「救い主に礼拝をささげる」 クリスマス礼拝 宣教 2025年12月21日
マタイによる福音書 2章1〜11節 牧師 河野信一郎
おはようございます。メリークリスマス!2025年のクリスマスを皆さんとご一緒にお祝いすることができて、神様に心から感謝です。今朝は、イエス様を救い主と信じ、これからの人生イエス様に従ってゆく決心をされたKさんがバプテスマをお受けになられました。本人が一番感動され、喜ばれていると思いますが、わたしたち大久保教会にとっても本当に喜ばしき日です。本当に久しぶりのバプテスマです。神様のお導きと恵みに感動しています。
今日は、救い主イエス様の誕生とKさんが主イエス様の弟子として歩む新たな出発を皆さんと共に喜びたいと思います。この礼拝堂におられる皆さんが彼女の信仰生活のスタートを祝福してくださり、彼女がご主人のUさんと共に信仰生活を歩み続けることが出来るように、神様の伴いと祝福を祈り続けてくださいますようにお願いいたします。
今朝は、「救い主に礼拝をささげる」と言う主題で、神様からわたしたちに注がれている愛と慈しみを分かち合いたいと願っていますが、「キリストに礼拝をささげる」をラテン語にしますと「クリストマス」となります。「クリスト」はキリストです。「マス」は礼拝という意味です。「救い主」はラテン語で「サルバトアー」ですので、「救い主礼拝」は「サルバトアーマス」になりますが、キリスト・イエスがわたしたちの救い主であり、この方に礼拝をささげるという信仰を表す中で「クリスマス」となるわけです。ですから、クリスマスはイエス・キリストを救い主と信じて、心からの礼拝をささげるということが本当の意味です。
クリスマスに、大切な人に何か贈り物をあげたり、大切な人からプレゼントを受け取ったりしますが、そのような風習が地球上で始まったのは、聖書に記されているイエス様の誕生物語の中で、東の国からはるばる来た博士たち、占星術の学者たちが、イエス様に数々の贈り物をささげたということに由来しています。ですから、クリスマスにプレゼントをもらうことを喜ぶ人は、この博士たちに感謝すべきで、誰かにプレゼントを贈ることが経済的にも大変だという人は、博士たちにクレイムを出すべきで、クリスマスに金儲けをしているすべての業種の企業・会社は、その売り上げの一部を博士たちに毎年還元すべきだと考えます。
さて、マタイによる福音書は、ユダヤ人を対象に書かれ、ユダヤ人にイエス様をメシア・キリストと信じて欲しいという願いから記されましたが、その第2章を読んでゆきますと、皮肉なことに、イスラエルの王として救い主がお生まれになられたことをユダヤ人本人たちは拒絶し、ユダヤ人でない異邦人の博士たちが遠路はるばる礼拝に来たということが記されています。ユダヤ人たちはベツレヘムに生まれた赤ちゃんに礼を尽くして拝むことに価値はないと判断したようです。しかし、東方から来た博士たちは、異邦人であるにも関わらず、この幼子には礼を尽くして拝む価値があると信じたのです。そして、たくさんの時間と財力と体力と努力を費やしてもなお、イスラエルの王としてお生まれになられた幼子を探しだし、救い主と信じて礼拝をささげるのです。凄いと思いませんか。わたしは凄いと思います。
しかし、「へ〜、凄いね。」だけで終わってはいけないのです。ここでわたしたちが探究すべきは、わたしにとって、イエスという人物は礼を尽くして拝むべき存在であるのかということです。貴重な日曜日のお休みを犠牲にしてまで拝むだけの価値が本当にイエスにあるのかという追求です。それでは、どのようにしてその探究、追求ができるのかということになりますが、それはイエスの誕生物語が記されているマタイとルカ福音書を歴史的な資料として読み、そこに頼らざるを得ません。ですので、今週水曜夜にささげるクリスマスイブ礼拝ではルカによる福音書2章からイエス様を礼拝することに本当に価値があるのかを聴き、今朝は同じことをマタイによる福音書2章から聴きたいと願っています。1節から読みます。
「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」』」とあります。
