの祈りを祈り続けることが恵みとしてできるのです。
先週と先々週の日曜日、私たちは「不従順で反抗する民を憐れみ、救いの手を差し伸べ」続けてくださる神様がおられるという真実を、その救いの御手として私たちに手を差し伸べてくださる救い主イエス様の愛について聴きました。しかし、それでも呪いの木・十字架に架けられた者がメシア、救い主であるはずがないとイエス・キリストを拒否し続けた結果、イスラエルの民のほとんどが神様の祝福から切り離されることになったということも聴きました。
11章1節で、「では、尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか」とパウロ先生は問いかけますが、すぐに「決してそうではない」と断言し、5節では、「現に今も、恵みによって、神の憐れみによって選ばれたものが残っています」と言っています。先ほども申しましたように、イスラエルの歴史は迫害の連続の歴史で、第二次世界大戦のナチスの支配下、ヨーロッパで600万人以上のユダヤ人が無残に殺されましたが、その死の危険から免れた人たちが生き残りました。それはすべて神様の憐れみであり、恵みであるとパウロ先生は断言します。そのように、悲惨な状況の中、不信仰な民であっても、神様はそれでもイスラエルを憐れみ、その中から「残される民」を選ばれて来た、それはこの残された人々によって、イスラエルの民に救いを与えるためだとパウロ先生は言うのです。
被災地に生きる残された人々の歩みは、これからも大変な道のりでありましょう。しかし、この残された人々を用いて、神様は東北の地を復興されるのです。そのためにまずその人々の打ち砕かれた心を癒し、その傷を包んでくださいます。そのために教会は立てられ続け、主に従う者たちがそこに生かされています。そのことを信じて祈り、支援し続けてゆきたいと思います。
先週の神様の語りかけから聴いたもう一つのこと、それは大半のイスラエルの民が十字架に架けられたイエス様をメシア・救い主と信じることができなかったのは、神様が彼らの心をかたくなにし、彼らに鈍い心、見えない目、聞こえない耳を与えられたからだと言う衝撃的なことでした。
パウロ先生は、11章の8節から9節で、律法の書・申命記、預言書・イザヤ書、そして詩編を引用し、つまり旧約聖書全体を通して、確かにイエス様を信じないイスラエルの民にも責任があるけれども、彼らの心を頑なにしたのは神様であると言っています。しかし、それと同時に、その中から救われる者たちを選ばれたのも神様であると言っています。つまり、イスラエルの歴史の中で起こるすべての出来事は、神様の主権、神様の愛と憐れみによるということです。
しかし、神様はいたずらにそのようにされているのではありません。人の心をかたくなにされる神は、もう一方で、そのようなかたくなな心を柔らかにできる憐れみのお方であるということを聴きました。今朝は、そのような神様は、憐れみ深い神であられるけれども、同時に厳しさを併せもつお方であり、イスラエルの歴史においても、そしてわたしたちの人生においても、しっかりとしたご計画をお持ちであることをご一緒に聴いてゆきたいと思います。
今朝の聖書箇所はいつもより長いですが、ここから三つのことを心に留めたいと思います。まず一つ目は、イスラエルの民がつまずいたのは、わたしたち異邦人を救うご計画が神様にあったからと言うことと、わたしたち異邦人が救われることによって、イスラエルの民たちに「ねたみ」を起こされるご計画が神様にあったと言うことです。
11節をご覧ください。「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったと言うことなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼ら(ユダヤ人)にねたみを起こさせるためだったのです」とあります。
みなさん、想像してみてください。もしすべてのイスラエルの民がイエス様を救い主と信じていたら、パウロ先生や使徒ペテロは異邦人伝道に出て行ったでしょうか。おそらく行かなかったと思います。しかし、イスラエルの民たちがイエス様につまずき、拒んだので、キリストの福音は、異邦人たちであるわたしたちに宣べ伝えられていったのです。もしイスラエルの民の全てがイエス様を信じていれば、キリスト教はおそらくユダヤ人の宗教にとどまっていたはずですが、そうならなかったのは、神様の愛と思いが異邦人であるわたしたちにも向けられ、注がれていたからです。
しかし次のことが実に難解です。「彼らにねたみを起こさせることが神様の思いであった」と言うことですが、これはどう言うことでしょうか。それは、異邦人たちが救われることによって、イスラエルの民にねたみを起こさせ、その中の幾人かが救われるためであったと言う神様のもう一つの目的があります。
神様につながっていると、それだけで神様の祝福を受け、日々感動し、喜んで生きられますが、神様につながっていなければ、どんなに祈り求めても神様から祝福を受けることは決してできません。日々の生活になんの感動も、喜びも、平安もありません。生きている意味を見出せず、生きる気力も与えられません。しかし、イエス・キリストを救い主と信じて、神の救いの御手を握った異邦人は、イスラエルの民が本来受けるはずであった祝福を受け、大いに祝されるようになりますので、その喜びや感謝に満たされた姿を見るユダヤ人たちは、クリスチャンをねたみ、それが逆にモーティベーションとなって、イエス様を知ろうと思う者、イエス様を信じる者がそこから出てくる、それが神様の狙いだとパウロ先生はいうのです。
