「救いが近づいているから」 六月第二主日礼拝 宣教 2019年6月9日
ローマの信徒への手紙13章11〜14節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。皆さんにとって、去る週はどのような一週間でありましたでしょうか。幸いなことがたくさんあったでしょうか。感謝なことや嬉しかったことよりも、心の休まらない大変なことの連続であった方もおられるかもしれません。しかしそれでも、今朝、このように礼拝へと招かれ、神様のみ前に置かれていることは幸いで感謝なことではないでしょうか。わたしたちの神様は、本当に素晴らしいお方です。わたしたちの必要を知り尽くし、順を追ってその必要を満たし、愛を豊かに注いでくださいます。
皆さんの中には、目まぐるしい日々を過ごされ、身も心も疲れ切ってフラフラな状態という方もおられるかもしれませんが、それでも神様はわたしたちを祝福するために最高のご計画をお持ちです。旧約聖書のエレミヤ書29章11節に「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。(あなたがたに)将来と希望を与えるものである」との神様の言葉が記されています。押し迫ってくる問題に日々恐れおののき、迫り来る災いに怯え、不安に押し潰されそうになることがあっても、恐れる必要は決してありません。主が共におられます。神様の愛は、私たちの恐れをすべて覆い尽くし、それを心から消し去り、代わりに平安と希望を与えてくださいます。わたしたちに大切なのは、主イエス様を信じ、神様の愛のうちに生きることです。
主イエス様は、十字架の苦しみと死を前に、残してゆかなければなければならない弟子たちに対して、ヨハネによる福音書14章27節で、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と励ましを与えました。神様と、そしてイエス様が素晴らしいのは、いつもわたしたちとその必要に心を配ってくださり、愛を注いで満たしてくださるだけでなく、いつも共にいて平和をくださると約束してくださり、その約束を必ず守ってくださるからです。
悲しみや恐れのため、信仰の目でイエス様が見えなくなっても、身近に感じられなくなっても、主自らが平安・平和を常に与えてくださると約束してくださいます。今朝の礼拝への招きの言葉として読んでいただいたヨハネによる福音書14章16節と17節に「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないで、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」と約束してくださいました。
今日は、その約束が果たされたことを喜び祝う日です。神様が主イエス様の代わりとして遣わすと約束してくださったご聖霊が、イエス・キリストを救い主と信じるすべての者たちに与えられた日、聖霊降臨日、ペンテコステです。この日から、イエス様を信じて従う者たち一人一人が神の霊であるご聖霊に満たされ、キリスト教会は誕生し、祝福のうちに成長し、その過程の中でイエス様に似た性質を持つ者たちとして整えられてゆき、勇気づけられて地の果てまでキリストの福音が宣べ伝えられ、この日本にもキリストの福音が伝えられ、この大久保教会は誕生し、わたしたちはこの教会で出会う恵みが与えられました。
さて、神様がわたしたちに約束されている重大なことがもう一つあります。それは、主イエス様がこの地上に再び来られるということです。ご聖霊が与えられたように、主の再臨という約束は必ず守られます。主イエス・キリストは必ず再臨されると使徒言行録に記されています。その約束が成就するまで、ご聖霊がわたしたちと共にいて、わたしたちを励まし、日々守り導いてくださいます。
わたしたちクリスチャンには、この大久保教会には、主イエス・キリストを救い主と信じることを告白し、主の恵みに与って生かされていることを証し、主の十字架の死とご復活による救いの完成を宣言し続ける使命が与えられています。この使命をわたしたちが忠実に果たせるように、ご聖霊がいつも共にいて日々励ましてくださり、助け導いてくださいます。この祝福に満ちた神様の堅い約束を信じ、感謝し、信頼して、忠実に歩んで行くことがわたしたちに求めておられる神様の御心です。
さて、今朝もローマの信徒への手紙から神様のみ声を聞いてゆきたいと思いますが、わたしたちに今回与えられている箇所は13章の最後の部分、11節から14節です。とても短い箇所ですが、主イエス様が再び来られるまで、わたしたち一人ひとりがこの地上でどのように生きることが神様の願い、御心であるのかという重要なことがはっきりと記されています。しかしながら、この箇所を読み、しっかりと理解するためには、主イエス様が再び来られるということはイコール、終末が来る、世の終わりが来るということを理解する必要があります。主イエス様が再び来られる時が近いから、あなたがたは日頃の備えと身の振り方・行いをしっかりしなさいとパウロ先生は勧めるのです。この箇所は、11節から12節の前半、そして12節の後半から14節までとはっきりと二つに分けることができます。
まず11節から12節の前半を読みます。「更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた」とあります。
11節に最初に、「更に」とあります。この「更に」というのは、先週聴きました「愛は隣人に悪を行いません」、「互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません」ということだけではなく、12章1節から13章10節の中でパウロ先生が勧め励まして来たキリスト・イエスを信じて従う者として、新しく聖なる生活を送りなさい、互いに尊敬しあい、助け合って平和に暮らしなさい、上に立つ権威に従いなさい、互いに愛し合いなさいということすべてが含まれています。