ヘロデ王が不安を抱いたのは、自分が用なしなると思ったからです。地位も権力も財力もすべて失う、もしかしたら命まで奪われるかもと不安になったのです。エルサレムの人々が不安になったのは、ヘロデ王と新しい王が戦争をしたりすると自分たちが犠牲になるかもしれないと不安になったのでしょう。ローマ帝国に支配されてはいるけれど、そんなに影響もないので現状維持のままで良くて、劇的な変化が起こることを避けたかったのかもしれません。
博士たちがエルサレムに来た理由として考えられるのは、王様であるから首都のエルサレムであろうと思ったということですが、最大の理由は、王の誕生を知らせる「星」を彼らが発見したから、その星に導かれてきたのがエルサレムであったのです。宇宙には数え切れない程の星が存在しますが、そのうちの一つの輝く星が博士たちをエルサレムへと導いた。その星を煌々と輝かせたのは太陽ですが、神様がその太陽を創られたので、神様が博士たちを導かれたと言って良いと思います。つまり、選民ユダヤ人だけではなく、異邦人であるすべての人の王となるために、すべての人々の救い主としてイエス様はお生まれになられたということです。
7節から読みます。「そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」とあります。
博士たちが王の宮殿から出て夜空を見上げると「東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」とあります。つまり、神様が星を用いて博士たちを救い主のもとへグイグイと導き、彼らは無事に救い主のおられる場所ベツレヘムにたどり着くのです。神様は、なぜ彼らを無事にイエス様のもとへ導かれたのでしょうか。理由は簡単です。イエス様がすべての人の救いのために生まれた救い主であり、わたしたちが礼を尽くして拝むべきキリストであり、神であるからです。
11節に、博士たちが「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。」とあります。異邦人たちがイエス様の前にひれ伏して拝みます。救い主と信じての行動です。礼拝の中で、彼らは宝の箱を開けてたくさんの贈り物をしたのですが、そのうちの黄金、乳香、没薬が特別に紹介されています。この3つの贈り物には深い意味があるからです。
現代人は金を装飾品として気軽に身につけますが、イエス様の時代、「黄金」は王様だけが身につける物でした。それがイエス様に贈られたということは、つまり、イエス様はわたしたちの王であるという信仰の告白、感謝と喜びに満ちた告白として黄金が贈られたのです。
次に「乳香」ですが、当時、祭司が神殿で神様にささげる薫香として乳香が用いられました。これに火を付けますと良い香りと共に煙が出て神殿の上へ上ってゆきます。その煙が地上の人間と天におられる神様を結ぶもの、執り成すものと考えられていました。わたしたちは神様に対して罪を犯し、神様から離れて生きる者でしたが、イエス様はわたしたちを神様に再びつなぐため、結ぶために来られた救い主であることを示すために贈られたのです。
「没薬」ですが、これは普通、幼子の誕生祝いにあげるようなものではありません。古代エジプトではミイラ作りの際に使用される薬、また鎮痛剤として使用されていました。興味深いのは、この「没薬」という言葉が福音書の中で出てくるのは、イエス様が十字架に架けられて死なれる前の時です(マルコ15:23、ヨハネ19:39)。つまり、イエス様の誕生を祝う贈り物の中に、イエス様の十字架の備えがすでになされていたということです。
イエス様はなぜ十字架に架けられて壮絶な死を遂げなければならなかったのでしょうか。それは、わたしたちの身代わりとして、その死を持って罪の代価をすべて支払ってくださるためです。わたしたちがイエス様を救い主と信じる信仰によってすべての罪が神様によって赦され、救われ、神様の子としての身分が与えられ、神様と永遠に生きるためです。イエス様は、わたしたちを愛して、すべてを与えてくださいました。ですから、わたしたちはイエス様に礼拝をおささげし、わたしたちの心とすべてをささげるのです。イエス様は、わたしたちの賛美と礼拝と献げ物をお受けになる価値のある救い主なのです。この救い主を皆さんと一緒に礼拝することができて感謝です。メリークリスマス!