12節をご覧ください。「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となる。それも神様の御心にかなった素晴らしいこと、しかし、ねたみを通してイスラエルの民が救いにあずかるとすれば、どんなにか素晴らしいことでしょう」とパウロ先生は言っています。
13節から15節でも、基本的に同じことが言われています。少しリフレイズします。「異邦人のあなたがたが救われるのは使徒である私の務めであり、光栄なことです。しかし、わたしはなんとかして自分の同胞たちにねたみを起こさせ、そのうちの幾人かが救われることも切望しているのです。神様から切り離されて死んでいた者が、キリストによってつなげられ、再び命を受けるならば、そんなに嬉しいことはありません」とパウロ先生は言います。
16節で、「麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」とパウロ先生は言いますが、難解な言葉です。しかし、「麦の初穂」と「根」というのは、アブラハムのことです。アブラハムが神様に忠実であり、その信仰によって聖別されたので、その子孫であるイスラエルの民も聖なる民として残る。神様は決してイスラエルを捨てることはせず、アブラハムの信仰につながっている民、神を信じる「残りの者たち」を救い、彼らを聖別し、用いるということです。それは、神様のお決めになったことで、神の御心はイエス様によってすべて成就するのです。
心に留めたい2つ目のことですが、17節から21節に記されていることです。それは、異邦人であるわたしたちは救われていることを誇ってはいけないということ、わたしたちが救われているのは神様の愛と憐れみ、恵みによることを忘れないようにということです。17節から18節を読んでゆきましょう。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。」ここまでは皆さんも理解できると思います。「根」というのはアブラハムであると先ほど申しました。この信仰のラインに私たちは驚くべき「接ぎ木」という方法で、恵みのうちにアブラハムの子孫としてつなげられ、神の子とされたのだから、決して誇ってはいけない。自分の努力と信仰で生きているのではなく、神様と色々な人たちに支えられて生きていることを覚え、この「支えられている」という大きな恵みに感謝して、謙遜に生きなさいという勧めがここにあると思います。
19節と20節。「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」とパウロ先生は注意を促します。なぜ恐れなければならないのか。その理由が21節にあります、「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、おそらくあなたをも容赦されないでしょう」と言っています。救われたことを決して誇らず、謙虚に生きるということです。
わたしたちの心に留めたい三つ目のこと、それは神様の慈しみと厳しさをいつも考えて生きるということです。22節を読みたいと思います。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」とあります。「もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」、とっても厳しい言葉です。
わたしは、今朝の宣教題を「憐れみと厳しさを併せもつ神」としましたが、要するに、神様の慈しみと厳しさをいつも考えて生きるというのは、神様を畏れ、神様の恵みに留まり続けるということ、イエス様の手を決して離さないで、イエス様に従って生きるということだと思うのです。それが、厳しい迫害に遭っているローマのクリスチャンたちへのパウロ先生からの励ましであり、この手紙であるとわたしは思わされています。大切なことは、イエス様を信じ続けて、従い続けるということです。大変な環境、時代の中にあっても、主イエス様を信じ、告白し続けること、それがわたしたちの隣り人たちの打ち砕かれた心を主が癒し、その傷を包んでくださることとして用いてくださる、そのように今朝のみ言葉が聴こえてきます。そして、神様を賛美したくなります。
最後に23節と24節を読みたいと思います。「彼らも(イスラエルの民も)、不信仰にとどまらないならば、(つまりイエス様を信じるならば)、(神の祝福へと)接ぎ木されるでしょう。神は、(折り取られた)彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質(罪の性質)に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。」 神様は、イスラエルを再興するご計画があり、そのようにしたいと願っている、その用意はできているということです。しかしここで大切なのは、イスラエルの民の心です。今までの不信仰を悔い改め、慈しみと憐れみに満ちた神様に立ち返るならば、神様は赦して抱きしめてくださり、「おかえり」と言って祝福されるのです。
わたしたちも同じです。わたしたちも今までの不信仰を悔い改め、慈しみと憐れみに満ちた神様に立ち返るならば、神様はわたしたちの罪をイエス・キリストの名によって赦し、わたしたちを抱きしめて、「おかえり」と言って祝福してくださるのです。神様は、憐れみと厳しさを併せもつお方です。日々の生活の中で厳しい現実に直面し、たくさん悩み、苦しみ、傷つくこともあります。しかし、その厳しい現実は、神様の厳しさであり、わたしたちを神様の元に連れ戻すためのものであることを覚えましょう。私たちは、日々、神様とイエス様にゆるされて、愛されて、祈られて生かされています。そのようなわたしたちも、主の御名によって人を許し、隣人を愛し、隣人のために、被災地に生きる方々のために祈る者として謙虚に生きてまいりましょう。