新しい契約を主なる神と結び、祝福されて生きよう

「新しい契約を主なる神と結び、祝福されて生きよう」十月第四主日礼拝 宣教 

 エレミヤ書 31章27〜34節     牧師 河野信一郎     2025年10月26日

 

おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる幸いを感謝します。今日は、全国的に気圧変化が激しく、頭痛やめまいがあるとのことです。教会の家族の中にも影響を受ける方々がおられますので、守られるようお祈りいたします。さて、先週19日から配信ソフトが更新できないために礼拝のライブ配信ができておりません。今夜の夕礼拝も配信できないと思われますが、神様の憐れみの中で再開できますようお祈りいただければ幸いです。

 

さて、今朝もエレミヤ書から神様の語りかけを聴いてゆきたいと願っていますが、今朝は31章に聴きます。先週の礼拝の中で共に聴きました29章までは、神様と交わした契約を忘れ、偶像礼拝に走ったユダとイスラエルの民に対して、悔い改めて神様に立ち帰りなさいという励ましの言葉が預言者エレミヤを通して語られましたが、それでも心頑なに神様に立ち帰ろうとしない民に対して「あなたがたを裁く」と言われた神様の言葉がありました。

 

その裁きの担い手として神様は北の大国・バビロニアを用いて南ユダ王国を砕き、エルサレムは陥落し、王をはじめ社会的な地位や学位のある者たち、大工などの技能者たちがバビロンへ捕囚の民として連れて行かれ、そこで70年間、苦しみを耐え忍ぶことになります。

 

しかし、29章から徐々に状況が良い方向へと変わります。29章10節には、捕囚の民に対して、「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。」と神様はエレミヤを通して約束されます。神様に対して自分たちが犯した罪の重大さを覚えさせるために、70年間は苦しみ耐えなければなりません。そして悔い改めて心を入れ替えなければなりません。

 

そのような民に対して神様は29章12節から14節で次のように言われます。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる。」とあります。これが先週わたしたちが共に聴いた神様からのメッセージです。

 

今朝は31章に聴きますが、前の章の30章から33章までは、その捕囚の苦しみから解放されてエルサレムへ帰還できるという預言、エレミヤを通して神様が希望を告げる預言が記されています。30章からポイントを少しかい摘んでお話したいと思います。お手元の聖書のエレミヤ書30章をお開きください。まず3節に、「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る、と主は言われる。主は言われる。わたしは、彼らを先祖に与えた国土に連れ戻し、これを所有させる。」という神様の救いの言葉、約束の言葉があります。

 

8節から11節には、「その日にはこうなる、と万軍の主は言われる。お前の首から軛を砕き、縄目を解く。再び敵がヤコブ(イスラエル)を奴隷にすることはない。彼らは、神である主と、わたしが立てる王ダビデ(新しい王、牧者、救い主)に仕えるようになる。わたしの僕ヤコブよ、恐れるなと主は言われる。イスラエルよ、おののくな。見よ、わたしはお前を遠い地からお前の子孫を捕囚の地から救い出す。ヤコブは帰って来て、安らかに住む。彼らを脅かす者はいない。わたしがお前と共にいて救うと主は言われる。」とあります。18節から22節も基本的に同じことが約束されていますが、22節には「こうして、あなたたちはわたしの民となり、わたしはあなたたちの神となる。」という言葉で締め括られています。

 

さて、31章ですが、その前に皆さんに質問です。皆さんは夢をよく見られるでしょうか。わたしは眠りが深いせいでしょうか、めったに夢を見ませんが、わたしの姪が「昨日嫌な夢を見た」と言っていましたので気になります。夢には色々なものがあります。悪い夢もあれば、楽しい夢もあります。主なる神様は、夢を通してわたしたちに語られる時があります。しかし、サタンも夢を通してわたしたちの心をがんじがらめにすることもありますので、正しい夢の解き明かしが必要となります。不可解な夢を見たら、ぜひご相談ください。共に神様に祈りながら、聖書の御言葉と照らし合わせながら、夢の意味を探してみましょう。

 

横道に外れましたが、31章26節によりますと、この31章1節から25節までの内容は、預言者エレミヤの夢の中で、神様が彼に語られた言葉です。「ここで、わたしは目覚めて、見回した。それはわたしにとって、楽しい眠りであった。」とあります。

 

