「敬うことができる喜び」 五月第二主日礼拝 宣教 2019年5月12日
ローマの信徒への手紙13章1〜7節 牧師 河野信一郎
今朝は、13章1節から7節を通して、わたしたちには「敬うことができる喜び」が神様から与えられているということをお話させていただこうと願っています。
しかしながら、皆さんの中には、先ほど司式者の原執事に読んでいただいた聖書の内容は、見出しにも「支配者への従順」とありますように、上に立つ権威にわたしたちは従わなければならないという実に面倒くさいと言いましょうか、関心がないと言いましょうか、あまり嬉しくないことが記されていて、自分としてはあまり歓迎できない内容と正直感じられる方もおられるかもしれません。確かに、最初はそのように聞こえるかもしれませんが、それでもここから、わたしたちには敬うべき人がいる、敬うべき人を敬うことができる、敬うべきものを敬えるという喜びが神様から与えられているというメッセージを今朝ご一緒に聴きとってゆければと思っています。
今朝の宣教の到達地点は、すべての事柄は神様のご計画の中にあって、わたしたちはそのような神様のご支配の中で、互いに敬い合うために生かされているということを心にとどめ、敬うことができる恵みを神様から与えられていることを共に喜んで、日々共に歩んでゆこうということになります。
さて、これまで皆さんが歩んでこられた人生の中で、心から尊敬している方が皆さんにはおられると思います。何人おられるでしょうか。あなたが尊敬している人の数が多ければ多いほど、あなたは本当に幸いな人生を歩んでこられたと云うことができると思います。あなたが尊敬している方の中には、すでにこの地上での生涯を終えられた方もおられるかもしれません。ご存命でも、そうでなくても、その方々からたくさんの感化、良い影響を受けられ、今のあなたがおられるのだと思います。
若い方々は、尊敬できる人がそんなに多くないと言われるかもしれませんが、これからの人生の中で、心から尊敬できる人と出会ってゆかれるのだと思います。神様がそのような素晴らしい出会いを祝福とご計画の中で備えてくださっていると信じます。楽しみにしていて欲しいと思います。
さて、皆さんが心から尊敬されてきた方、いま尊敬されている方々は、何故それほどまでに皆さんに尊敬され、大切にされているのでしょうか。皆さんは、いま心に思っている方々を何故それほどまでに尊敬しておられるのでしょうか。それは、先ほども言いましたように、皆さんに良い影響を、感化を与え、あなたの生き方に違いと言いましょうか、素晴らしい変化、変革を与えてくれたからかもしれません。
しかし、皆さんが尊敬しているご本人は、実に当たり前のことをしたまで、と思っておられると思います。何も特別なことをしたわけではなく、自分に委ねられた責任をそのまま自然体で全うしたのみ、と思っておられると思います。わたしたちが尊敬する人は、ご自分では当たり前のことと思っておられても、わたしたちからしたら、その方の誠実さによって励まされ、今の自分がいる。この方がおられなかったら今の自分は存在し得ないと思っている、そういう関係なのだと思います。
わたしたちが尊敬する人、敬う人は、父親であったり、母親であったり、学校や大学の恩師であったり、親友であったり、職場や専門分野の先輩であったり、芸術家や音楽家、スポーツ選手、様々な方がおられると思います。そういう尊敬できる人がわたしたちに与えられていることは、本当に幸せなことだと思います。
しかし、ご自分が生活しておられるこの国の政府・政権であったり、政治に司る人を尊敬し、日々従っているという認識は皆さんにあるでしょうか。パウロ先生は、13章1節で「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と言っています。それだけでなく、「神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」というのです。
この13章の1節から7節では、キリスト者として、政府・政権とどのように向き合い、政治に対してどのように責任を持つのかが記されています。自分の考えや理念ではなく、神様はなんと言っておられるのか。それを聖霊の励ましと導きの中で手紙を記したパウロ先生の言葉を神様からの語りかけとして聞き、どのように生きることがわたしたちにとって大切なのかを教えられたいと思います。
しかし、わたしたちがまず覚えておかなければならないことは、パウロ先生が手紙を書き送ったクリスチャンたち、イエス・キリストを救い主と信じて従うキリスト者たちは、1世紀にローマ帝国のもとに生きる人たちであったということです。ローマ帝国というのは、とても巨大な帝国でした。当時のローマ帝国は、人間の力、つまり人間の最も強力で、強烈で、最も無慈悲な力を描写するものであったわけです。ジュリアス・シーザーをはじめ、皇帝カエサル(カイザー)という独裁者がいました。彼らの考えは、ローマとその味方に対しては手厚くし、敵は木っ端微塵に葬り去る。そういう力のある独裁政権であったわけです。しかし、ローマ帝国で手厚い恩恵を受けるのはほんの一部の国民であって、多くの人たちは奴隷でありました。また、ローマ帝国では、「カエサルが主」と信じ込ませられていましたが、キリスト者は「イエス・キリストが主」であると告白しましたから、そこに摩擦が生じ、キリスト者に対して残忍な迫害が行われました。そういう政権、政府に従うべきとパウロ先生は言っているのでしょうか。神様は、そのようなお考えなのでしょうか。
しかしながら、そうではないようです。この箇所には、特定の人の名前や特定の政権の名前は一切記されていません。つまり、この箇所は第一に2019年に生きるわたしたちにも適応できることが記されているということです。第二に、パウロ先生は「わたしたちの上に立つ権威がわたしたちには必要で、その権威に常に従うべき」だと言っているということです。人の命を脅かす有害な政権、国民の平和と繁栄のために仕えない政府には従わなくてもよくて、人権や平等を大切にする政権や政府には従いなさいということでもない。「神に由来しない権威はなく、今ある権威は全て神によって立てられたものだから」とあります。