そして次に「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」とパウロ先生は書き記していますが、約2000年前にローマ帝国主義の只中に生きているクリスチャンたちに対してパウロ先生はそのように言いますが、「今がどんな時であるかを知りなさい」という意味の言葉です。では、この西暦2019年の今を生きているわたしたちは、今がどんな時であるかを正直知っているでしょうか。パウロ先生は「あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています」と続けて言っています。キリストが再び来られる時が一刻一刻と近づいているから、目を覚まして主をお迎えする準備をしなさいということです。
12節の前半に「夜は更け、日は近づいた」とあります。古代ローマの時代、人々は「夜」を悪い振る舞い・悪い生活態度、「日」を良い振る舞い・良い生活態度という分け方をしていました。しかし旧約聖書の時代、そしてユダヤ教では「夜」を神様が人々を救うために介入する時、「日」を主が裁かれる「主の日」と理解していました。パウロ先生は、神様に忠実な者には「救いの日」が近づき、不忠実な者には「主の裁き日」が近づいていると言います。
「だから」と12節の後半に記され、どのように生きるべきかが14節までに記されています。読みたいと思います。「だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。」
救いの日は日に日に、刻々と近づいている。だから、神様に不忠実な者は悔い改めて「闇の行いを脱ぎ捨てなさい。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨てなさい」と言い、神様に忠実な者に対しては更に「日中を歩むように品位をもって歩みなさい。主イエス・キリストを身にまといなさい」とパウロ先生は励ましています。「闇の行い脱ぎ捨てる」ことと「キリストを身にまといなさい」という二つの指導がされています。
「品位をもって歩む」というのは、いつも思慮深く、礼儀正しく、感情と行動を制御して生きるということです。つまり、いつも神様の御心を求め、神様に忠実に生き、周りの人たちに仕えるようにいつも心を配り、誠実に生きるということ、そのためにも自分に対しても嘘をついたり、ごまかしたり、無理したりしないで正直に、信実に生きるということです。そのために必要なことが「光の武具を身に着ける」ということと「イエス・キリストを身にまとう」ということです。「武具を身に着ける」ということに抵抗感がある方もおられると思いますが、闇の力と戦い、勝利を収めなければ、永遠に生きることはできません。主が戦ってくださいますが、自分も戦わなければ栄光の勝利を得ることができないのです。ですから、わたしたちは「キリストを身にまとう」必要があります。イエス様を身にまとうとどうなるか。イエス様がわたしたち一人一人の考え方や行い・行動を監督し、指導してくださり、歩むべき道を教えてくださるのです。つまり、主イエス様が神様の御心のままにわたしたちを歩ませてくださるのです。
感情と行動を制御できずに自分勝手に振る舞うことがパウロ先生の言う「闇の行い」であり、具体的には「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」です。先日の日高先生の宣教でも離婚の原因が「酒宴と酩酊、淫乱と好色」であると聴きましたが、このような誘惑はいつもわたしたちにつきまといます。ですから、いつも主イエス様を身にまとい、主と共に歩むことがわたしたちには必要不可欠なのです。「争いとねたみ」という言葉がこのリストに含まれているのは、次の14章でパウロ先生が触れようとしているテーマであるからですが、それは次回の宣教で触れたいと思います。
さて、最後にお話ししたいことは、クリスチャンであってもなくても、わたしたちの歩みと神様がわたしたちに歩んで欲しいと願う歩みには大きな開きがあり、わたしたちはそのギャップに苦しむということです。つまり、神様の御心に沿って歩みたいけれども、どうしてもそのように歩めない弱い自分がいるということに苦しみます。あるいは他の人と自分を比べてみて、自分はダメだと思ってしまったり、その反対に、人の行為が悪いように見えたら、その人を裁いてしまう、あるいは自分の方が良いじゃないと優越感に浸ってしまうことがあります。人と自分を比べること、人の持ち物と自分の持ち物を比べること、比較することは不幸の始まりです。ストレスを感じたり、無駄なエレルギーを消費してしまう、とっても残念なことです。イエス・キリストを身にまといなさいと今朝わたしたちは励まされていますが、イエス様を身にまとうというのは、イエス様に焦点を絞るということです。自分ではなくて、イエス様を中心としてゆくということです。わたしたちが日々の営みの中で行うすべての焦点をイエス様に絞るということです。それは、自分の力だけで生きるのではなく、主にいつも助けられて、励まされて、導かれて生きるということです。そのように私たちが生きてゆくことが神様の願いであり、御心です。イエス様を身にまとうと言うのは、神様の願い通りに生きる力が主イエス様を通して、ご聖霊を通して与えられるということです。神様がそのように生きる力を与え、そのように生きる者として愛を持って造り変えてくださるのです。イエス様を身にまといなさいという勧めは一生に一度のことではありません。自分の「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と14節の後半にあるように、欲望や誘惑に打ち勝ち、神様の愛で満たされるために、わたしたちは毎日イエス様をまとう必要があります。つまり、イエス様を救い主と信じて従ってゆく決心が朝ごとに、夕ごとに、日毎に必要なのです。そのようにできるように主が常に共にいて助けてくださいますから大丈夫です。この救い主を信じて、日々歩んでまいりましょう。主の恵みを数え、感謝して歩みましょう。