神様は夢の中でエレミヤに語り、1節から5節で次のように言われます。「そのときには、と主は言われる。わたしはイスラエルのすべての部族の神となり、彼らはわたしの民となる。主はこう言われる。民の中で、剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける。イスラエルが安住の地に向かうときに。遠くから、主はわたしに現れた。わたしは、とこしえの愛をもってあなたを愛し、変わることなく慈しみを注ぐ。おとめイスラエルよ、再び、わたしはあなたを固く建てる。再び、あなたは太鼓をかかえ、楽を奏する人々と共に踊り出る。再び、あなたはサマリアの山々にぶどうの木を植える。植えた人が、植えたその実の初物を味わう。」と。

 

ここでの注目ポイントは「再び」という言葉です。今でも70年はかなり長い年月です。当時の民にとって、70年という捕囚期間は永遠という感覚であったかもしれませんし、絶望しかなかったかもしれません。しかし、主なる神はそのような絶望的な中から、「再び」、イスラエルを安住の場所に連れ帰って、そこで祝福すると約束されるのです。31章16節と17節では、「主は言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報われる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る。」という主の約束があります。神様の愛と慈しみがイスラエルに故郷への帰還を与えるのです。主のみ名を賛美します。

 

今朝のエレミヤ書31章27節と28節に、「見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る、と主は言われる。かつて、彼らを抜き、壊し、破壊し、滅ぼし、災いをもたらそうと見張っていたが、今、わたしは彼らを建て、また植えようと見張っている、と主は言われる。」とあります。「見張る」とは計画するという意味でしょう。その罪のためにユダとエルサレムから民は抜かれ、社会は壊され、町は滅ぼされたが、神様がユダとイスラエルを再び建て、捕囚の地から本来あるべき土地へ植え替えるという計画を神様はずっと持っておられたのです。そこに神様の愛と慈しみがあるのです。

 

さて、次に注目したい神様の言葉は、「息子たち」という言葉です。この言葉は16節と17節にありましたし、30章10節では、「お前の子孫を捕囚の地から救い出す」とあります。子孫と息子は同意語です。何故この「息子たち」、「子孫」という言葉に注目するのかと言いますと、29節に「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く』」という言葉があるからです。これはいわゆる因果応報の思想、先祖の罪の代償はその子孫も負わなければならないという考え方です。しかし、神様はこれを全否定します。30節に、「人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。」と言われます。バビロン捕囚は一世代限りの裁きであり、神に背いた者たちの罪はその者たちが負うもので、その子孫まで先祖の罪を問わないということです。

 

31節をご覧ください。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」とあります。神様によってイスラエル、ユダの地、またエルサレムに連れ戻される息子たち、娘たちと新しい契約を結ぶと神様は約束・宣言されるのです。この「新しい契約」(ブリート・ハダーシャー)というヘブル語は旧約聖書の中でこの箇所にしか記されていない特別な言葉であると注解書にありました。新しい契約は特別なのです。

 

32節と33節に、「この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」とあります。

 

そして、この31節の預言の言葉はイエス・キリストにおいて成就したのです。イエス様の十字架の死を信じ、イエス様の復活を信じることが神様と新しい契約を結び、祝福されて生きることなのです。ルカによる福音書22章20節に、イエス様が弟子たちと最後の晩餐を取り、杯を配る箇所がありますが、そこでイエス様は「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」と言われました。繰り返しになりますが、神様と新しい特別な契約を結ぶとは、わたしたちの罪の代償をすべて支払ってくださるために、神様への供え物として十字架にかけられて死なれたイエス・キリストを救い主と信じることなのです。ただ契約を結ぶだけではいけません。契約を守らなければなりません。すなわち、神様の言葉に聞き従う、つまりイエス・キリストの言葉を心に刻み、その言葉を日々守って生きることが神様との契約を守りながら生きるということなのです。

 

34節に「そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」とありますが、「そのとき」とはイエス様を救い主と信じて心の中心にお迎えする時です。また「主を知れ」とありますが、主イエス様を知るということは、ただ単に知識として知るのではなく、主を愛し、主の言葉に忠実に聞き従うということです。イエス様と交わって、御言葉を味わって、イエス様を深く知る時、わたしたちは神様とイエス様にどれほど強く愛されているかが分かるようになり、大きな喜びに満たされ、平安が与えられ、希望という力が与えられるのです。