これはつまり、特定の政権や政府がすべての主権を持っているのではなく、絶対的な主権は神様にある、だから神様の御心から離れ、国民に害を与える政権や王権に対して、旧約聖書の時代には、神様はしっかりと裁きを行ったことが明記されています。ですから、神様はすべてをしっかり見ておられて、知っておられるということです。そういう意味において、わたしたちの上に立つ権威は、神様の許しのもとにあるということです。それは現代の日本の政治、政権においても言えることで、絶対的主権は政治を司る人にあるのではなくて、神様にあるということです。ですから、2節に「権威に逆らう者は、神の定めに背くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう」とあります。しかしこれは、今の政権に対して盲目的に従うのではなく、政権の動向を日々注視して、神様のご計画と主権を信じて、祈りつつ、忍耐強く従うということだと思います。
そういう中で重要になるのは、わたしたちの上に立つ権威が何故わたしたちに必要であり、何故その権威にわたしたちは従うべきと言われているのか、その理由と目的を知ることだと思います。それが分からなければ、わたしたちは信頼を持って従順に従うことはできません。その理由として、パウロ先生は3節と4節でこのように書き記しています。
「実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなくてはなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りを持って報いるのです」とあります。
ここでパウロ先生が言っていることは、権威を持つ者たちの責任というのは、国とその社会の中で、規律と秩序、治安と社会体制を保つことであり、そのために神様によって定められ、立てられているということです。つまり、正義と平和を保つために権威を持つ者たちが立てられている、だからその権威に従いなさいと言っているわけです。国の秩序と平和を保つために憲法や法律があります。それらは一部の人たちにだけ恩恵をもたらすためではなく、すべての国民、日本に生きるすべての人の人権が守られ、生活が平和のうちに保たれ、平等に同じ恩恵を受けるためです。
今の日本の政治家や行政に携わる方々の多くは、神様に仕えるために働いているという認識はないと思いますが、それでも神様のご計画のために用いられている存在です。この国の平和のために、ある程度の力、権威、治安を守るために剣を身にまとっています。権威をもって国民の上に立つ人たちは、自分たちの役割を認識しているはずです。そしてわたしたち国民もそれを認識し、その働きを尊重しなければなりません。剣を持っていることを恐れなければなりません。どんなことであっても、法律を破ることをしてはなりません。彼らは「いたずらに剣を帯びているのでは」ありません。恐れなければなりません。もし権威を持つ者が委ねられた責任を逸脱するような越権行為をするならば、神様がちゃんと裁かれます。
次の5節にこのようにあります。「だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです」とあります。ここで注目すべきは、わたしたちの「良心のためにも」従うべきということです。
先ほど言い忘れましたが、子どもは親に従う必要があります。何故ならば、主なる神様が親に子ども託し、子どもを育てる責任を与えたからです。もし親がネグレクト、責任放棄したら、神様が社会体制を通してその親を裁かれます。また、子どもが親に従う時、親に対する恐れから従うのでなく、親の言うことが正しいと信じるから従うわけです。つまり、親は親としての責任を果たし、子どもは子どもとしての責任を果たす、それがお互いの良心のためにも最善なことであるということです。ごく当たり前のことをしている感覚で、責任を果たすという認識がなくても、神様に仕える者として用いられていて、そういう認識があれば、その働きによって神様は喜ばれ、益々神様は誉めたたえられます。
6節から7節を読みます。「あなたがたが貢を納めているにもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」とあります。この国を平和のうちに動かし、人々の生活を守るためには、わたしたちに果たすべき責任があります。税金を納め、国民として果たすべき義務と責任があります。
確かに、日本国憲法では、信教の自由を保障するために、政治と宗教が相互に介入し合うことを禁止しています。厳格な政教分離の原則が憲法20条と89条などで採用され、国や地方公共団体が特定の宗教に特権を与えたり、財政的援助を供与したり、自ら宗教的活動を行ったりすることを禁止しています。だからと言って、政治に携わる人たちのために、彼ら、彼女らを通して神様の御心が成りますようにと祈ることは禁止されていません。ですから、たとえ公の場でなくとも、そのために祈ることが大切であると思います。それが「上に立つ権威に従う」ということであり、敬うということではないかと導かれます。祈る時は、公の場を避ける方が良いと思います。何故ならば、公の場にいる人の価値観はすべて同じではないからです。
わたしたちには、敬うべき存在がたくさん与えられています。そのことをまず感謝したいと思います。敬うべき存在同士がお互いを尊敬し合い、高め合う時に、神様の助けを受けて、神様の御心にかなった平和を共に作り出してゆくことができるのではないでしょうか。お互いを敬うことができることは、なんと幸いなことでしょうか。神様の愛とご支配の中で、互いに敬い合うために生かされているということを感謝し、敬うことができる恵みを神様から与えられていることを喜んで、日々共に歩んでまいりましょう。