故郷の人々はイエスを誰と云うか

「故郷の人々はイエスを誰と云うか」 二月第一主日礼拝  宣教要旨 2018年2月4日

  マルコによる福音書6章1〜6a節    牧師 河野信一郎

 ガリラヤで宣教を開始された主イエスは、その地方のありとあらゆる土地に行って神の国が近づいたことを教え、悔い改めへと導き、汚れた霊に憑かれた人たちや病で苦しんでいる人たちを次々に癒されました。そしてついにイエスご自身が育った故郷ナザレに初めてお帰りになられる出来事がマルコ6章の1節から6節に記録されています。

 「弟子たちも従った」とありますが、彼らは「イエスさまの故郷で、どのような歓待を受けることができるか」と期待を膨らませ、ナザレの町の人々が大手を振ってイエスと弟子の自分たちを出迎え、連日連夜お祭り騒ぎになるかもしれないと期待していたかもしれません。しかし、事は正反対の方向へ傾きます。

 安息日になったので、主イエスは弟子たちと共にシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の会堂に行き、そこでいつものように教え始められたのですが、それを聞いた故郷の人々が、弟子たちが驚くようなリアクションをするのです。それが2節から3節に記されています。

 「多くの人々は、それを聞いて驚いて言った。この人は、このようなことをどこから得たのだろうか。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちはここで我々と一緒に住んでいるではないか。このように、人々はイエスにつまずいた」とあります。イエスの故郷の人々は、主イエスを歓待するどころか、このように言って、イエスにつまずくのです。

 大勢の人たちは「驚いた」とありますが、この「驚く」という言葉は、「怪しむ」とか「疑う」という言葉に訳すべき言葉です。またこの様なリアクションは、イエスの弟子たちをも驚きを与え、主の故郷と今まで行った土地で受けた扱いに大きなギャップがあることに、戸惑いを隠せなかったと思います。イエスの故郷の人々は、イエスの口から出る言葉と教えと知恵を怪しみ、その手で行われる奇跡を見て、感激するどころか、イエスを疑うのです。

 「この人は、この教えと知恵と力をどこで得たのか」という人々の問いは、彼らがイエスを無学な者であると人間的に見て、主イエスの教えと知恵と力は何故、何のために受けたのかを全く考えません。

 「この人は大工ではないか」という問いは、イエスをただの労働者の一人と決めつけている、すでに固定観念があったことが判ります。

 「この人はマリアの息子で、ヤコブたちの兄ではないか」との主張は、イエスの今までの生い立ちを彼らがよく知っていること、そしてイエスをごく普通の人と捉えている事が判ります。

 地元で育った「若造」の一人として人間的にイエスを見て、この人を受け入れること、信じることができなかった。「そもそも、無学な大工がシナゴーグで神の言葉を解き明かすことなどあり得ない。こんな知恵と力を持つはずがないと考え、目の前にいるメシア、救い主を受け入れる事ができなかったのです。私たちは、自分が持っている固定観念から解放され、自由になる必要があるのです。そうでないと、イエスを救い主と信じる事は大変難しいです。

 日々、私たちは神から数えきれないほどの恵みを受けて生かされていますが、その恵みに感動し、喜び、感謝することよりも、これがない、あれがないと不平不満を漏らしたり、

これは与えられるだろうか、これはうまく事が進むだろうかと思い煩い、神を疑うことをしていないでしょうか。主イエスは、「人々の不信仰に驚かれた」と6節にあります。

 その様な頑なな心は、些細なことに容易につまずきます。そのような心は、イエスを救い主と信じ、この主を仰ぎ見て、主と共に歩んでゆく事は難しいでしょうし、主イエスのなさる不思議な奇跡を見ることも、体験することもできないのです。信仰がないからです。

 ですから、私たちは自分の固定観念、人間の基準、尺度、そして人の外見だけで見て判断してしまう弱さを捨て去り、イエスを救い主と信じて委ねましょう。信じることによって、私たちは新しく作り変えられるのです。人間的には、イエスのことを知る事はできても、イエスを信じる事はできません。I know about Jesus と I know Jesus は全然違うのです。

 2018年は、今月2月14日から受難節(レント)が始まります。

 5節の「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」という主イエスの言葉の真意は、故郷の人たちに拒絶される事は、エルサレムでユダヤ人に拒絶されることの前兆と捉えていたということです。救うために来た人々に拒絶される主イエス。心が痛んだと思います。寂しさを覚えたと思います。しかし、主イエスは十字架への道を一歩一歩、父なる神を見上げて、全てを委ねつつ歩まれます。

 私たちの日々の生活でも、誤解されたり、理不尽な扱いを受けたり、心ない言葉を浴びる事があり、心が折れそうになる時もありますが、信仰を持って、主イエスを見上げつつ、日々与えられている多くの恵みを喜び、感謝して歩み、イエス・キリストを救い主と告白し、イエスを人々に分かち合ってゆきましょう。主イエスという神の愛を伝えてゆきましょう。